死して互いの為になる

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 食事がまずい。  息を止めてナイフで切り分けた生焼けの肉を口に運び、赤く揺らめくグラスの中を飲み干す。大きく呼吸をすると一気にまずさが戻ってくる。ぜんぶ吐きそうだ。でも食べなければ、目の前で僕を見つめる妻に申し訳ない。  無理に喉の奥に押しやった。涙がボロボロ零れた。  僕は普段料理をしない。実家にいる時も一人暮らしを始めた大学の頃も自炊してこなかった。苦手意識はあるけど、それよりめんどくさかったし、何より周りにご飯を作ってくれる人が必ずいたからやってこなかった。ついこないだまでは。  先週妻が亡くなったのだ。いつもの時間に起きてないのを心配してベッドへ行ったら昨晩就寝の言葉を交わして時は何ともなかったのに血の気無い顔で仰向けに横たわっていた。持病はなかった、突然死だった。  気づけば瞬きの間もなく想像の埒外の朝に成り代わる。僕は妻を寝かせたまま泣き倒れた。  涙と共に思い出が溢れた。僕は妻が大好きだった。いや今も大好きだ。緊張ではち切れそうな心臓で告白した時からちょっとの自信を手にしてプロポースして、ささやかな結婚式を挙げてから、ずっと。  だけど、妻と一緒に僕の精神も気力も感情すら抜け出してしまった気がした。子供はいないし、天涯孤独の妻には身内もいなかった。  僕一人、生きる意味なんてあるのか? 憂鬱が背中に覆い被さってのし掛かってくる。身体の中心から黒く染まっていく感覚が己の死を求めた。 「ぐぅぅ」  お腹がなった。誰にも聞かれていないのに恥ずかしくなる。死にたくなっても体は無関係に動いているんだと文字通り身を持って知った。  カーテンの開いた部屋に月光が差していた。思い出にまみれて一日が経過していた。腹も減るわけだ。  けど何か食べる気はしない。頭と心、食欲は別物なんだ。  このまま餓死してもいいかもと思った。  腹の虫の鳴き声が命の儚さを表わすようだった。 ――それから5日経った。2日目の終わりには腹が鳴ることもなくなり鏡を見なくても頬が痩けてるのがわかる。水だけは飲んできたけど、もう意識の限界に来てた。  ほとんど動かず寝室に籠もる毎日で体も硬直している。急に立つのは無理だ。それでもぼやけた意識の解像度をぐっと上げてみれば、顔の前にむわっと臭いが舞った。もぞもぞと布団を動かせば動かすほど臭いが滲んでくる。嫌な臭い、しかし久しぶりに嗅いだ刺激的な香りは押さえつけた食欲を起こした。  食べ物…たべもの……力弱く毛布を剥ぎ取り出てきたのは白いまま仰向けになる妻ではなく、パジャマから覗く胸元が黒ずむ死体だった。  社会に一瞬で引きずり戻された気分だった。忘れてたんじゃないけれど、妻は死んでいて自然に帰ろうとしている。暖房がフル稼働する屋内で腐敗が着々進んでいたのだ。  僕は直視できなかった。この現実にもう一秒でも早く立ち去りたくなったのだ。生きる目的はない、愛する妻は今も腐っていく。現世に未練はかけらもなかった。  けど、妻をこのままにもしておけなかった。一足先に旅立った彼女を追いかけるのは良いが、妻の体を見ず知らずの他人の手に委ねるなんて鳥肌が立つ。それにこの状態を誰かに見せたら法廷行きだろう。  僕は栄養不足の脳で考えた。己の2つの願い―自死と遺体処理―を叶える方法はないのか。  2つのキーワードで記憶に検索をかける。一つだけ結果に表れた。 僕は作家という職業上、様々な書籍を読む。テレビも見るし動画サイトも利用する。だからいつどこで仕入れた情報かはわからないけれど、現状に合致する方法が見つかった。  これしかない。なら早くやってしまおう。人生最後の大仕事に気合いを入れて数日ぶりに腰を上げた。包丁、鋸、まな板、フライパン、鍋も必要だ。塩こしょうと砂糖も用意しよう。あとは食材をキッチンに運ぶだけだ。妻と最後の晩餐が始まる。  疲労困憊の体で慣れない料理は堪える。体力仕事であり、頭も使う。普段の僕がどれだけ運動不足だったか思い知らされるし、妻にかけていた苦労を痛感した。  調理中も妻はじっと見守ってくれる。笑うことこそないけれど、光無い瞳は「猫の手にしないと指切るよ」とか「鍋の火が強すぎる」って厳しく僕を叱ってくれるようで、安心した。  食べやすい大きさに切り分けた具材をフライパンで火にかける。煙と一緒にキッチンに立ちこめる臭いが鼻を刺す。昔妻とインドに旅行したときに見た、ガンジスの川岸で行なわれてた火葬を思い出した。  仕上げに塩こしょうをお好みで。盛り付けたレアのステーキと生搾りの赤黒いジュースを妻の待つテーブルに運ぶ。 「いただきます」  僕一人手を合わせて、フォークを手にした―― 「やっぱり料理苦手だな」  何を言ってもテーブルに乗る妻の顔は変わらない。  一皿と一杯食べ終えるのに1時間かかった。調理に手こずって窓の外は薄明るくなっていた。  昇る太陽が僕と妻を徐々に照らしていく。彼女の蒼白の顔は黒と紫と茶色が大小の水玉模様を描いていた。  愛する者を体内に入れて本当の一つの存在になることはできたのかな。絶え間なく襲う吐き気と闘いながら、僕は海外の伝説にヒントを得た方法とその出来を反芻した。  消化が進んでいくのが少しだけ怖かった。胃から全身に毒が回った気がする。死んだ妻の身体は時間と自然の作用で毒素の塊に置き換わっているだろう。  それでも僕の望みは達成出来そうで、安堵してもいた。椅子に体重を預ける。お腹の激痛が前進する死の道の行程を知らせてくれた。  頭には痛みと死と妻のことしか浮かばない。たまに来世のことを考えた。いつになるかわからないけど、もう一度妻と出会えるかな。愛し合うことはできるかな。次は一緒に死ねるかな。  痛みがフェードアウトしていく。感覚でいよいよ死ぬんだとわかった。最後にひと目だけ妻の顔を見たいと思ったが、もう瞼を開ける力は尽きていた。代わりに妻との再会を強く願うことにする。  一月位前からしていた隣の部屋の異臭がひどくなっている。  3回目の連絡をされたマンションの管理人はそれでも行くのを渋っていた。何度か経験した鮮烈な臭いと光景が蘇っているからだ。しかしこれ以上放置しても後々苦労するばかりなので合い鍵を持ってその部屋へ出向いた。  部屋には確か仲睦まじい若い夫婦が暮らしている。エレベーターを降りるとまだ距離があるのに臭気が廊下に漏れていた。  袖で鼻を押さえて部屋の鍵を開けた。玄関から分かる、これはもうダメだ。管理人はすぐ部屋を閉じて110に電話した。  管理人は2人の警察官とともにもう一度部屋に入った。中は冬とは思えないくらい蒸し暑く、全員が顔をふさぐ。  半開きのリビングのドアを通る。部屋の窓は閉め切られエアコンが暖かい風を吐いていた。2人掛けの小さなテーブルに倒れ込む男性の遺体が、そして包丁やまな板が放置されたキッチン、隣の寝室には上半身の肉がごっそり無くなった仰向けの首無し女性が寝ていた。管理人は慌てて外に逃げた。 「これはひどいね」  慣れた感じで呟く警官も表情は険しかった。一人は部屋を出て仲間と連絡を取っていた。もう一人は男性の体を調べ始めた。見た目外傷はなく女性と違って事件性は低そうだ。  警官が遺体男性をそっと起こした。お腹を押さえるように固まる男性の両腕に、著しく腐敗した女性の頭部が抱きかかえられるように収まっていた。その頭部を中心に白い蛆虫が数多く蠕動していた。  目を背ける警官は遺体男性をそのままテーブルに戻した。  その時、どこに潜んでいたのかプーンと羽音を立てる真っ黒な蝿が2匹、遺体の背中に降り立った。  2匹は互いに向かいあい、キョロキョロと首を回して見つめ合う。寒さを紛らわすように共に手をこすり、連れ添うように遺体の上を散歩する。  ひとしきり歩き回った後、2匹は警官の顔をかすめるように横切りドアから外へ飛び去った。  はたしてこれは夫婦の魂が蝿に転生して復活したのだろうか。  知るよしもないが、儚い2つの命は今も死を求めて空を飛ぶ。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!