アリの歌、キリギリスの働き

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「チェーンの外れた自転車を漕いでるみたいなんだ」  火のついていない煙草を片手に、勇翔は言った。 「なんとかしなくちゃ、先へ進まなきゃって思いとは裏腹に、身体が全然動かないんだよ」  そのビルの外階段はトイレに負けず劣らず薄汚れていて、そしてひどく寒かった。霧のような雨が地表を静かに、だが容赦なく打ち据えていた。  けれどもこの、身体が芯から冷えてゆくような感覚は、決して雨のせいなどではなかった。 「薬が手放せないって……なんというか、そんなに……重いのか?」 「あ、変に心配しないでくれよな。さっきも言った通り、入院が必要なほどじゃないし、調子のいい時には仕事にも行けてる」  それから、間を置いて、 「ただ……そうだなぁ。ひどい時には布団から出ることさえできない。嫌なもんだね、あれは。自分がこの世で最も価値がないクズみたいに思えてくる」 「そんなことない」  反射的に、大きな声を出してしまった。 「そんなこと言うなよ、お前は……」  いつだって俺より器用で、それでいて人一倍努力をしていて、多趣味で話も面白くて、誰よりも魅力に富んだやつじゃないか。  俺なんかじゃなくて、お前がプロのミュージシャンを目指してくれていたらと、何度思ったことか。  そう、続けるつもりだった──けれど、臆病な俺は躊躇ってしまう。  今それを伝えていいのか? あるいは勇翔を追い詰めたのは、そうした周囲の無責任な期待じゃないのか?  俺にだって覚えはある。事あるごとに「いつになったら孫の顔を見せてくれるのか」と迫る両親。隙あらば仕事や結婚に関して、余計な詮索をしてくる親戚や実家のご近所さん。社員登用をちらつかせては、シフトを増やすよう要求してくる職場。  周囲の期待が高まれば高まるほど、背負わされる責任はより大きくなる。  ましてや勇翔のような、成功者ならば尚更だ。  俺はもう、親友の顔をまともに見ることさえできなかった。ずっと胸元ばかりを見つめていた。まるで目を背けることで、自分の中にいるもう一人の勇翔を──美化された思い出を組み合わせて生成した偶像を、守ろうとするかのように。  勇翔の胸ポケットにはポケットチーフが挿さったままだった。見るからに高級そうな、白いシルクのポケットチーフ。披露宴の間は目映く見えたそれは、今は何故だか萎れた花のようだった。
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