知らない体温

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心音は全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。 息を吐きたいが、口がうまく開いてくれない。仕方なく歯の隙間からシーっと腹の空気を漏らしていく。気に入りのタイツに、生々しい血が飛んでいた。 人生で初めて、人を殺した。 先程まで心音を映していた男の瞳は、宙を見ている。恐怖で固まる身体を、心音は必死に動かした。 持っていた包丁を捨て、男の身体を引きずる。重い、有り得ないほどに重い。ベランダの傍に来て、手を離すと、肉が落ちる鈍い音が床を鳴らした。 心音は、ベランダに大きな冷凍庫を持っていた。その中身を部屋の中に投げ入れていく、肉、魚、野菜…当たり前のように冷凍庫は空になっていき、不思議と心音の頭は冷たく冴えていく様であった。 男は入るだろうか、と、心音は心配する。 もう一度足を持ち、重い肉体を持ち上げる。自身のどこにこんな筋力があったのだろうと考えながら、男を冷凍庫に閉じ込めた。「はぁ」疲労からため息がでる。気がつくと汗だくだった。外の気温との差で、身体から煙が出ている。 部屋に戻り、片付けをする。服を着替え、血のついたものと包丁、そして明後日に出そうと思っていた瓶のゴミを鞄に入れ、外に出た。 車の後部座席にそれを乗せ、近くの漁港まで走る。暗闇の海を覗き込み、鞄ごと放り投げた。 なかなか沈まず、心臓が痛く、苛々するー…が、瓶の重さのお陰か、高い波のおかげか、鞄は直に見えなくなった。 心音は運転席に戻ると、長く息を吐いた。終わった、終わった、と心の中で何度も言い聞かせる。 突然手の震えが止まらなくなり、つよく両手を握った。さあ、帰らなくては、帰って、眠り、すべて忘れてしまおうー…。 気がついたのは、一ヶ月ほど前だった。駐車場で車を停めて外に出ると、必ず視線を感じた。ストーカーだろうとは思っていたが、警察に言い出すのは勇気のいることだった。 「私、ストーカーに合ってます」まずこんな台詞を吐けるほど、自分の容姿に自信が無い。 だが相手は飽きもせず、決まって駐車場の隅から心音を見つめるのであった。ただそれ以上のことは何も無く、そのままが時が過ぎていった。 もはや心音の方も慣れてしまい、車から降りると、早足で部屋に向かうようにしていた。 だが、ある日の晩、いつも通り車から降り部屋までの階段を上がり始めると、男が静かに着いてきたのだ。叫ばなくては…、叫べ、叫べ、心音は自身の勇気に語りかけたが、虚しくもそれは無視され続け、玄関前にたどり着いてしまった。もしかしたら、隣の部屋の人なのかもしれない…、ただ、通り過ぎて家へ帰るだけなのかもしれない…、そんな、一ミリの期待が心音の全身を巡る。鍵を探す手が汗ばみ、うまく掴めずにいると、背筋が痛くなるほど近い男の声が心音の耳に届いた。 「は、早河、心音さん、」 瞬間、心音は自身でも信じられないほど素っ頓狂な声で、男の声を遮った。「よかったら!あ!よかったら!どうぞ!わたし!あ、あの!」そこからは自身がよく分からなかった。 この一ヶ月、まるで平気な素振りを続けてきたが、実際体の芯から恐怖に怯えていたのだ。自分が崩壊するほどに。 心音は勢いよく玄関扉を開けると、男を部屋に押す形で招き入れ、何か言おうとする男に対し、鼻息荒く「だい、じょうぶですから!ほら!な、なにもいわないで!だいじょうぶ!」と何度も同じことをいい、台所の包丁を手にすると、突然首を切った。 血が吹き出し、気味の悪い咳のような音を立てながら、まだ男がもがいていたので「大丈夫!大丈夫です!」と言いながら心音は何度も切りつけた。 それが二月十日の事だった。 心音は施設育ちである。施設でのことはもうあまり覚えていないが、途切れ途切れにある記憶は、どれもいいものではなかった。「ブス」あまりにも捻りのない悪口が、施設での心音のあだ名だった。こっそり片想いしていた相手に、初体験を奪われたあと「ブスは汚いけど気持ちよかった」と言って捨てられたこともある。とにかくいい思い出はないのだ。 だが社会にでて、広い世界を知ると、服や化粧を知った。ブスは簡単に隠せるし、何より外の世界のブス達は楽しそうに生きていた。ただ、外見は隠すことができても、心の傷まで癒すことは難しかった。 酷い対人恐怖症。これが心音の傷だった。だが、仕事は元々得意としていたデザインに進み、理解ある会社ではパソコンと向き合う日々が多く、苦しむことはなかった。あの、謎の男がストーカーを始める日まで。 「時間だけど、何か業務残ってる?」 ぼんやりとしていた心音に、上司が声をかけてくれる。「あ、すみません、上がります。」 「お疲れ様。」それ以上なにもいわない。いい会社だ。心音をよく理解してくれている。 パソコンの電源を落とし、荷物を纏める。大丈夫、あの冷凍庫以外は、すべて今まで通りの生活なのだから。 会社を後にして、車に乗り込むとゆっくりと走り出す。家まではたった三十分ほどのドライブだ。いつもなら、どこにも寄らない、が、財布に眠る水道料金の支払い書を思い出す。「コンビニ、」一人言をもらし、すぐ近くのコンビニに停めた。 何も買うものは無い、支払いだけである。 真っ直ぐレジに向かい、用を済ませ、車に戻ろうと身体を反転した。 「え?」全身が凍りつくような感覚に襲われ、心音は持っていた財布を重力のまま床に叩きつけた。 店内には、心音と店員、そして心音の視線の先にいる男しかいない。小銭が散らばる音が、やけに目立って心音の耳をさす。 「なんで…」心臓が脈打つ音が、自身の声よりうるさく店内に響いているようだった。男が足元の小銭に気がつくと、何枚か拾った。ゆっくりと心音に近づき、「これ、」と声を出した。 「は、早河、心音さん、」 あの声と重なる、いや、同じだ。同じ柔らかく細い声が、男の口から発せられた。心音はもう一度、なんで、と口にしようとしたが、男の方が早かった。 「あ、あ!は、早河さん、ですよね」心音はその声を無視して店の外にでる。気がおかしくなりそうだ。 死んだはずの男が、何故?確実に死んだはず。あの夜、あいつは冷凍庫に閉じ込められたのだ。死人が復活したとでもいうのだろうか。 「あ、さ、財布!」 後ろから男の声が追いかけてくる。構わない、無視しようー…、だが心音の身体は、動くことを拒否したようだった。仕方なく振り返り、男を見る。やはり、あの男だ。 「あんた、な、何?し、死んだはず。」 震える声で聞く心音に、男は驚いたような声を上げた。「えっ、し、死んだ、お、俺が?」そして、予想外に照れたように笑った。「ま、まぁ、そう言われてもおかしくないかもね、あ、財布…、それと、やっぱり、早河さんだよね?」 駄目だ、状況が掴めない。心音は恐る恐る財布を受け取り、質問に対し、小さく頷いて見せた。 「ああ、やっぱり、実はずっと、声をかけようと思ってて、でも、勇気がでなくてさ、あ、あれ、もしかしてだけど気がついてない、俺、」 おどおどと話す男の顔は、よく見ると犬のような愛らしさがあった。 「金井島透…、って呼ばれてなかったけど、透明人間の、透。」 「あ、ああ」喉がからからだった。うまく返答できず、掠れた音が出た。よく見ると、それは同じ施設にいた金井島透そのものだった。いつも隅っこにいるから、透明人間の透。当時、ブスの早河の次に虐められていた子だった。 心音は唾を飲み込んだ。喉がピリっと痛み、少し潤いを取り戻す。喋れそうだ。 「ご、ごめん、思い出した…喋ったこと無かったし…。」 「そうだよね。」透は照れくさそうに手をポケットに入れると、「元気だった?」と言った。 元気も何も、昨晩殺人を犯したのだ。 「まあ、まあかな」少し落ち着いた心臓を労わるように心音は手を添えた。 「俺も…、あ、ていうか、ご、ご飯でもいく?よ、よかったら…。」 まさかのお誘いだ。「い、いいよ。」気がつくと、口が勝手に返事をしていた。 二人は近くのファミリーレストランに入った。この男、もしかしたら他の人には見えないのでは。密かにそう思っていたが、店員の「二名様でしょうか」という問が、そうではないと証明されてしまう。賑やかな店内で、透は緊張気味にパスタを頼んだ。 「で、」と、心音が切り出す。 「何を話に来たの?」確信にせまる質問だ。途端、透の目がかっと開き、頬が高揚していくのが分かった。次に透の口からでた台詞は、やっと甦りの謎が解ける、と期待した心音を裏切るような内容であった。 「だ、だよね、気づいてたよね、ごめん。俺、いじめにあってから対人恐怖症でさ、なかなか声掛けられなくて…いつも声かけようと思って早河さんのアパートの下で待ってたんだけど…あ!す、ストーカーとかじゃないんだよ、仕事で前にこの街に来た時、早河さんを見つけて…そ、それから…ごめん、」吃りながら話す透は、申し訳なそうに頭をかいた。 心音が返す言葉に詰まっていると、パスタが二つ運ばれてきた。期間限定のクリームパスタだ。 「いや、うん、こ、怖かったよ、私も実は、対人恐怖症だから。」やっとの事で、心音が小さな声で返すと、透は少し安心したように顔をあげ、そしてパスタを食べた。 「あっ、あ、これ、美味しいよ。」 透につられて心音もパスタを口にする。たしかに美味しい。「期間限定だって」「うん」会話が続かない。人との会話がただでさえ苦手なのに、死んだはずの男と盛り上がるわけが無いのだ。 お互い、気まづそうにパスタを何度か喉に流した頃、透が何か話題を探すために周りをちらりとみたあと、ふふ、と小さく笑った。 「でもこれ、ま、間違えてるね、二月十日からのメニューだって。」透が指を指したポスターには、間違えなく二月十日と書いてある。心音は何も無いような声で「間違え、って?」と聞いた。 「え、だ、だって今日九日だよね?」 透の言葉に、心音の手が止まる。もう一度「あれ?」と呟く透に、心音は自身のスマートフォンを見せた。「今日は、今日…、今日は十一日だよ。」 心音の手は汗ばんでいた。死んだ男が目の前に現れたのだ。もう、何が起きてもおかしくは無かった。 透は瞬きをしてから、信じられないというような顔をすると、自身のスマートフォンを恐る恐るだし、心音に見せた。 「お、俺の、九日だけど…。」そう言って、もう一度自身のスマートフォンに目を落とし、震えた声を出す。「え、あ、俺のスマホが、おかしい?え?」 心音は頭を抱えた。だが正直、死んだ男が現れるというこの不思議な状態にやっと納得がいった。九日にいるはずの透がなんらかの方法で、ここにいるのだ。「いや、」だが、そんなこと有り得るはずがない。顔を上げると、同じように困った顔をした透がそこにはいた。 「ど、どうしよ、よく分かんないんだけど…、とりあえず、家に戻ろうかな」心音に縋るようにして話す透に、心音は首を振った。 「あ、う、うちにおいでよ…、あれ…、ほら、あのもしさ、あれ、ほらあの、不思議な現象とかだったら、十一日の自分と会ったりたらなんかこう、まずそうだし…ほら、とりあえずさ。」 口がよく回る。とにかく家に返す訳には行かない、もしも透を探す人がいたとしたら…それは不味い。 「で、でも女性のい、家にあがるのは…」 「だ、大丈夫だから。」心音は真っ直ぐと透を見ると、頷きながら言った。「大丈夫だから。」 この部屋に人を上げたのは、昨日と今日だけだった。帰りに二人で服屋によって透の下着などを買った。透のクレジットカードは不思議と使えず、心音が払うことになり、透は何度も頭を下げた。 「あ、あの、本当にごめんね」 心音は謝る透に首を振るとふろ場を指さして見せた。 「あ、先にお風呂入って…わ、わたし電話して、仕事の休み、貰ってくる」 透をこの家に一人留守番させる訳にはいかないのだ。また何度も謝りながら風呂場に消える透を見送ると、心音はスマートフォンを耳に当ててベランダに出た。 適当な言い訳で休みを貰う。もともと精神面の病を理解してくれている会社だ、休みやすい。部屋に戻ると、無意識にベランダへの鍵を閉めた。 透に、絶対見られてはいけない。 突然呼吸が苦しくなり、座り込む。当たり前だ、昨日は殺人を起こし、今日は殺した相手とお泊まり会だ。それに、ファミリーレストランや、服屋等もかなり久しぶりの行動だった。人との接触がストレスになるため、基本買い物はネットサービス、飯は自炊だ。 胸の当たりを強く押え、枕に顔を埋めて必死に息をする。久しぶりだ、対処できない、過呼吸だろう。 意識が飛ぶ寸前、大きな暖かい手が心音の背中をさすった。 「大丈夫!?」 目の奥がチカチカと光る視界に、心配そうな顔をした透がいた。 遠慮がちにさする手が気持ちいい。振り払いたいのに、何故か懐かしく、心地が良い。 心音は体温にすがるように、透の胸元に顔を埋めた。突き放されるかと思ったが、透は必死に心音の背中を擦りながら「大丈夫だよ、だ、大丈夫だからね」と、何度も言うだけだった。 「ご、ごめん、わたし、久しぶりで」 少しして落ち着いた心音が言うと、透は首を振った。「いや、落ち着いたならよかった…、お、お風呂は」「入らない…あ、明日入ろうかな」化粧を落とすなんて、考えられない。 「うん」透は部屋の時計をちらりと見た。「よ、横になったら!あとお、俺よく考えたんだけど、車で、寝るよ」心音は思わず喉がつっかえるようで咳をした。「え、ええ?」 「だってほら、やっぱり、なんか、申し訳ない、し。」心音より二十センチは大きいであろう身体を縮こませながら、自分の膝ばかり透は見ていた。 「い、いや、いいよ。」「でも…」 心音の中で、背中を摩る透の暖かな手の温もりが思い出される。 「わ、わたし、いてくれた方が安心する。」 透は何も言わなかった。結局、ベッドの下に適当な毛布をひいて、透は眠りについた。 翌朝、心音は驚きすぎて心臓が痛かった。目を開けるとすでに透は起き上がり、そこに座り込んでいた。「な、何か言ってよ!」なんとか声を出すと、透は申し訳なさそうに首を振った。「ご、ごめん、今起こそうか迷ってて、」 頭が冴えて鼻が利く。なんだか良い匂いがした。 「お、お詫びじゃないけど、朝ごはんつくった…」心音が台所を覗き込むと、暖かそうな鍋ができている。「ありがとう…」 心音の言葉に透の顔が晴れる。「お、俺レストランとかあんまりいかないから、さ、自炊するんだ、上手くはないけど、簡単なものなら、つ、つくれるから。」例の冷凍庫から出した野菜が、たっぷりだ。心音はもう一度ありがとうと呟いた。 「いただきます。」 いつぶりだろうか、食卓を誰かと囲むなんて。優しい味の鍋。無言で食べていると、ふと、透が箸を置いて心音を見た。 「あ、あのさ!」声が裏返り、咳払いをして続ける。「俺、し、施設にいた時から、早河さんのこと、あの、…あ、す、…あ、」 心音もつられて箸を置く。「あ、す?」 「うん、いや、ええと、い、一回だけ話したの、覚えてるかな…だよね、覚えてないよね、ほ、ほら、クリスマス会の日…、早河さん、泣いてて、お、俺女の子が泣いててもどうしてあげたらいいかわからないから、持ってたキーホルダーあげたんだよね、」「あ」心音の中で全てが鮮やかに蘇る。クリスマスプレゼントをいじめっ子にとられて泣いていたのだ。すると少年がキーホルダーをくれた、それでも涙が止まらなくて泣いていると 「お、俺そのあと早河さんの背中さするしかなくて、なのに、そしたら早河さん、おれにありがとうって、言ったんだよね。…ありがとうって、初めて言われたからさ。」 鍋のおかげで鼻の頭を赤くした透が、人懐っこい笑顔で心音を見た。 「わたし、」心音は泣いていた。 突然の心音の涙に動揺しながら、やはり透は心音の背中をさすり「大丈夫?」と声をかけた。 「一年前、あなたに、会ったね、」 「え!?」透は少し考えるような顔をした。「一年前…」透の摩る手がとまり、心音はなんだか寂しくなる。 「あの日、わ、わたし、珍しく体調が悪くて、化粧も髪の毛もセットしないで薬局にいって、そ、そこで過呼吸になったの、」そこまで話すと、透が分かったように「ええ、あれ、早河さんだったの?」 と聞いて笑ったのが分かった。 背中を摩る手と上から降ってくる声が心地よいのに、怖くて顔をあげられず落ち着くとそのまま立ち去ってしまったのだ。そして、あの温もりと声を、心音は忘れられずにいたはずだったのに。 「すごい、お、俺普段は人に声掛けられないんだ…でも、あの時は、な、なんていうかさ、この子、助けたいって思ったんだよね、そ、そっか、早河さんだったんだ。」透が嬉しそうに話すと、泣く心音の背中を撫でた。「会ってたんだね。」 心音は耐えきれなくなり、嗚咽を漏らしながら、声を絞り出すように話した。 「わ、わた、わたし、こ、怖がりだから…、わたし、わたし、ごめんなさい、わたし、」しゃくりあげると、涎が床に落ちた。 「十日のあなたを、殺してしまったの。」 勢いよく立ち上がった心音は、テレビのリモコンを踏んだ。 「ー…漁港から血の付着した包丁やシーツが見つかった模様でー…」自白中、最高のタイミングだ。心音は涙で汚れた顔を床につけた。 「こ、こわくて、あ、あなたがストーカーだと、思って、だけど、わたし、ごめんなさい、わたし、わたしずっと一年前から、あなたの事、探していたはずなのに、ごめんなさい…、ごめんなさい…」 透は信じられないという顔で、座ったまま心音を見つめている。 「し、信じられないなら、そ、外の、冷凍庫に、十日の、あなたが、」 透はベランダにでて冷凍庫を見たが、上にかかるブルーシートには触らず、ただ何かを決心したような顔をして心音の隣に並んだ。 「あ、あのさ、とりあえず確認なんだけど、一年前の、俺に、早河さんは、惚れてくれたんだよね?」 「ええ?」今、なぜそんな話をするのか分からず、心音は呆れた声が出たが、それでも真っ直ぐ心音を見つめる透に、観念して小さく頷いた。 「よかった、俺、俺は、ずっと昔から、早河さんの事が好きだったんだ。」 驚いて涙がとまった心音を、透は慣れない手つきで抱きしめた。「ご、ごめん、怖かったよね、当たり前だよ、俺、馬鹿だから、殺されて当然、だ、大丈夫」そして心音の小さな肩に顔を埋めると、泣いているようだった。「ずっと君のヒーローになりたかった。」 そして身体を離すと、冷凍庫を指さした。「ほんとに、俺は、死んだの?」心音は言葉が出ず、頷く。 「大丈夫…」透はそう何度も言いながら、心音の背中をさすった。あたたかい、大きな手で。 そして突然心音にキスをすると、照れて首まで赤くなった顔で「幸せだ!」といって外に飛び出した。 一人残された心音は、はっとしてベランダから透を目で追うと、走る透が、振り返って手を振った、満面の笑みで。 動かない足に、力いっぱい拳をいれた。それでも動けず十分ほどしゃがみこんでいたが、心音も続いて外へ飛び出す。見失ってしまう、ずっと探していた人なのに。 少し先の方から、誰かの声がする。遠い誰かが、空を指さした。 「透。」 透が、飛んだ。高い建物の上、ああ、わたし「透が、好きなのに」 心音は、それ以上近づくことは出来なかった。 記憶が、ブレていく。頭が痛い、思い出せない、私は、昨日、誰といたの?あのあたたかいぬくもりは、誰なの? 冷凍庫には肉、魚、野菜が入っている。 謎のストーカーは諦めたらしい。 不思議な事が一つ、なんだか最近、人が怖くない。 松葉杖をついた男が、心音に近づく。 その男は、犬のような愛らしい顔をしている。 「は、早河、心音さんですか?」
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