1.運命は突然に

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1.運命は突然に

 麗かな春の季節。  薄紅色をした花びらが舞う木の下で、怖いものを見た。  血走った目をした男が数人。  我先にと何かを毟っている。  揺れる白い手足が人の隙間から時折見える。       周りに散らばるそれが人の服だと気付いた時、頭から血の気が引く。    大丈夫。。これは夢だ。    母とバースの診断結果を知らされた日だ。    起きなきゃいけない。  服を引き裂かれた男はぐったりしており、首にチョーカーを付けている。  それは頸を守る為の役割をするだと、クリニックで教えられたばかりだ。  男がチョーカーに手を掛けるが、Ωの頸を守るそれは簡単に千切れるものじゃない。  無理に引っ張ろうとして首を絞められたのか、ゲホゲホと咽せている。  どんなに苦しいのか、見ているだけで涙が出る。  通報を受けて警察官が集まり出す。  飛び交う怒号に悲鳴。  身体がぶつかる音が辺りに響く。 「お母さんっ!帰ろ!ねぇ!怖いよー!」    泣き叫ぶ自分がいる。  ・  ・  ・  ppp.ppp.ppp… 「あぁ、またこの夢か」  起床を知らせるアラームを、手を伸ばして止める。  冬になると春がすぐそこだという思いからか、昔の夢をよくみてしまう。  三嶋密(みしまひそか)は少し垂れ目がちな大きな目を瞬いた。  きらきら光る二重の瞳を、長い睫毛が彩っている。  ベットから降りると両手を伸ばして伸びをした。  手足はすらりと長く、健康そうなつやつやとした肌は瑞々しい。  柔らかな髪の毛は癖っ毛で、毛先が時折くるんとなってしまうが大らかな密は大して気にしてない。  密は都立の進学校、風ノ宮高校に通っている一年生だ。  βが生徒の大半を占めるがαやΩもいて、自由な校風が気に入って入学をした。  中学では陸上部だったが、高校で続ける事は諦めた。  決して女の子には見えないのに、先輩たちから容姿を揶揄われやすかった。可愛らしい子猫のような容姿をしている上、性格は大らかでよく笑う。  そんな密が可愛がられるのは必然と言えば必然だが、中学までは密に手を出せば兄たちから制裁を加えられるという噂があり、誰も密に手は出せなかったのに、高校ではそれが通用しない。  上級生からのねっとりとした視線に気付いた瞬間、背筋に悪寒が走った。  そんなわけで、密は一人で走る事を選んだ。  パジャマから着替えてリビングに行くと、長兄の(さとる)がワイシャツの上にエプロンを付けて朝ご飯を作っていた。 「おはよう、ヒッカ」 「おはよ!覚兄ちゃん」  キッチンカウンターにはもう美味しそうな料理が出来ている。筑前煮とワカメときのこの酢の物、手羽先の甘辛焼きに卵焼き。このまま小料理屋でも開けそうだ。  覚は同時に何品も作る天才で、手際の良さが半端じゃ無い。「慣れたらみんな出来るよ」と言うが、普段はほわほわしているのに本当に凄い。 「夕飯の分も作ってるからね。俺は今日、飲み会で夜はいないからね」 「うん。ありがとう」    覚はバース科で働いている医師だ。  多忙にも関わらず、仕事で不在がちな両親に変わって弟の為に朝食を作ってくれる。  受験期すら自分で適当に食べると言っても、止めなかったのだから全く頭が上がらない。 「あはは、今日もクルンクルンしてるね。可愛い」  次兄の(ひびき)が弟の髪を撫でに来た。  毛先のくるんとなった所を指で遊ぶのが響も覚も大好きで、暇さえあればくるくるしてくる。 「シャワーしたら直るもん」  響も料理が上手だ。  特にフレンチトーストは絶品で、付け合わせのリンゴのフランベも密の大好物だ。  兄二人が甘やかすので密が料理をする機会は今のところ、全くない。  響はその美貌を生かし、高校生の頃からバイトでモデルの仕事をしている。  本人曰く、ただのお小遣い稼ぎで職業にするつもりは無いらしいが売れっ子モデルだ。  大学を卒業後は弁護士になりたいらしく、日々奮闘している。  密には日課がある。  朝早く起きて、学校に行く前に走る事。  第二次性がΩだと判明した12歳の頃から、毎日欠かさずやっている。  ランニングシューズは黒色のアッパーで、響と出掛けた時に買ってくれた。  全体はシャープな印象なのに赤い靴紐が目を引いて格好良い。青いパーカーは覚のお下がりで、下に履いている短パンは響が高校時代、陸上部で使用していたものだ。  兄が二人もいるので身に付ける服はお下がりが多いが、兄達が大好きな密はむしろ嬉しい。  それにαである兄たちが着ていた服は、魔除けのような効果も発揮してくれる。  声を掛けようとしてきた人物が、顔を顰めて去っていった事も一度や二度では無い。  密には全く分からないが。  シューズの結び目を直していると兄二人が玄関に顔を出した。 「もう行くの?外は寒いよ?」  覚はエプロンのポケットから水色をしたネックウォーマーを取り出し、密の首に巻いた。  柔らかい生地に鼻を擦り付けると、嗅ぎ慣れた長兄の匂いがする。ほんのり柑橘系の香り。  弟の頭を次兄の響がぽんぽん撫でると、玄関キャビネットに置いていた自分の帽子を密の頭に被せた。 「キャップもね。紫外線はキツイからね」  響はフローラルな華やかな香りがする。   兄達は、それぞれが弟の身を案じて将来を決めた。  密がΩだから覚は医師になったし、密がΩだからどんな事が起きても守る為に響は弁護士になるのだ。  密はひたすら二人を尊敬しているし、兄二人も素直で可愛い弟を溺愛している。  密が赤ちゃんの時はミルクは飲ませ、お風呂やオムツ替えすら二人が世話をしていた。  密の小さな指を左右で握りながら眠っていたのだから、密がブラコンになるのは当然だ。  密が玄関で靴を履いていると、置きっ放しにしている携帯を響が見つけた。 「あれ?ヒッカ、これは?」 「走るの邪魔だから要らない」  密がそう言うと、響は携帯を掴んで芝居がかった仕草で泣く真似をした。 「密に何か遭ったら、兄ちゃんどうすればいい?」  わざとらしく手で顔を覆う響に、密は溜息をついた。  重い愛情だが、自分を心配してくれているのには違いない。携帯をボディバックに入れて仕舞う。 「もう分かったってば。いってきまーす」 「「いってらっしゃーい」」  兄二人に笑顔で見送られる。  玄関を開けると、朝日がキラキラして街を反射していた。  朝の寒さは気持ちいい。  息を吐く度に出る白いモヤは、まるで雲を自分が作っているみたいだ。  魔法使いになった気分。  密は息をフゥと吐くと、ふふっと笑った。  庭先で軽くストレッチをすると、太陽が昇ったばかりの澄んだ空気の中、軽やかに走り出した。  男女の性差にLGBTが加わり、更にα・β・Ωという第二次性が区分が出来てから大分経つ。  表立っての差別は無くなってきているが、発情期のΩはフェロモンにより不特定多数を誘ってしまう。  この発情期の期間は人によって2ヶ月に一度だったり、3ヶ月に一度だったり差がある。  世界的にもΩへの差別は非人間的だとして改善はされているが、酷い事件はたまに起きる。  密はそんなニュースを目にすると、いつか自分にも起きるんじゃないかと不安に駆られる。  発情期を治める方法は二つある。  一つは病院でもらう抑制剤を服用する事。  もう一つはαに頸を噛んでもらい、噛んだα以外にはフェロモンが効かなくする方法だ。  αがΩの頸を噛む事で『番』は成立する。  Ωにとって頸を噛まれる事は、生存権を握られてしまう事に等しい。  一度噛まれれば他のαと番になる事も出来ないのに対し、αは複数のΩを番に出来てしまう。  つくづく理不尽だ。  身長だけはすくすく伸びているのだから、このまま大人になりたい。  密に発情期が来ない理由は過去に見た出来事がきっかけだが、そのままで良いと思っている。  いざと言う時は、鍛えた脚で逃げるのみだ。  走り終えて自宅に戻ると、朝食はもう出来ていた。  豆腐とワカメの味噌汁、鮭の西京漬と筑前煮に卵焼き。つやつやしたふっくらご飯。  兄の料理は今日も美味しそうだ。 「おはよう。寒いのに走るなんて真面目ねぇ。今日もお兄ちゃんのご飯は美味しいわよ」  アパレル会社で働く母は朝からばっちり化粧をきめている。味噌汁を啜りながらご機嫌だ。 「密も早く食べなさい」  大手建設会社で働く父もご飯を食べている。 「はーい。いただきます」  夜はバイトや仕事でそれぞれが忙しいから、朝はなるべく家族みんな揃ってご飯を食べる。  揃わない日もあるけれど、三嶋家はそんな毎日だ。  ※  その日の午後。  学年主任の先生が何を思ったのか、急に校外学習を提案してきた。 「美を見に行くぞ!君らに必要なのは本物の一流をたくさん見る事だ」  一学年6クラス。  200人以上がぞろぞろと歩いて都立美術館向かう。  今日は次兄から貰ったばかりの茶色いダッフルコートを着た。長兄からお下がりした白いマフラーも巻く。  軽くて柔らかくて暖かい。  最高のお守り。  トンと肩を叩かれ振り向くと、幼馴染の相澤礼(あいざわれい)が隣にいた。 「近いけどあんま来ないよな」 「うん、小学校以来かも?」  礼はβで密がΩである事を唯一知っている友達だ。  頭も良いし可愛い彼女もいる。青春を謳歌していて羨ましい。  Ωだからと卑屈になった事は無いが、恋愛なんて出来る気がしない。  美術館に入ると、特別展示の最終日らしく一般客も沢山訪れていた。  19世紀、フランス近代風景画の巨匠たちの絵画や版画の作品がたくさん展示されている。  ゴッホ、カミーユ・コロー、ウジェーヌ・ブーダン、ギュスターヴ・クールベ、オーギュスト・ルノワール、クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、ジュール・デュプレ。  どれも一枚のキャンバスの中に物語を紡いでいるようだ。降り注ぐ光や影の陰影、筆のタッチ。  作者がもうこの世に居なくても愛される理由が分かる。  順路に沿って歩いていると、不思議と安心するようなほっとする匂いが鼻を掠めた。美術館独特の空気や匂いとは違うような…?  どこから来る香りかと思い辺りを見回すが、分からない。 「?」  きょろきょろと視線を動かすと後ろに人がつかえてきた。  沢山の人がひしめているのだから、諦めて先を進む。  懐かしいような不思議な匂いだった。  ずっと嗅いでいたいような香り。  そんな絵の具があるんだろうか?  辺りを見渡していると、礼に腕を引っ張られた。 「何してんの?遅いよ」 「ああ、うん」 「どうした?」 「何でもない」  なんて説明をすれば良いのか分からず、密は順路を歩き出した。  学校への帰り道。  公園を通り抜ける道を選ぶと、人が大勢集まっていた。  ここは神社が隣接していて時折結婚式も行われる場所だ。  歓声と拍手が沸き上がる。 「なんだろ?結婚式?お祭り?」 「さぁな」  興味をそそられ人込みの中に入っていく。  すると不意に、先ほど感じた香りが鼻腔を掠めた。 「あ…」  人々が見つめる視線の先には、三人の若い男性が神事を執り行っていた。  平安時代を思い浮かべる狩衣の衣装を身に纏い、頭には烏帽子。数十メートル離れた場所には的が置かれている。  三人は手にした弓を持ち、矢を番ると流れるような動作で弓を引いていく。  全員、前髪を後ろに撫で付けているので顔がよく見える。揃いも揃って顔が良い。    一番手前の色男は一際背が高く、ド派手な緋色の狩衣が不思議とよく似合う。日焼けした自信満々な態度からは、派手に遊んでいそうな気配がする。  奥の男は、若紫色の狩衣。  優しく悠然と微笑み、緊張など微塵も感じさせない。  密は両者に挟まれている男から、目が離せなかった。  萌黄色(もえぎいろ)の狩衣。  端正な顔立ちは、凛々しく美しい。  立ち姿は見惚れるほど綺麗だ。  形が良い眉に長い睫毛。すっきした鼻梁と魅力的な唇。  烏帽子の脇から流れる漆黒の髪の毛が、風に揺れる。  ここだけ別世界に来たかのよう。  狩衣に施された刺繍や、指先の僅かな所作まで優雅だ。  微かに香る匂いも心地良い。  人々の拍手と歓声が湧き上がり、夢のような時間の終わりに思わず息が漏れた。  残念に思ったその時、一礼をした萌黄色(もえぎいろ)の狩衣の男の瞳が密をまっすぐ捉えた。  視線が絡まった瞬間、どくんと心臓を撃ち抜かれたように呼吸が速くなる。  それまで無表情だった男がふわりと笑うのを見た瞬間。  ぞくりとした熱が身体に沸き上がった。 「っっ!俺、先に帰る!」 「は?ちょ、なんで?」  礼をその場に置いて、密は一目散にその場から立ち去った。  綺麗だけど怖かった。  あれは三人全員とも、どう見てもαだ。
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