8 トラゴイディア

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8 トラゴイディア

検査を終えて少し経つと、祖父は今までに無いくらいの笑顔で私を院長室に呼びつけた。 「これを見たまえ」 祖父の手には1枚の紙が握られていた。 「180年だ。これが何を意味するか分かるか?成功するんだよ、コールドスリープが!」 そう言って高らかに笑う祖父の顔は悪辣に見えて、私は少し戸惑う。そして祖父の計画を聞かされた。 『トラゴイディア計画』と名付けられたそれは、ある意味の皮肉だ。私が今の世に生まれたのは、彼からすれば悲劇に映ったらしい。 計画は至ってシンプルで、私が冷凍保存されるだけという単純なものだ。しかしこの数年間で当初の予定とはズレが生じ、何故か祖父も一緒に冷凍保存されるらしい。その理由は、嫌なくらいに検討がついていたが。 「君は最高の傑作だ!人類の夢を叶えるのは君なんだ!」 祖父の言葉が耳を打つ。もう何も聞きたくなかった。 もう、何も、聞きたくなかった。 病院を出ると、雪がはらはらと降ってきていた。気温も下がり、水たまりには薄い氷が張っていた。ふと、こんな感じの水たまりで樹と遊んだことを思い出す。 「どうして、人は死ぬのか」 樹に尋ねた、あの問答。私は、 「意味なんてないんだよ、生命に」 自嘲気味に呟く。命の意味に理由なんてない。ただそこにあるだけだ。そう思うと、何故か心が軽くなる。 私は、兼ねてよりの計画を始めることにした。少し壮大で馬鹿馬鹿しい、愛の告白を。私がここからいなくなる前に。 「この教室に紀野さんはいるかい?」 彼女である明確な意味は無い。ただ、何か似ていると思っただけだ。この世の中にどこか絶望しているような目が、どことなく樹に似ているなと思った、それだけの事だ。本当に。 私は努めて友好的に接したつもりだったが、どうやら嫌われてしまったらしい。 「じゃあいいです。失礼します。」 階段を降りようとする彼女にこう告げてやる。 「後輩くん。私の祖父はあの病院の院長なんだ!」 彼女は信じられないような顔で私の顔を見た。私の祖父は、最悪だ。 そして私は彼女にしたくもないことをさせた。そして蟻地獄に苦しむ蟻のように、彼が出てきた。 「なあ辞書さん。今のは……」 私は目薬を使って、涙を演出する。 「明日なんて、来なければいいのに。」 本当は少し泣いていたなんて、口が裂けても言えないが。 私は本当に恵まれていた。樹は私にとって理想で、本当に好きだった。でも駄目だ。私が好意を伝えても、私は居なくなってしまう。彼とは二度と会えなくなってしまう。だから私は彼を騙して、つかの間の平穏を享受することにした。諦めとも取れるが、それだけが私の救いだった。 それから私は調査と書いて遊ぶと読むが如く遊び回った。 親から禁止されていた、ゲームセンター。 祖父から忌み嫌われていた、ショッピングセンター。 今まで禁止されていたもの全てを解放して、私は遊びに耽溺した。今までで1番生きていると感じた。 たのしかった。 フードコートに立ち寄り、食事をとる。味はそこまでだが、樹たっての希望だ。無下にする訳にも行かない。 おいしかった。 でも一通り楽しんだ後は、何故か寂寥感だけが募ってしまった。 毎日が早く過ぎる。 この風景もいつか消える。 人はいつか死ぬ。 こんなの…… 「悲劇じゃないか」 メモはもう残さないことにする。残しても意味は無い。 「なんだこれ……」 僕は渡されたメモを破り捨てた。 「読めたかい?これが私だよ。私の、人生そのものだ」 端的に綴られたそれは、要約するなら冷凍保存されるまでの日記みたいなものだった。でも、それを信じるかと問われれば、信じるわけはなかった。 「あと少しだ、私がここにいられるのは。信じろとは言わない。」 日比野は悲しそうにはにかむ。いつもの高笑いでも、嬉しそうに笑うでもなく。 「覚えているかい?ショッピングモールで食事をとった時、君が私の才能の話をしたのを」 「……それがどうした」 「君が才能の話をした時、私は人生で初めて怒ったんだ。喜も哀も楽もあったのに怒りの感情は持ち合わせて無かった。きっとそれは、この世の中に絶望してたからだと思う。でも君だけが私の感情を揺さぶってくれたんだ。だから感謝しているんだ、君に」 「……あんなので良かったら、いつでも怒らしてやるよ」 「いつでも、か……。それは今の私には重すぎるよ」 自嘲気味にそう日比野はこぼした。 「……今日はもう帰るよ。紀野朱里の無事も確認できた。君と会うのも、今日が最後だ。」 メモに書いてあったトラゴイディア計画。その実行日は1週間後。僕は思わず日比野の手をとる。思いっきりの力を込めて。 「やめてくれ、辞書さん」 「やめないよ、旅人君。」 そう言って、日比野は僕の手を払う。 「私に、怒りを教えてくれてありがとう、樹くん」 ここで止めないと、もう出会えない。なのに僕は行動に移せない。その代わりに、世界で1番の卑怯な言葉を使ってしまう。 「俺は、日比野のことがーーー」 「は君のこと悪く思わなかったよ!」 大声で僕の言葉をかき消す。でも声は震えていて、苦しそうだった。 「さよなら。」 僕は、凡人だ。 「生きるってめんどくさいね。旅人くん」 日比野が去って、3日が経つ。彼女は学校には来なくなっていた。そして僕は未だに後悔していた。僕の胃袋では、この出来事を消化しきれない。 日比野の祖父は、日本の政治を掌握しているといっても過言ではない。メモにはそう書かれてある。それが事実かは分からないが、メモに書いてある日比野の焦燥、紀野朱里の恐怖を見るに、本当なのだろう。 ーーそれを言い訳にしていいのか。 「言い訳ないだろ。」 下校の時にうるさく話しかけてくるあの姿はもうない。どんな質問にも答えてくれた辞書はもういない。 「教えてくれよ、日比野……」 答えが欲しい。どうすればこの状況を打破できる。何が必要だ。誰か教えて欲しい。救世主でも神でもなんでもいい。 このままじゃいけないのにーーーー 「教えてあげましょうか?」 救世主は意外な方向から現れた。 「君はーーー」 アンドロイドーーー紀野朱里が目の前に立っていた。
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