孔雀草の女 

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孔雀草の女 

 薄暗いトンネルを通り抜けると、雨の音が大分遠のいて、窓の奥に白い自分が映った。カーブに差し掛かって、電車が数珠繋ぎになって、黄白色の横日を反射していた。  ——純粋の美はどこにある。  ゆたゆたと、流れるように私を運ぶこの電車の中で、私は深刻そうに、そのことのみを考えている。窓に肘を乗せる。冷たさが全身に伝った。悲しくなって、悔しくなって、おいおい声を上げて、泣きたくなった。私は逃げるように、ここへ飛び込んで来た。ガラクタの芸術を差別する、憎いほど、煌びやかな芸術から、私は逃げてきた。  秋の夕暮れは、私を虚しくさせる。ほの暖かい寂光が針葉樹林を、障子戸をぷすりぷすりと針で刺すように照らしている。照らしている、というより、針葉樹の闇からかろうじて生き残った光が、やけに目立って見えているだけであるのだが、先程から視界に映るようになった、奥にそびえる紅い山々を、輝かしいほどに光らせているのもまた、その寂光であった。などとほんの小さな秋の夕暮れに関して、真剣に考えて、ああ芸術だ、と感心する者など、取り敢えず、この電車内には、私以外、居ないであろう。最近の人間は、芸術に対する関心というものが、全くないのだ。それ見てみなさい。あの老けた爺さんでさえ、新聞の方に興味がある。目の前にいる学生カバンと首とをだらしなく下げているこの青年なんかは、芸術が教科と心得ているであろう。  息苦しくなってそっとため息をついた。がたんと揺れて、音が鳴る。それが永遠に繰り返すのを、私はただじっと聴いていた。そこには幽霊みたいな空虚と、居心地の良さがあった。  レールを越す音というのは、電車内で聞くのと、外で聞くのとで、大分印象が違う。電車内では、心地良い子守唄。しかし外でのそれは、私に思わぬ興奮というものを与える。  外からだと、車体が異様に大きいのと速さが思う以上に強烈だということが、目に見えて分かる。ああ、あれに飛び込んだら、どうなるであろうか、私は思わず、そんなことを考えてしまう。それは別に、死にたいとかいう、それこそ目の前の、血色の悪い青年が持つような感情では全くない。どれだけその肉片は宙を舞い、どれだけの血潮が車体を覆うのか、飛び込んだ当人には何が見えるのか、そのような生と死の狭間、もしくは確実な死の直前、そこにあるものはなにか、そこに純粋の美というものはあるのか。しかし、このように格好を付けて、死の瞬間の芸術を求めることができるのも、やはり想像の上だけのものであって、恐らく私が、実際にそういう場面に遭遇した時となれば、蒼白く染まった私の唇はぷるぷる震えるであろう。恐怖で足はすくみ、目眩で体はふらふら揺れるであろう。また私の目に飛び込む血潮の数々によって、その精神は狂い、私の身体は、翌日から睡眠薬なしでは寝られぬように弱ってしまうであろう。私は案外、臆病者なのである。  しかし私は、この心地良い子守唄に、紛れもない恐怖と、確かな死の可能性というものがあること、それを想像することで起こる、快感に似た戦慄が、好きなのである。   夢旅館という古い旅館に向かって、この電車は走っている。もう五、六時間は走っている。旅館の近くの都会には、新幹線が通っているのだが、私は敢えて電車を選んだ。もし山々の風景を、これからの創作で活かすとなれば、ゆったり走る電車で行く方が、明らかに良いからである。しかし、狭苦しいのと、微妙に寒いのは実に苦である。換気のために開けられた小さい隙間から晩秋の風が唸り、私の暖かい皮膚に冷たく打ち付けるから、ひやり、と張り詰めたように寒くなる。その風で、冬がぐんぐん近づいてきているのを感じた。ああ風は、実に素晴らしい。季節の、唯一の感触である。  そう思えば、遠方に見える紅葉が、どこか錆びれているように見えた。もう秋も終わりなのだ。つい最近、もう夏も終わりですか、と、先生に言ったのを思い出した。あれから随分、月日は経ったが、それが実に、昨日のことのように思われた。そして秋の終わりが、惜別が、美しい薄黄色の野原が、眼前に広がった時、私は遂に、叫びたく思った。きりりと指に力が入る。ああ、綺麗だ。感動に浸り、目を潤す。左手に付けられた指輪は、秋霖が明けた夕暮れの茜色に、艶めかしく輝いていた。  荒い声が、電車に響いた。黒い影がいっせいに動いた。空は、藤の花が横たわったように紫色で染められ、所々に浮かぶ暗雲を横切るカラスが、ゆったりと溶け込んでいくのが、よく見えた。 「まもなく、終点。夢城町、夢城町。御降りの際は、足元に御注意下さい」    下車してから、しばらく歩いていると、鹿を見つけた。鹿は、三百メートル離れたところの黒い夕闇に、ぼんやりと浮くように突っ立っていた。全身が灰色に見えて、かろうじて身体を支えている醜足は小枝のように見えた。そしてそいつは、真っ黒な眼で、こちらを見ていた。私も負けじと、そいつを睨んだ。そうしていると、そいつは急に、生意気な頭首を上に挙げて、ふわァ、と欠伸しているのか、口を大きく開けて、天を穿つような、実に美的な格好を、私に見せびらかした。もう少し色彩があれば、充分にユニコーンに見える姿であった。また私は、この貧相な鹿に見とれていた。  その時、私は、ぱんっ、という余韻のない、微かな音を聞いた。刹那、脳天に真っ黒の銃弾が横切ったのを見た。そして鹿は、音もなく倒れ落ちた。暫くすると、人間らしき黒い影がその死体に近付き、小枝を採り上げ、颯爽と夜闇に消えていってしまった。私は何が起こったのかよく分からなかった様で、変わらずその方に見とれていた。残されたのは血であった。遠くから見える地面に滴った血だけが、先程死んだ鹿の代わりに、ぼんやりと浮いていた。いや違う、今度はそこから、湧き上がるように、鹿の残像が、浮かび上がってきた。鹿は、死んでいなどいないのだ。さっきのは、きっと、幻覚である。    バスに乗って、ようやく旅館に着いたときは、もう八時頃であった。玄関の正面に、和服で迎えに来た女将が、 「お待ちしとりました。岡山からだと随分疲れたでしょう?ささ、暖かい温泉にでも入って、ゆっくりして下さい。ご飯もすぐ持って参ります」  と、少しからからした声で言って、私の荷物やら部屋やらをすぐ手配して、ではごゆっくり、と一礼して、あっという間に出ていってしまった。なんとなく、テキパキしていて、良い女性だなあと思った。白髪は、随分あっても、顔立ちは、皺が刻まれても良かったし、多分四、五十代、くらいであろう、などと私は、真剣に考えていた。そしたら突然、私は笑いだした。かっか、と、鼻を鳴らすような笑い方で、笑っていた。その勢いのまま、寝転がって、畳の冷たさを、紅い頬で感じ取った。うとうとして、掠れていく虫の音に聞き惚れていた。月が遠く見えた。
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