第1章 快くん

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 お店も閉店を迎える夜8時ちょっと前になって、店主の野原おじさんが病院から帰ってきた。  私は、先ほどあった卵の一件を報告した。 「あぁ、ごめん。夢ちゃんには納品のこと言ってなかったね。すまないね、バタバタしちゃって、説明してなくて。卵は日南商会さんに注文したものだから、受け取っていいんだよ」  そう言って、野原おじさんは私に謝ってくれた。    そして、次に備えてハンコの置いてある場所や、別の品物の仕入れがあった場合の手順について、教えてもらった。  今回、卵を配達に来た小学生の快くんのことを話すと、野原おじさんの顔がほころんだ。 「あぁ、今日は快くんが来たんだ」 「聞いたところ、10才くらいみたいですよ。よく知ってるんですか?」 「快くんは、この商店街じゃ有名なんだ」 「へぇ」  それはそれは10才で、店の手伝いなんかをやる子は、評判が高いだろう。 「快くんは、フラッといろんな店に来ては、その店の手伝いをしてくれるんだ」 「え?いろんな店?日南商会さんのところのお子さんじゃないんですか?」 「違うんだよ。快くんはどこのお店の子でもないんだ。この商店街の人はみんな快くんが大好きで、快くんに自分の店の手伝いをしてもらいたくて、手招きしてるくらいなんだ。でも快くんは1人だからね、なかなか順番が回ってこない」  野原おじさんは、にこやかに話す。 「なんで?」 「ん?」 「なんで快くんは、そんなに色々なお店のお手伝いをして回ってるんですか?」 「そうだなぁ・・・、それはなぁ・・・」  なんだか、野原おじさんは言葉を濁した。  野原おじさんの様子からして、快くんの家庭の事情が複雑なのだと直感した。  他人の、複雑な家庭の事情なんて、おいそれとは話せないのだろう。  もし聞くのであれば、直接本人から聞かなければ、快くんに対して失礼だ。  私はそれ以上快くんのことは聞かないで、野原おじさんと翌日の準備をして、掃除をして、夜9時前ごろ家に帰ることにした。  野原おじさんは最後まで「ウチのせいで、バタバタしちゃってごめんね」と謝って、店を送り出してくれた。  どうしてこんなに野原おじさんがバタバタしているのか。  どうしてバイトを始めて3日目の私に、1人で店番を任せて、野原おじさんが病院へ出かけて行ったのか。  その話は、5日前までさかのぼることになる。  ◆◆◆◆◆  私が『パティスリー NOHARA』でバイトを始める2日前のこと、私は学校が終わった後、家のキッチンでチョコクッキーを焼いていた。  私は『ケーキ屋さんになりたい』と公言していた割には、趣味でケーキを作ると言っても、たまにパウンドケーキを作るくらいで、普段はもっぱらクッキーばっかり焼いていた。  ほんとうにケーキ屋さんになるために、修行しているとかはなく、ある程度お菓子作りを楽しむくらいの趣味だった。 「お姉ちゃん、またクッキー焼いてんの?」  学校から帰った妹の結菜が、ダイニングキッチンに入ってきたかと思ったら、肩に担いでいた鞄をソファーに放り投げた。  結菜は同じ高校に通う、ひとつ下の高校1年の妹だ。  要領が良く、頭がいいくせに、何でか知らないけど私と同じ高校に入った。  私は帰宅部だが、結菜はチアダンス部に入って、高校生活を楽しんでいるようだった。 「今日は、チョコが安かったから、チョコクッキーにチャレンジしようと思って」  私は、スマホで『板チョコで作る、簡単チョコクッキー』のページに目をやりながら、片手間に結菜に返事した。  『板チョコで作る、簡単チョコクッキー』は、概ね次の手順で作る。  ・無塩バターを室温に戻して柔らかくし、砂糖をすり混ぜる。  ・塩と牛乳も加え、さらに混ぜる。  ・薄力粉を加え、しっとりなめらかなペースト状になるまで混ぜる。  ・細かく刻んだ板チョコを入れて、混ぜる。  ・できたクッキー生地を丸く、平たく形を整え、クッキングシートを敷いた天板に並べる。  ・あらかじめ180℃に予熱しておいたオーブンに入れ、180℃で20分程度焼く。  結菜が、さっそく焼きあがったチョコクッキーの第一の試食者となった。 「うん。いけるよ、お姉ちゃん。これで男子を釣ったら、どんな男の子だってイチコロだよ」  とりあえず結菜が、私のクッキーを褒める。 「あんたには、そんな風に言われたくない!」  そう憎まれ口を叩いて、私も一枚、チョコクッキーを味見した。うん、まあまあの味だ。  私は、結菜が男の子にモテることを知っていた。  結菜は、頭がいいくせに快活で、イヤミがなく、誰にでも社交的なので、昔から近所の人気者だった。  一つのことにこだわって、のんべんだらりと遊ぶ私とは、対照的な存在だった。 「もー、お腹ペコペコだよ。もう1枚、いや、2枚もらってもいい?」  結菜は両手で、焼きあがったばかりのチョコクッキーを2枚つまみ上げた。 「そんなに部活、大変なの?チアダンス部でしょ?」  私はお湯を沸かして、結菜に紅茶を入れてあげた。  紅茶とクッキーを交互に口に運びながら、結菜はチアダンス部の地獄の特訓の様子を、嬉しそうに話してくれた。  各部活動が、東京都大会の準決勝くらいまで行くと、チアダンス部が応援に行くことが多い。  今はサッカー部が都大会に出場することになって、いいところまで来ている、という。  そのためチアダンス部では、準決勝に行った場合に備えて、新しい振付を猛練習している最中だという。  高校サッカーの都大会が10月から始まり、そこで3回勝つと11月に準決勝があるという。  結菜は、サッカーの都大会の準決勝のことを『西が丘』と表現していた。  それは何のことかと結菜に尋ねると、サッカーの都大会の準決勝は毎年『西が丘サッカー場』でやることになっていて、そこはJリーグの試合でも使う有名なサッカー場だという。  結菜はチアダンス部だけあって、運動部の色々なうんちくに詳しかった。 「へぇ、ウチのサッカー部って、強いの?」  紅茶で両手を温めながら、私は結菜に聞いた。 「何言ってんの、お姉ちゃん!都立高校でサッカーの都大会に行くなんて、そんなところ滅多にないんだよ!そんなことも知らなかったの?ウチの学校にいながら、信じられないっ!!」  いやはや、大変な言われようだ・・・。  我が都立 東国府高校のサッカー部の強さをけん引しているのは、爆発的な突破力を持つエースストライカー、浦島影虎(2年)のお陰なのだそうだ。その突破力から『東国府の風雲児』と称されているらしい。  そして次期キャプテンで『神の手を持つ男』と言われているゴールキーパー葉山京史郎(2年)、『マジック・ステップ』と呼ばれるトップ下の薮内来夢(2年)の3人が、我が校のサッカー部の強さを支えている、とのことだった。 「え?浦島くん?」  なんだか、聞いたような名前が出てきたので、結菜に聞き直した。 「そうだよ。我が校の風雲児、浦島先輩。お姉ちゃんも一度、浦島先輩のゴールシーン見てみなよ!ハートにキュンとしちゃうよ?」 「え、風雲児って、なにそれ?」 「風雲児は、浦島先輩のことだよ」  あれ、たしか・・・ 「いや、浦島くん、同じクラスなんだけど・・・サッカー部だったんだ」 「えぇ~?お姉ちゃん、何それ?浦島先輩と同じクラスだったの?それなのに、知らなかったの?」  結菜が、驚きとも、羨望ともとれる叫び声をあげて、私を非難した。  そんなことで結菜に非難されても、私は文化系寄りの人間なんだし(運動は、かなり苦手)、知らなかったことは、仕方ないじゃない。  このことで、結菜からは『お姉ちゃんは天然!』と、不名誉な烙印を押された。  そんな風に、結菜とサッカー部の話題で盛り上がっている所へ、ダイニングキッチンにお母さんが慌てて飛び込んできた。 「大変!大変っ!」  お母さんの手には、スマホが握られている。 「どうしたの?」  私と結菜は、慌てているお母さんに理由を尋ねた。 「真子が、自転車で転んで骨折だって!」 「えっ?」  真子おばさんは、お母さんの妹だ。  そして、隣駅のケーキ屋『パティスリー NOHARA』の店主をしている野原おじさんの、奥さんでもあった。  『パティスリー NOHARA』の野原おじさんの、奥さんである真子おばさんが、自転車で転んで骨折し入院してしまった、とのことだった。
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