10人が本棚に入れています
本棚に追加
お店も閉店を迎える夜8時ちょっと前になって、店主の野原おじさんが病院から帰ってきた。
私は、先ほどあった卵の一件を報告した。
「あぁ、ごめん。夢ちゃんには納品のこと言ってなかったね。すまないね、バタバタしちゃって、説明してなくて。卵は日南商会さんに注文したものだから、受け取っていいんだよ」
そう言って、野原おじさんは私に謝ってくれた。
そして、次に備えてハンコの置いてある場所や、別の品物の仕入れがあった場合の手順について、教えてもらった。
今回、卵を配達に来た小学生の快くんのことを話すと、野原おじさんの顔がほころんだ。
「あぁ、今日は快くんが来たんだ」
「聞いたところ、10才くらいみたいですよ。よく知ってるんですか?」
「快くんは、この商店街じゃ有名なんだ」
「へぇ」
それはそれは10才で、店の手伝いなんかをやる子は、評判が高いだろう。
「快くんは、フラッといろんな店に来ては、その店の手伝いをしてくれるんだ」
「え?いろんな店?日南商会さんのところのお子さんじゃないんですか?」
「違うんだよ。快くんはどこのお店の子でもないんだ。この商店街の人はみんな快くんが大好きで、快くんに自分の店の手伝いをしてもらいたくて、手招きしてるくらいなんだ。でも快くんは1人だからね、なかなか順番が回ってこない」
野原おじさんは、にこやかに話す。
「なんで?」
「ん?」
「なんで快くんは、そんなに色々なお店のお手伝いをして回ってるんですか?」
「そうだなぁ・・・、それはなぁ・・・」
なんだか、野原おじさんは言葉を濁した。
野原おじさんの様子からして、快くんの家庭の事情が複雑なのだと直感した。
他人の、複雑な家庭の事情なんて、おいそれとは話せないのだろう。
もし聞くのであれば、直接本人から聞かなければ、快くんに対して失礼だ。
私はそれ以上快くんのことは聞かないで、野原おじさんと翌日の準備をして、掃除をして、夜9時前ごろ家に帰ることにした。
野原おじさんは最後まで「ウチのせいで、バタバタしちゃってごめんね」と謝って、店を送り出してくれた。
どうしてこんなに野原おじさんがバタバタしているのか。
どうしてバイトを始めて3日目の私に、1人で店番を任せて、野原おじさんが病院へ出かけて行ったのか。
その話は、5日前までさかのぼることになる。
◆◆◆◆◆
私が『パティスリー NOHARA』でバイトを始める2日前のこと、私は学校が終わった後、家のキッチンでチョコクッキーを焼いていた。
私は『ケーキ屋さんになりたい』と公言していた割には、趣味でケーキを作ると言っても、たまにパウンドケーキを作るくらいで、普段はもっぱらクッキーばっかり焼いていた。
ほんとうにケーキ屋さんになるために、修行しているとかはなく、ある程度お菓子作りを楽しむくらいの趣味だった。
「お姉ちゃん、またクッキー焼いてんの?」
学校から帰った妹の結菜が、ダイニングキッチンに入ってきたかと思ったら、肩に担いでいた鞄をソファーに放り投げた。
結菜は同じ高校に通う、ひとつ下の高校1年の妹だ。
要領が良く、頭がいいくせに、何でか知らないけど私と同じ高校に入った。
私は帰宅部だが、結菜はチアダンス部に入って、高校生活を楽しんでいるようだった。
「今日は、チョコが安かったから、チョコクッキーにチャレンジしようと思って」
私は、スマホで『板チョコで作る、簡単チョコクッキー』のページに目をやりながら、片手間に結菜に返事した。
『板チョコで作る、簡単チョコクッキー』は、概ね次の手順で作る。
・無塩バターを室温に戻して柔らかくし、砂糖をすり混ぜる。
・塩と牛乳も加え、さらに混ぜる。
・薄力粉を加え、しっとりなめらかなペースト状になるまで混ぜる。
・細かく刻んだ板チョコを入れて、混ぜる。
・できたクッキー生地を丸く、平たく形を整え、クッキングシートを敷いた天板に並べる。
・あらかじめ180℃に予熱しておいたオーブンに入れ、180℃で20分程度焼く。
結菜が、さっそく焼きあがったチョコクッキーの第一の試食者となった。
「うん。いけるよ、お姉ちゃん。これで男子を釣ったら、どんな男の子だってイチコロだよ」
とりあえず結菜が、私のクッキーを褒める。
「あんたには、そんな風に言われたくない!」
そう憎まれ口を叩いて、私も一枚、チョコクッキーを味見した。うん、まあまあの味だ。
私は、結菜が男の子にモテることを知っていた。
結菜は、頭がいいくせに快活で、イヤミがなく、誰にでも社交的なので、昔から近所の人気者だった。
一つのことにこだわって、のんべんだらりと遊ぶ私とは、対照的な存在だった。
「もー、お腹ペコペコだよ。もう1枚、いや、2枚もらってもいい?」
結菜は両手で、焼きあがったばかりのチョコクッキーを2枚つまみ上げた。
「そんなに部活、大変なの?チアダンス部でしょ?」
私はお湯を沸かして、結菜に紅茶を入れてあげた。
紅茶とクッキーを交互に口に運びながら、結菜はチアダンス部の地獄の特訓の様子を、嬉しそうに話してくれた。
各部活動が、東京都大会の準決勝くらいまで行くと、チアダンス部が応援に行くことが多い。
今はサッカー部が都大会に出場することになって、いいところまで来ている、という。
そのためチアダンス部では、準決勝に行った場合に備えて、新しい振付を猛練習している最中だという。
高校サッカーの都大会が10月から始まり、そこで3回勝つと11月に準決勝があるという。
結菜は、サッカーの都大会の準決勝のことを『西が丘』と表現していた。
それは何のことかと結菜に尋ねると、サッカーの都大会の準決勝は毎年『西が丘サッカー場』でやることになっていて、そこはJリーグの試合でも使う有名なサッカー場だという。
結菜はチアダンス部だけあって、運動部の色々なうんちくに詳しかった。
「へぇ、ウチのサッカー部って、強いの?」
紅茶で両手を温めながら、私は結菜に聞いた。
「何言ってんの、お姉ちゃん!都立高校でサッカーの都大会に行くなんて、そんなところ滅多にないんだよ!そんなことも知らなかったの?ウチの学校にいながら、信じられないっ!!」
いやはや、大変な言われようだ・・・。
我が都立 東国府高校のサッカー部の強さをけん引しているのは、爆発的な突破力を持つエースストライカー、浦島影虎(2年)のお陰なのだそうだ。その突破力から『東国府の風雲児』と称されているらしい。
そして次期キャプテンで『神の手を持つ男』と言われているゴールキーパー葉山京史郎(2年)、『マジック・ステップ』と呼ばれるトップ下の薮内来夢(2年)の3人が、我が校のサッカー部の強さを支えている、とのことだった。
「え?浦島くん?」
なんだか、聞いたような名前が出てきたので、結菜に聞き直した。
「そうだよ。我が校の風雲児、浦島先輩。お姉ちゃんも一度、浦島先輩のゴールシーン見てみなよ!ハートにキュンとしちゃうよ?」
「え、風雲児って、なにそれ?」
「風雲児は、浦島先輩のことだよ」
あれ、たしか・・・
「いや、浦島くん、同じクラスなんだけど・・・サッカー部だったんだ」
「えぇ~?お姉ちゃん、何それ?浦島先輩と同じクラスだったの?それなのに、知らなかったの?」
結菜が、驚きとも、羨望ともとれる叫び声をあげて、私を非難した。
そんなことで結菜に非難されても、私は文化系寄りの人間なんだし(運動は、かなり苦手)、知らなかったことは、仕方ないじゃない。
このことで、結菜からは『お姉ちゃんは天然!』と、不名誉な烙印を押された。
そんな風に、結菜とサッカー部の話題で盛り上がっている所へ、ダイニングキッチンにお母さんが慌てて飛び込んできた。
「大変!大変っ!」
お母さんの手には、スマホが握られている。
「どうしたの?」
私と結菜は、慌てているお母さんに理由を尋ねた。
「真子が、自転車で転んで骨折だって!」
「えっ?」
真子おばさんは、お母さんの妹だ。
そして、隣駅のケーキ屋『パティスリー NOHARA』の店主をしている野原おじさんの、奥さんでもあった。
『パティスリー NOHARA』の野原おじさんの、奥さんである真子おばさんが、自転車で転んで骨折し入院してしまった、とのことだった。
最初のコメントを投稿しよう!