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私は平日の放課後、学校が終わったら『パティスリー NOHARA』へバイトに行き、1人で店番をして、野原おじさんが病院から帰ったらお店を閉店して家に帰る、そんな生活を繰り返すようになった。
この新しい生活のリズムにも慣れてきた頃を見計らって、とある金曜日の夜、私はお店が終わった後の厨房を借りて、初めて例の野原おじさん直伝『プロの味のクッキー』を作ってみることにした。
まずは初回なので、クッキーの味見は家族にしてもらおうと思った。
最初から、野原おじさんに味見をしてもらうのは、いくらのんきな私でも恥ずかしくてできない。
私は、平日はやみくもに忙しい。
だから金曜日の夜にクッキーを焼いて、次の日の土曜日の午前中、家族にクッキーの味見をしてもらおうと思ったのだ。
このバイトを始めてからというもの私は、平日は本当に家にいなかった。
朝起きて、学校に行って、学校が終わったらバイトに直行し、店が閉店したら翌日の準備をして夜遅く家に帰る。
夕食はバイト中か閉店後にお店の中で済ませるので、家に帰ったらお風呂に入って寝るだけ。
そしてまた翌朝が来るのだ。
ほんとうに『寝るだけ』のために、家に帰っているようなものだった。
でも私は、野原おじさんには真子おばさんのお見舞いに毎日行って欲しかったので、できる限り休まないで毎日バイトした。
このバイトも、真子おばさんの足が治るまでの期間限定なのだろうから、多少無理してでも頑張ろうと思った。
◆◆◆◆◆
そして金曜日の夜にはじめて焼いた『プロの味のクッキー』は、初回の割には上手く行って、翌日の朝、家族にそのクッキーの味見をしてもらうと思いのほか好評だった。
それはそうでしょ。
伊達に、プロの使っている材料で、プロの調理器具で、プロの使う設備を使ってクッキーを焼いたわけじゃない。
私は、クッキーの成功に少し有頂天になって、もしかしたら野原おじさんも褒めてくれるかもしれないと思い、その日の土曜の午後のバイトに、お店までクッキーを持って行くことにした。
◆◆◆◆◆
土曜日、私は昨日の夜に焼いたクッキーを持って13時にバイトに行った。
服を選ぶのが面倒だったので、土曜日で休みだけど私は学校の制服を着てバイトに向かった。
お店に着くと、野原おじさんは厨房でケーキを作っていた。
着いてすぐ、野原おじさんにクッキーの味見をお願いするのも恥ずかしかったので、後で、閉店後あたりに味見をお願いしようと思った。
野原おじさんには、ケーキを作り終わったら、またいつもどおり午後4時ごろに病院へお見舞いに行ってもらうよう、私の方から催促した。
野原おじさんによると今日は、八百屋から苺の納品がある予定とのことだった。
でももう、納品の際の手順はしっかり教えてもらったし、今度は前回みたいにアタフタすることはない。
納品、ドンと来いだ。
しかし、午後4時になっても苺の納品は来ず、そうこうしているうちに野原おじさんは病院にお見舞いに出かけた。
また、私1人で納品を迎えることになりそうだ。
私は、店番をしながら、苺の納品を待った。
苺の納品。誰が来るのだろう。
八百屋さんの配達員だろうか。それとも、宅配便か運送業者が運んでくるのだろうか。
私は、なんとなく快くんが運んできてくれないかと、ぼんやり考えていた。
だって、前回の納品で、お姉さんなのにアタフタしてしまい、恥ずかしいところを見られてしまったのだから。
今度は大丈夫。名誉挽回のチャンスを、与えてもらいたかった。
そんなことを思いながらガラス張りの窓から外の通りを眺めていると、一台の古びた業務用自転車が店の前に止まった。荷台には、段ボールが詰まれている。
苺の納品かもしれない。
その業務用自転車から降りたのは、大型の業務用自転車には不釣り合いなほど、小柄な人だった。
そう、まるで小学生くらい小柄だった。
あ、快くん?
『快くんが来ないかな?』と考えていただけに、その予想が当たって、私の胸は高鳴っていた。
「こんにちは~、お届けに来ました~」
店のドアを開けて入ってきたのは、やっぱり快くんだった。
快くんが来てくれて、なんだかうれしかった。
「今日は、バッチリだからね!」
挨拶も何も抜きで、私の口から快くんに向かってこの言葉が出てしまった。
「え?あ、こないだのお姉さん」
「『夢佳ねえさん』です」
「夢佳ねえ・・・ね」
快くんは、バツが悪そうに苦笑いした。
「今日はハンコ、ちゃんと用意してあるから、大丈夫よ」
私は、得意げになって快くんを睨み付けた。
「あれ、野原さんとおばさんは?今日もいないけど、どうしたの?」
店の辺りを見渡して、快くんがつぶやいた。
「真子おばさんは、自転車で転んで、骨折して入院しちゃったのよ。野原おじさんは、そのお見舞い。で、私は、るすばん」
「ありゃ、骨折で入院?そりゃ大変だ」
快くんが、苺の段ボールを奥の厨房の作業台の上に置く。
「でも、そんな大変な話、この商店街の誰も言ってなかったよ?」
「あっ!」
私は、慌てて口を塞いだ。
いや、今さら口を塞いだって、仕方ないのだが。
「え、商店街の人、誰も知らないの?」
恐る恐る、快くんに聞く。
「少なくともオレは聞いてない。この商店街をグルグル回ってるオレが知らないんだから、ほんとに限定的にしか情報が流れてないと思うよ」
「なんでだろう?」
私は、イヤな予感しかしていなかった。
商店街の、誰も知らないということは、野原おじさんがわざと、誰にも言っていない可能性が高かった。
だって『自転車で転んで、骨折して入院した』なんて、メチャクチャ恥ずかしいことだもん。
真子おばさんの名誉にかかわることだ。
そんな真子おばさんの恥ずかしい秘密を、私はたった今、第三者にばらしてしまったのだ。
今さら口を塞いだって、戻るものじゃない。
「さしずめ、おばさんの入院のことは、野原さんがヒミツにしていたんだろうなぁ」
苺の段ボールに肘をついて、快くんがつぶやく。
あ!そうだ!
ひとつ、重要な武器があることを思い出した。
昨日焼いたクッキーが、一枚残っていたのだ。
私は、鞄の中から昨日焼いたクッキーを取り出した。
「お願い、快くんっ!これ、クッキーあげるから、このことは黙っておいて。お願い!」
快くんは、私の差し出したクッキーをチラ見した。
「いいよ、別に。そんなのもらわなくたって、野原さんが隠しているんだったら、オレは誰にも言わないよ」
快くんは、クッキーを差し出した私の手を、丁寧に押し戻した。
「うん。でも、もらって!」
「だってそのクッキー、店の物だろ?そんなの、バイトごときが人にあげちゃ、ダメだろ」
「店の物じゃないモン。私が焼いたクッキーだもん!」
「え、そうなの?」
そう言って、快くんは私のクッキーをマジマジとみつめた。
「あ、ほんとだ」
・・・ん?『ほんとだ』って、どういうこと?
それは、クッキーの見てくれが、野原おじさんの作った売り物に、見えなかったってこと?
「ねぇ、快くん。『ほんとだ』って、どういうこと?」
「え・・・」
快くんの、表情が固まった。
「いや、クッキーの個性がね」
「クッキーの個性って、何よ?」
「形とか、色合いとか、野原さんの個性と、夢佳ねえの個性の方向性が、少し違ったのかなぁ・・・と言ったまでで」
「もう、知った風なこと言わないで、食べてみてよ。中身は野原おじさんのクッキーと、同じなんだから」
快くんは私の手からクッキーを受け取って、一口、口に入れた。
口に入れた瞬間、サクッと音がした。
私が狙ったとおりの、音だった。
「あ!」
快くんが、声を上げた。
「ん?」
「いや、ほんとうに、おいしい」
「ほんとう?」
「ほんとうの、ほんとう」
「ほんとう?なら、よかったけど・・・」
「うん。野原さんのクッキーは、そんなに食べたことないけどね。でも、このクッキーは、ほんとうにおいしい!」
見てる間に、快くんは私の焼いたクッキーを、サクサクと全部食べきってしまった。
「うーん、おいしくて、すぐ食べちゃった。ごちそうさまでした」
快くんが、私に両手を合わせて、ごちそうさまのお辞儀をした。
「どういたしまして・・・それで、」
「あぁ、おばさんの入院のことなら、誰にも言わないから。ウソついたら針千本でいいよ」
そう言って快くんは、懐から一枚の伝票を出した。
「じゃあ、ここにハンコお願いしまーす」
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