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5.
そういえば去年の暮れに、そんなことがあったのを思い出した。
今は3月の半ばを少し過ぎたところ。梅の花は盛りを過ぎたけど、桜が咲くのはまだ先だ。
葉を落としていた木々は、枝先に萌黄色をうっすらと灯しはじめている。昼間の日差しは強く暖かいけれど、まだ風は冷たい。陽が落ちて、ぐんと寒くなった中を、コートの前を掻き合わせながら家路を急ぐ。
ただいま。
ドアを開けて玄関に飛び込む。揚げ油のカラカラと爆ぜる音と、じゃがいもの皮が香ばしく焦げる匂いが、暖かな空気とともに流れてきて、鼻孔をくすぐる。
「よぅ、お帰り」
台所からエプロン姿の柴本が顔を出す。
「飯、すぐ出来るぜ。手洗って来いよ」
コートをハンガーにかけて手を洗ってから向かうと、出来上がった一品をテーブルの上に置くところだった。
親指の先くらいの小さなじゃがいもを丸ごと素揚げして、甘辛い味噌味に仕立てたそぼろ餡を絡めたものだ。
「これ好きでさ、新じゃがが出始めると作りたくなるんだ」
香ばしい匂いで、たまらなく空腹を感じる。
早く食べようよ。飲み物は――あ、今日は休肝日か。
「そんなこと言わず、ちょっとだけ」
仕方ないなぁ。普通の日だから発泡酒ね。
「そうだ、思い出した。小鳥遊さんから連絡があったんだ。キヨ子ばあちゃんの芋、順調に増えてるってさ」
そう言って見せてくれた端末の画面には、実験室の棚の上、照明の下に置かれたいくつもの培養ビンが並ぶ画像が映し出されている。小さな細胞片からひとつの株へと再生させる、古典的なバイオテクノロジーの手法は、小鳥遊にとって高校時代から磨き続けてきた得意分野だという。
「ここまでは順調だってよ。けど、ここから先、外の環境に慣らすまでに時間がかかるって話だぜ」
手術室のように無菌かつ一定の温度と湿度で保たれた環境から、荒々しい外の世界に出すまでには繊細な手順が必要だという。消えかけた伝統野菜を復活させるのは、すぐ出来る訳ではないようだ。
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