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前編
深夜でもドロリとした熱気が首筋に絡みつく八月下旬――。
木島弘行は真っ暗な階段で二階へ向かっていた。屋内であるというのに彼の足もとには小さな水溜りがいくつもできている。階段や廊下に設けられた窓ガラスが一枚残らず砕け散っているからだ。雨が建物内に入りこんであちこちに水溜りをなしている。
月の光すら届かないここには濃い闇が立ちこめていた。持参した懐中電灯で足もとを照らす。青白い光の中に大量のゴミや枯葉が浮かびあがり、それに混じって蝉や蛾の死骸が転がっているのも見て取れる。
ずっと前に閉鎖されたホテルは、もうすっかり廃墟と化していた。
こういう場所が肝試しスポットになるのはもはや必然かもしれなかった。このホテルもSNSを中心に幽霊ホテルなどと呼ばれていたりする。肝試しの最盛期ともいえる夏――。怖いもの見たさに駆られた若者たちが、毎夜のごとくここにやってくる。今夜も例外ではなく、肝試しに興じる若者をたくさんの見かける。
木島もそういった日に三人の連れと共に訪れたのだった。
ホテルは全部で四階まであった。各階をひととおり散策して、一階から四階までを制覇する。それが肝試しの定番コースだと、誰かがSNSにアップしていた。木島たちもそれにならって、ホテル内に歩を進めている。
木島はゴミや枯葉を踏みつけながら階段をあがっていった。ちょうど二階に着いたとき、場違いともいえる話をはじめた。
「日本のどこにきてるんだっけ? 超大型台風とか言われてるやつ。ニュースで見たけどすげえよな。家とか車とかが普通にぶっ飛んでた」
肝試し中に台風の話は場違いだ。しかし、木島の隣りにいる愛衣は、気にする素ぶりも見せずに応じた。
「その台風のニュース、私も見た」
そして話をついだ。
「家の屋根とかがバリバリ剥がれて飛んでいってた。なんかパニック映画とかを見てるみたいで凄かったよ。迫力満点って感じ。でもさ、台風とかの被害に遭う人って、きっと凄く運が悪いんだろうね。運が悪くないとあんな目には遭わないよ」
サンダルを引きずるようにして歩く愛衣は木島の妹だ。年齢は木島より三つ年下の十七歳。大学生の木島が友達と肝試しをすると聞いてここまでついてきた。
本当なら愛衣は同じ高校に通う彼氏とお泊まりデートする予定だった。しかし、彼氏に急用ができたとこかでおじゃんになったらしい。その暇をつぶすために肝試しに参加した。
木島は愛衣の話に「確かにな……」とうなずいた。
「ああいうもんの被害に遭う奴は、よっぽど運が悪いんだろうな」
「でしょう? だから、私たちは絶対に大丈夫。そこまで運が悪くないもん。きっと、災害とは一生無縁だよ」
愛衣が自信満々に言い切ったとき、木島の前を歩く山本亮一が、「俺もマジでそう思うわ」と同意した。
肝試しの発案者は山本だ。木島と同じ大学に通う山本は、後ろをチラッと振り返って話をつぐ。
「家が飛ばされるとか気の毒だけどさ、やっぱりそういう奴らは運が悪いんだよ。前世でなんかひでえことでもしたんじゃねえの? ――ってくらい神がかり的についてない奴らなんだろうな」
すると、山本の腕にしがみついている姫野由香が、怯え切った声で木島たちに訴えた。
「いや、なんで皆んな台風の話なんかしてるの? 台風なんてどうでもいいじゃん。運が悪いとか知らないし。みんなわかってる? ここ、幽霊ホテルだよ。幽霊が出るかもしれないんだよ。台風の話なんかしてる場合じゃないじゃん。私、めっちゃ怖いんだけど」
姫野と山本は高校のときにつき合いはじめたらしい。
「姫野さん、怖がりすぎだって」
愛衣がケタケタ笑うと、姫野は情けない声をだした。
「だって、怖いんだもん……」
愛衣はさらにケタケタ笑った。
「もう、笑わないでよ、愛衣ちゃん……」
口を尖らせる姫野に、木島は声を低くして告げた。
「怖がっていたらほんとに出るぞ。オーナーの霊が……」
「木島くん、やめて!」
姫野は耳を塞ぎ、愛衣は首を傾げた。
「オーナー?」
その問いに応じたのは山本だった。
「ここがホテルだったのは知ってるっしょ?」
「うん、知ってる」
「そんときのオーナーが三人続けて自殺したんだよ。そいつらが化けて出るって噂なんだわ」
初代のオーナーが経営難を苦に首を吊って自殺したのだが、奇妙なことに後を継いだ次のオーナーも、その次のオーナーも首を吊って自殺を図っている。三度も自殺があった不吉なホテルにはもう買い手がつかなくなった。オーナー不在のまま長年放置されたホテルは廃墟と化して、いつしか幽霊ホテルと呼ばれるようになった。
「そういや、首を吊って自殺するとさ、首がビヨーンって伸びて、糞尿垂れ流しなるんだってよ。きったねえ」
楽しげな山本に姫野が抗議した。
「もう、怖いこと言わないで!」
「だから姫野さん、怖がりすぎだって」
愛衣はそう突っこみつつ、またケタケタ笑った。
「けどさ、せっかくここまできたんだから、オーナーの幽霊を見てみたいよな」
あたりをぐるりと見まわした山本は、「ほら、出てこいよ」と強い口調で言った。すると、姫野が「ダメ!」とすかさず打ち消した。
「出てこないで! 絶対に出てこないで!」
それから、合掌した手を顔の前で擦り合わせて、「ナンマイダ、ナンマイダ――」と唱えた。
「ほんと、チビりそう……」
「女のくせにチビるとか言うなよ」
青い顔をして呟いた姫野を、山本はそう言って窘めた。愛衣はやっぱりケタケタ笑っている。
「ちなみにね、このホテルで死んだのはオーナーだけじゃないんだ」
これといった理由はなかった。強いて言えば退屈しのぎみたいなものだ。ここまでずっと黙っていた僕は、四人のすぐ後ろでそう告げてみた。
しかし、木島たちは僕の声に反応しなかった。彼らは僕の姿を見ることができない。僕の声を聞くこともできない。
だが、それは端からわかっていたことだ。僕は意に介さず続けた。
「肝試し中の若者が死んだんだよ。古い建物だから天井や壁の一部が崩壊したことがあってね、そのさいに瓦礫の下敷きになって命を落とした。一年ほど前にね……」
やはり彼らは僕の声に反応しなかったが、姫野だけはなにかを感じ取っているようだ。山本の腕にしがみついたまま、他の三人とは異なる態度を見せた。
「ねえ……」恐るおそるといったようすで、僕のいるほうに目を向けてくる。「……誰かに見られてる気がするんだけど」
鈍感な木島兄妹と山本は僕にまったく気づいていない。しかし、姫野は勘が鋭いのだろう。僕の姿が見えていなくても、直感で僕を認知して恐れている。
「もう、帰ろうよ……」
姫野の訴えを、山本は一蹴した。
「なんでだよ。きたばっかりで帰れるかよ。帰りたいならひとりで帰れよな」
「そんなあ、ひとりで帰れるわけないでしょう。ひどい……」
泣きだしそうな姫野をからかうように、木島がいたずらっぽく言った。
「姫ちゃん、諦めて四階までいくしかないね」
すると、姫野は山本の腕にさらにガッチリとしがみついた。
「こんなこと言うと変に思われちゃうかもしれないけどさ、すぐ後ろに誰かがいる気がするんだよ。なんかついてきてない……?」
「姫野さんはほんとに怖がりだなあ。怖がってるからそう感じるんだって。ほら、見て」
愛衣は後ろを振り返りながらきっぱり否定した。
「誰もついてきてないじゃん」
だが、姫野の主張は正しい。間違っているのは愛衣のほうだ。
僕は姫野を擁護した。
「君の言うとおりだよ。僕はすぐ後ろから君たちを見てる……」
しかし、姫野を含めた四人は無反応だった。僕の声が彼らに届くことはない。
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