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天井まで届く本棚に詰め込まれているのは、高価な革の装丁が施された戦術書。
薄暗い部屋には、暖炉の炎が爆ぜる音だけが満ちている。
本の虫なら誰もが理想の空間だと思うだろうそこは、残念ながら王城の作戦会議室だ。
部屋の中央に置かれた上質なオークの円卓を囲むのは、5人の男たち。
王と、王が信頼を置く臣下4名だ。
ランプの中でちろちろと燃える炎が、彼らの険しい表情を浮かび上がらせていた。
屈強な男が、口火を切った。
「以前も報告した通り我が国が支配下に置いている幾つかの小国、特にラスアビアで、小競り合いが頻繁に発生しております。大きな反乱に繋がるのも時間の問題やも知れません。陛下、どう致しましょう」
彼はチャド。王都から離れた地域を守る騎士だ。
まさか定期的な報告会を兼ねた形ばかりの軍議が、困惑と緊張に塗り替えられる。
「陛下はそのようなことは仰っていなかったよな?」「陛下には何かお考えがあるのだろう」
ひそひそと交わされる言葉。
皆の視線は王に集まる。
果たして、王はあんぐり口を開け、そして。
「もう少し早く言って欲しいのぉ。ワシに忠誠を誓うならば、斯様な重要な情報はもっと早く伝達せい!」
「………すみません」
自身の杜撰な情報管理能力が悪いにも関わらず人に当たるのはいつものことだ。
皆、口答えもせずに黙っている。
けれど、彼らの中に不満が燻っているのは確か。
国が滅べば、己のみならず家族や友人すらも危険に晒されるのだから当然だ。
「まぁ仮に王都に攻め込まれようと、民衆や貴族どもが城を守ってくれよう」
でっぷりとした腹を突き出し、深く椅子に腰掛ける彼に向けられる瞳は猜疑心に満ちていた。
口にこそ出さないけれど、皆、重税を課し、娯楽を全て封じる政策を打って民の自由を奪った王が、慕われているとは思えないのだろう。
「……失礼ですが、陛下。もしも国が滅びた時のことも考慮に入れておくべきではないでしょうか。ここにいる皆様も、我が国の先を憂いているように見えます。真の名君は、敗北の先につながる策も先手先手で打っておく者なのですよ」
理知的な瞳を輝かせて発言したのは、ロニーだ。
様々な戦を勝利に導いたと噂される放浪軍師は、なんの気まぐれか、この国の王に仕えている。
彼の意見は、王が理不尽な怒りをぶつけずに聞く唯一の言葉だ。
「ふむ」
続けろ、と言うふうに王は顎をしゃくる。ロニーは頷き、続けた。
「もし我が国が現在支配下に置いている小国に占拠されたとします。ですが、陛下のお膝元には沢山の者たちがいますよね。一丸となって反乱を起こせば、すぐにでも国を復活させることができます。しかし、民が一つの志に向かって突き進むには、立派な指導者がいなければなりません」
「ここまでは理解できたか」と問うように、ロニーは一旦言葉を切り、一通り皆を見渡す。
翡翠色の瞳は、暖炉の炎を映し出して妖艶に輝いている。
「戦に敗北した場合、陛下の信頼は、残念ながら地に落ちてしまいます。なので、別の誰かを指導者に祭り上げる必要があります。なので―――陛下のお考えを刷り込むことができ、且つ、民衆の信頼を得ることが出来る者を今からでも育てておきましょう。都合のいい、操り人形を作るのです。彼に国さえ復活して貰えば、陛下が改めて王に成り代わるのは容易いでしょう」
「民衆は、自分に近しい者に親近感を持つはずじゃから、適当な平民に我が思想を植え付ければ良かろう。だが、ワシらには下民と交わる暇なぞない。どうすれば、そんな都合が良い操り人形ができるんじゃ?」
ロニーはニヤリと、嫌らしい微笑を浮かべた。
「勿論、陛下のご息女、エステル様を使うのですよ―――」
*
「はぁぁぁぁ…………」
少女、エステルの退屈そうなため息が、読書好きの王侯貴族用に設られた大図書館に溶ける。
彼女の陶器のような白い肌や、てんで自由に跳ねる金髪、透き通った碧玉色の瞳に惹かれる少年は多い。
だが、幼く純粋な彼女は恋情に疎く、言い寄ってくる少年たちとの甘い日々よりも、まだ見たことのない遠い世界に興味があるようだった。
と
観音開きの扉を力任せに押し開け、ドタバタとエステルの元へ向かってくる者があった。
周りの迷惑そうな視線も気にせず、飄々とエステルの隣に座るのはロニーだ。
(父と作戦会議室で話していたはずの彼が、何故ここに居るんだろう?)
エステルの疑問に応えるように、ロニーはひとつ息を吸い、言葉を吐いた。
「エステル様、お父様がお呼びです。至急作戦会議室にくるように、と」
「わかったわ、ロニー。ありがとう!お父様との話が終わったら、いっぱい遊んでね!」
「勿論でございますとも」
王の前で鋭く冷静に輝くロニーの瞳は、エステルの前では穏やかに細められている。
だからきっと、小さなお姫様エステルは、ロニーに心を預け、笑顔を見せるのだろう。
*
「で、お父様。お話ってなあに?」
様々な香りによって演出された厳かな歴史にそぐわないエステルの声が、作戦会議室に響いた。
子ども向けの童話がないのでつまらないのだろう。
あたりに積まれた本の山を崩しては積み上げる遊びに興じている。
姫の自覚が無い娘が気に食わないのか、王の頬は少し引き攣っているようだ。
これ以上部屋を荒らされたくはないのだろう。王は急ぎ本題に入った。
「民衆の生活を調査することとなってじゃな。お前には一月ほど、平民の街に滞在してもらうこととなった」
「平民の、街?………それ、どこどこ?面白そう!行きたい!」
エステルの瞳に、知的好奇心と憧れが入り混じった炎が宿る。
姫はまんまと、未知の世界への情報、もとい餌に食いつき、王や彼の軍師が思い描く策の駒となったのだ。
王はエステルの紺碧の瞳を覗き込み、ひとつ、満足げに頷いてみせた。
「それだけのやる気があれば十分。旅装を整え、明日にでも此処へ向かってくれるかの?」
王は、エステルに紙を差し出した。
木の繊維が織り込まれた上質な紙には、『月桂館』と書き付けられている。
ただ、エステルは女故に、文字の勉強をまだ行っていないのだろう。
幼い姫は、難解な問題を目の前にしたかのように顔を顰める。
ある程度の教養を備える王は、呆れたようなため息と共に言った。
「ワシが贔屓にしている旅館じゃ。既に料金は支払っているからそこは心配要らぬ。不便だろうが、暫し辛抱してくれ」
「了解であります!お父様!」
ドタバタと慌ただしく自室に駆け戻るエステルを見て、今度は微笑む王であった。
*
ガッタゴットと規則的に揺れ続ける馬車が辿り着いた先は、質素な宿だった。
すっかり夜も更けて、博打屋や酒屋の類の騒めきがゆらゆらと街に揺蕩っている。
エステルに充てがわれた宿では最高級の部屋は、それでも、彼女の部屋と比べるとかなり質素なものだったらしい。
「これが平民の暮らしなのね………!」
いちいち感激しながら湯浴みをし、食事を摂っている。
世間知らずの姫の言葉は不思議と嫌味に聞こえず、寧ろ宿泊人や宿の主に好かれているみたいだ。
策の重要な駒となる姫の行動の軌道修正を行えるように同伴したロニーは、少しばかり感心した面持ちでエステルを見遣る。
そして、芽生えている想いと迷いに目を背ける。
彼らしくなく、昨日からずっとこんな調子だ。
(貰ってる金なりに働かなければ、将来的に信頼を失うことになるしな………)
ロニーは自身にそう言い聞かせ、独り、自室へと戻るのだった。
*
街の隅に佇む洋館は、一般的な民衆なら足を竦ませ入るのを躊躇う場所かもしれない。
壁にびっしりと根を張る蔓植物、傾いた壁や中途半端に開いた門扉を見たらそう思うもわかる。
だが、一歩足を踏み入れればそこが立派な図書館だと誰もが理解を示すだろう。
壁に沿って隙間なく設置された本棚一杯に、状態が良い本が目一杯詰まっているのだから。
余程調査を重ねた学者か作家、或いは物好き以外が殆ど踏み入れる機会のない場所だ。
ただ、作家の両親の元に生まれ落ちたロイドは幼い頃からここに通い詰めていた。
彼は、今日も今日とて本を返し、童話が置かれた棚の下に向かう。
と
今日は珍しく、ほぼ常連しかいないはずの場所で、ロイドが見たことのない少女が本を吟味していた。
上等な絹のワンピースを身につけた金髪碧眼の彼女はどこか浮世離れした雰囲気を漂わせ、まるで物語からそのまま飛び出してきたかのようだ。
(殆どの子どもたちは街の発展から取り残された旧闘技場を遊び場と定めているはずなのに、酔狂だな)
旅人か、物好きな貴族の子か、もしくは本当に魔法がかかった子どもか。
そのどれだとしても、少女には面白い物語が潜んでいそうだ。
ロイドの好奇心が、ふつふつと煮え上がる音がした。
「君、この辺りじゃ見ないね。何処から来たの?」
「あ、私はエステル!東の方から来たの!」
ロイドの言葉に少女は首を傾げ、見かけのわりにあどけない声で少女はそう答えた。
平民が暮らす街の東側には、貴族の館が立ち並ぶ大通りと、王城しか無い。
一少年から見ても恵まれた環境で暮らしていると推測できる少女に、しかし、ロイドは口調を改めずに砕けた言葉のままでそのまま問うた。
ロイドは、身分も地位も関係なく、同年代で同じものを愛する同志が欲しかったのだ。
「ふぅん。そっか。君は、物語が好きなの?」
「物語?勿論好きだよ!!誰かが作った世界を覗き込めるって、面白いもんね!」
「あ、君もそう言う観点で見ちゃう?やっぱし面白いよね。オススメの本、あったりする?」
「ああ、えっとね………これこれ!これ、オススメ!」
少女エステルが、刻印された題名を一つ一つ確認して本を抜き出す仕草は、様になっていた。
彼女がロイドへと差し出した本は、分厚い騎士道物語だ。
それは奇しくも、ロイドも気になっていたものの、その分厚さや文字の小ささ故に無意識に敬遠していた本だった。
「紹介ありがとう、読んでみるよ」
ロイドの口から溢れたのはありきたりで、その上乾き切った言葉だった。
今日たまたま出会った少女が、自分と同じ趣味を持っていて自分より一歩先を進んでいる。
誇らしく思っていいはずなのに、少年の胸にはモヤモヤと形にならない想いが渦巻き続けるばかりだ。
ロイド、エステルから逃げるようにそそくさとカウンターに向かい、貸出手続きを行うのだった。
*
その日から、エステルはロイドという名の少年と共に行動する時間が増えていった。
ある時は、図書館に満ちた静寂と冷気とは正反対の熱い議論を交わし。
またある時は、街の中央で開かれる市場で食べ歩きをして。
彼女は徐々に、王城に帰りたくなくなっていった。
それも当然だろう。
厳格な教育や思想を無理に押し付けられる王城と違った、自由や活気に満ち溢れた場所で、時に努力し、時に楽しみながら生きていくのはエステルの性にぴったり合っていたのだ。
*
「はぁ……」
必要な要素は全て揃った。
あとは上手くエステルを殺し、ロイドという少年に、下手人がラスアビア人だという嘘を吹き込むだけで策は成就するだろう。
けれど。
勝つためには方法は厭わぬ冷徹な奴だ、と恐れられる軍師様はエステルの姿を見て頭を悩ませるばかりだ。
滑らかにに羊皮紙の上を踊る羽ペンをピタリと止め、ロニーは幾度目かの溜息を零す。
彼は、少女が城を離れてから何気なく見せるあの笑みに惹かれていた。
人間の輝いている部分に、絆されていた。
ロニーは自嘲するかのように、わざとらしく冷たい笑みを浮かべ。
懐から、奇怪な形の鉄塊を取り出して呟いた。
「俺に、エステル様を殺せるだろうか………。いや、無理だな」
*
薄青色の花が咲き乱れる図書館の裏庭。
専用の出入り口は設けられておらず、風化の所為か石の壁にぽっかりと穿たれた穴を潜らなければ入ることができない、ロイドとエステルだけの秘密基地だ。
今日も彼は、日向ぼっこにおあつらえ向きのオークの木の下でエステルを待ち、共に街へ遊びに行ける―――はずだった、のに。
いつもの場所には、血塗られたナイフを持って蹲るエステルがいた。
傍には、ついぞさっきまで生きていたはずの物体が転がっている。
驚きを顔に貼り付けたままに事切れた「それ」は、乱雑に扱われたぬいぐるみの如く不自然な姿勢を取っている。
ロイドの口から、言葉にならない乾いた吐息が漏れ出た。
少女は、薄汚れたシルクのワンピースに顔を埋めたままピクリと動こうともしなかった。
「私の、大切なひとが……全てを教えてくれた上で、私に"殺して"って言ったの。だから私は、彼を殺した」
静寂にぽろりと落ちた声は、ロイドには、酷く幼く感じられた。
エステルは、弱々しい声でそのまま続ける。
「私は、もしもこの国が滅んだ時に、国を復活させる為に利用されてたみたい、なの。けど、私が彼を殺した時点で全てが破綻したの!もう、国も、彼も復活しないの……」
少女は、自身のこめかみに鉄の塊をあてがう。
小説家の両親の元に生まれ人並み以上に語彙がある彼は、その鉄塊が何か、知っていた。
それは、銃だ。目に負えないような速度で鉄の球を発射し、相手の命を奪う最新鋭の兵器……。
ロイドがエステルを止める間もなく。秘密の場所には銃声が響き渡った。
真っ赤な花が咲いた。
エステルも、少年がその少女と過ごした時間も、何もかも。
復活しないまま、全てを嘲笑うように時ばかりが前へ前へと進んで行く―――
*
きっと書に認めたところで、陳腐な作品にしかなり得ないのだろう。
けれど僕は、自分の過去について書かずにはいられなかったんだ。
ロイド
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