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最終話
雪が散らつく一月後半のことだった。風香はその日の放課後も黒姫がいる教室に向かった。ドアを開けようと手を伸ばしたとき、風香を呼び止める声が背後に響いた。
「フウちゃん」
振り向くとふたりの生徒がいた。ひょろりと背の高い生徒と、ぽっちゃり体型の生徒だった。
たぶんふたりは美術部の部員だが、名前は一まったく思いだせなかった。なんの興味もない生徒だったからだ。風香の学校生活において、エキストラ的存在のAとBだった。
ひょろりとしたほうのAが言った。
「最近のフウちゃん、悪い噂があるで。知ってた?」
ぽっちゃりのBがそれに続いた。
「黒谷さんなんかと仲良くしてるから悪い噂が立つんやで。もうやめといたほうがええよ」
教室ではいつも黒姫とふたりきりだったが、外からでも教室の中は普通に見える。風香が黒姫と話しているのを、皆はしっかり盗み見ていたらしい。
AとBは悪い噂の中身を風香にあれこれ説明した。しかし、右耳から左耳に素通りしていった。彼女たちの名前と同様に、覚えておく価値のない話だった。
(いつまでこの話続くんやろ……)
風香が真面目な顔を作って適当に頷いていると、AとBはようやく余計なお世話に満足したらしい。一仕事終えたという顔を見せて、「じゃあ、フウちゃん、気をつけてね」と立ち去った。
なにに気をつけろというのだろうか。悪い噂にだろうか。だとすれば、それを広めているのは彼女たちなのだが。
やっとのことで長話から開放された風香は、ドアを開けて黒姫が待つ教室に入った。すると、イーゼルの前にいた黒姫が、いきなり鋭い口調で言った。
「フウ、もうこの教室にはこないで」
AとBは教室の前で話をしていた。それが黒姫にも漏れ聞こえていたのだろう。
「あんなん気にせんでええって。それよりラッキーチョコの――」
新しい味が出てんけどな、と言う前に黒姫が言った。
「いいから出ていって。フウとはもう話したくないの」
黒姫の言葉が本心でないことくらいはわかった。風香を守るためにあえてそう言ったのだ。自分から風香を遠ざけて悪い噂が立たないように。
「さっさと出ていって」
しかし、風香はAとBの長話のあとで疲れていた。黒姫の気持ちは察していたものの、言い合う気にはなれなかった。
「わかった……」
風香は黒姫の言葉に従って教室を出た。そのときは、明日になれば黒姫の気持ちも落ち着くはずだと軽く考えていた。
明日になれば元どおりだ、と。
ところが、次の日もその次の日も、黒姫は風香を拒否した。教室に入ると「出ていって」と強く言われる。それが繰り返されているうちに、風香も気持ちが萎えてしまった。とうとう教室に足を運ばなくなり、黒姫との関係はあっけなく終了した。
三ヶ月弱の短いつき合いだった。
なにも知らない外野に口を挟まれ、スッピンの心地いい時間を奪われた。だが、冷静に考えればそれでよかったのだと思う。黒姫と下手に仲良くしていると、きっと風香まで皆に敬遠されていた。周囲とは足並みを揃えておくべきなのだ。キーキーうるさい外野の声は、ときに野生の猿のように凶暴で、逆らうと大怪我を負うこともある。
風香は黒姫と話をしないまま三年生に進級した。そして、当たり障りなく一年をすごして、皆と一緒に卒業式の日を迎えた。三年生の一年間を当たり障りなくで片づけるのはどうかと思うが、実際に可もなく不可もなくの当たり障りない一年でしかなかった。
卒業式が終わっていよいよ下校するというとき、皆は校門付近で抱き合って涙を流していた。別れを惜しんでいるらしい。学校になにも未練のない風香は、それを冷めた気分でを眺めていた。
(まだ帰ったらアカンのやろか……)
だが、誰かに抱擁を求められると、拒否せずに抱き合ってみせた。嘘泣きはなかなか難しかったが、それっぽく抱擁するくらいの技術は、高校三年間の生活で身についていた。
抱擁の儀式が一段落したとき、風香は近くに立つ人影に気づいた。見れば黒姫だった。久しぶりに見る黒姫は以前より少し痩せていた。
「……久しぶり、フウ」
ぽつりと話しかけてきた黒姫は、どこか緊張しているようすだった。
教室でよく話していた頃の黒姫は緊張なんてしていなかった。少なくともこんな気まずそうな顔はしていなかった。エキストラAとBの一件から疎遠になっているせいだろうが、やはり黒姫とはもう友達ではなくなったのだ。風香は改めてそう実感した。
「うん、久しぶり」
風香も似た言葉で応じると、黒姫がまたぽつりと言った。
「卒業おめでとう……」
「いや、他人事みたいに。黒姫も卒業やんか」
風香が思わず突っこむと、黒姫はふっと微笑んだ。相変わらず不機嫌そうな顔だったが、笑うと可愛いのも相変わらずだった。
「あとで見て……」
そう言って黒姫が差しだしてきたのは、抹茶味のラッキーチョコと、ハガキサイズの茶封筒だった。抹茶ラッキーチョコはAとBの一件があった頃に発売された新しい味のものだ。しかし、チョコのほうはおまけで、茶封筒がメインなのだろう。
「なにこれ?」
風香が茶封筒とチョコを受け取ると、黒姫は無言のまま踵を返し、校門のほうに歩いていった。
「ちょ、ちょっと、黒姫」
慌てて呼び止めてみたものの、黒姫は振り向きすらしない。校門から出ていった。
(もう、なんやねん。無視して……)
風香は不満を抱きながらも、受け取った茶封筒を見た。
(なんやろ。……手紙?)
風香は茶封筒の中身を取りだし確認した。それは一枚のポストカードで、風香の似顔絵が描いてあった。赤と黒だけでなく明るい色味が使われていたが、絵のタッチで黒姫が描いたものだとすぐにわかった。
裏を返すと文字が書かれていた。
――仲良くしてくれてありがとう。
それを読んだと同時に怒りがジリジリと募ってきた。
(なにがありがとうやねん……)
これはさすがに黙っていられない。そっちから離れていったくせに、今さらありがとうなんてどういうつもりだ。一言文句を言ってやらないと気が済まない。
風香は校門の外に飛び出して叫んだ。
「黒姫!」
卒業式はただただ退屈で、涙なんて一滴も出なかった。しかし、少し遠くにいた黒姫が足を止めてこちらを振り返ると、みっともないほど涙がボタボタと溢れ落ちた。
(泣くな、私)
風香は涙をゴシゴシと拭って怒鳴った。
「なんであのとき私を避けてん! 寂しかったやないかアホ! ありがとうより、ごめんって言え!」
黒姫はなにも言い返してこなかった。眉間にいつもの深い皺を寄せて、じっとこちらを見つめている。風香は鼻水をズルッと啜った。
「なんで黙ってんねん! 口ないんか。なんか言え、アホ! ていうかごめんって言え。アホ姫!」
文句を並べ立てた風香は、もう一度鼻水をズルッと啜った。
「それとな!」
黒姫からもらった抹茶ラッキーチョコを掲げる。
「ラッキーチョコはめっちゃうまい。でも、抹茶味は微妙やねん!」
少し離れていても黒姫の表情はよく見えた。笑うとやっぱり可愛かった。
*
以上が今から十年ほど前のことで、風香の平凡な人生において、唯一の大切といっていい想い出だ。これといった山もなければ谷もない。毎日が及第点という中では珍しく、少し凸凹した青春一幕だった。
現在は風香も黒姫も二十代後半になった。風香はぼんやりと年齢を重ねただけで、根本的にはなにも変わっていない。黒姫も同じようなものだが、絵はもう描かなくなった。
黒姫の赤と黒だけを使ったあの絵は、間違いなく怒りが原動力だった。絵筆を画用紙にバシバシと叩きつけ、怒りを一枚の絵として表現していた。
事件を起こした父親に、自分を避ける人間に、あるいは黒姫自身に――黒姫はずっと怒り続けていた。
黒姫が絵を描かなくなったのは、そういった怒りと折り合いをつけたからだ。
いつだったか黒姫がこんな話をしみじみと口にしたことがあった。
「フウを見てるといろいろ馬鹿らしくなったのよね」
風香の性格を端的に言えば冷めている。大半のことに興味がなく、大半のことがどうでもいい。そんな風香を目のあたりにしていると、あれこれ考えても仕方ないと思うようになったそうだ。
すると、長年肩に乗っかっていた怒りが、すうっと軽くなっていったのだという。頭痛もそれ以降はしなくなった。
しかし、その理屈だと――。
「私には心がないみたいやんか。さらっと人格否定せんといて」
そう抗議すると黒姫は「ごめん」と笑っていた。
風香の影響というのは聞き捨てならないが、黒姫を縛っていた怒りが消えたのは確からしい。怒りという原動力がなくなり、黒姫はもう絵を描かなくなった。
「今でもお父さんのことはいろいろと言われるよ。でも、そういうことも全然気にならなくなったね」
性格がずいぶん図太くなったのも、風香の影響なのだと黒姫は言った。きっと黒姫は不承ながら自分の境遇を受け入れ、偏見の目を受け流す術を手に入れたのだろう。誰にも頼らずに自分で勝手に解決法を見つけたらしい。
現在の黒姫の人生は風香と同じく致命的に平凡だ。毎日工場で検品作業をして、人並みの給料をもらって、ときどきプチ贅沢をして外食する。しかし、平凡というのはそんなに悪いことでもないらしく、黒姫は穏やかな顔をして静かに暮らしている。
そういえば、高校卒業後もつき合いがあるのは黒姫だけだが、これまでのふたりの関係はまさに気の赴くままだった。ほぼ毎日のように会うという時期もあれば、ときどきしか会わないという時期もあった。会いたいときに会うだけの適当な関係をダラダラと続けてきた。
高校生のとき、風香は友達をコンビニみたいなものだと思っていた。
近くにあるコンビニが手軽かつ便利であるように、身近な人間を友達にするのが便利かつ手軽だ。
たまたま同じクラスの誰かとか、たまたま席が近くの誰かとか――。
だが、今はラッキーチョコのようだと思っている。
毎日食べてもハッピー、ときどき食べてもハッピー。
友達というのは毎日会ってもときどき会っても、いつだって楽しい気分になれるものなのだ。
< 了 >
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