1.春

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 あんな失礼な大人から学ぶことなど無い!……と、思っていたらまさか。月曜二限、講義棟Aの105教室。そう、心理学の講師として教壇に立ったのは、その男(リョースケ)だった。 「ッチ、くっそッ」 「は? どしたん、芳樹。くそ機嫌悪いじゃん」 「新学期早々、自分の選択の誤りに気が付いたとこなんだよッ」 「だから俺を選べばいいんだって」なんて見当違いなことを言い出した大成の言葉は右耳から左耳へ、俺はそいつにおもッくそガン垂れた。  105教室は、講義棟Aの一階の中では一番大きな講義室である。恐らく、奴がこちらに気が付くことは無いだろう。 「おっ、あン時の口のきき方を知らないくそ生意気なガキじゃん。お前、オレの講義受けるんだ?」  しかし、バッチリ目が合ったそいつは、俺の凄みになんてまるで意に介さず、まるで面白いオモチャでも見付けたかのように、にやりと嗤った。 (………あ、これ、単位貰えないやつじゃね……?)  大人って、キタナイ。  そんなことには屈しないぞと言う気持ちを込めて、十九歳男子学生ー俺ーは、より一層、憎しみを込めて奴を睨み続けた。 「どーしたんだよ、芳樹。さっきの奴と知り合い?」  事の成り行きを何一つ知らない大成は、その講義が終るなり、俺に訊いてきた。いつもみたいな、煩わしい絡み方ではない。俺は腹立つ感情を抑えきれないまま、それでもなんとか、「別に!」と返事をした。 「絶対嘘じゃん。なんかあるだろ」 「なんもねぇよ。強いて言うなら、煙草吸う大人が嫌いなだけ」  講義室を出て、正門の方へ向かう。  そこら辺は、何時であろうと二回生以上の学生が新入生を部活やサークル、手始めにとばかりに、夕方にある飲み会に誘っていて、人に溢れていた。  その光景を懐かしむ余裕もなく、足早にずんずんと進み、校門を出る。  月曜の二限後は、大成のアパートで飯と言う話になっていた。  その後、三限からは秋夜と芳樹と落ち合って、五限までが月曜日の時間割りだ。俺は週の前半になるべく講義を詰め、後半は空きコマを多めに作った。流石にまだ、一日丸々休みと言う取り方は出来なかった。  それからもあの男の事は二、三訊かれたが、本当にアイツの事は、いけ好かない“叶ちゃんの元カレ”と言うこと以外、特に知っていることもないので、適当に流した。  大成が部屋の鍵を開け、玄関に入る。倣って、俺も大成の後をついて玄関に上がった。  途中で買ったコンビニ弁当をチンして貰っている間も、イライラが収まらず、ダイニングテーブルを指でトントンと何度も叩いた。 「………アイツさぁ、去年から居たっけ?」  結局、一度済んだ話を俺から蒸し返してしまう。 「あー? 聞いてなかったん? 非常勤だとよ。県内の短大から通ってんだって。元々、心理学の担当の、なんとかってセンセーが交通事故で入院したとか言ってたじゃん。ピンチヒッターとして呼ばれましたーって」 「アイツの事なんて興味ねぇよ!」 「なんそれ。お前から訊いたんじゃん。……大丈夫かよ、芳樹。余裕ねぇじゃん」  チン、と言う音から程無くして、大成が俺の選んだのり弁を持って台所から現れた。 「つかさ、前から思ってたけど、なんでお前んち、ダイニングテーブルあるの?」 「『なんで』? 買ったからだけど?」 「んな分かりきったこと聞いてねぇよ! 普通、大学生の一人暮らしで、ダイニングテーブルなんて買わねぇだろ!」  いや、知らんけど。  多分恐らく、買わないはずだ。  秋夜の部屋もローテーブルのみだし。一人ではもて余すだろう。それに、四年後に大体が引っ越すはずだ。 「ああ。(めい)もウチ志望してるんだよね。なら、二人で暮らせって親がさ。そんで、安いけど広いここのアパート選んで、家具も揃えてくれたわけよ」 「………ふーん」  薄々思っていたが、大成の家はきっと貧乏ではないのだろう。どころか、平均よりも少し羽振りがいいのかもしれない。  築年数は遥かに俺よりも年上だが、リフォームされたこのアパートは一室一室が広くて綺麗だ。部屋も、2LDK。ファミリー向けである。更に、その中でも大成は、角部屋をゲットしていた。しかも、最上階に当たる、三階だ。  改めて部屋を見回してみれば、二人掛けのソファーには猫の爪痕のようなものがついていた。壁にも、未だに壁紙の上から無数の穴が空いたパネルが貼り付けられている。が、それ以外は本当に気になるところがないくらい綺麗で、風呂トイレは別だし、寝室も別にある。 『何あれ』  そう訊いたのは、クリスマスだ。  壁に張られた穴だらけのパネルは、どうやら、後付け出来る防音ボートらしい。  探してみたが件の猫の姿が見当たらず、訊けば、明と一緒に実家へ行ったと言う。 『久々の独り身じゃん』  他意無く笑ってみせれば、『芳樹が来てくれたじゃん』と真顔で返されてしまったので、笑顔のまま固まり、顔が熱くなった……っけ。  思い出して、不覚にもまた、顔が熱くなってきた。「お前これ、何分チンしたの? あちぃんだけど」と、のり弁のせいにした。  クリスマス(あの日)から。  事あるごとに、なんとなく、大成の家に来てしまう。  だって…。なんか、ほら…。家に遊びに来てやった日には、意外と、変に口説いて来ないのだ。 『………クリスマスだからって、変なことすんなよ。したら、もう縁を切るぞ。絶交する』  一応した念押しに、『しねーよ』と大成は笑った。 『芳樹が望むんなら、勿論するけど』と、にやにやと笑いもした。  それでもやっぱり、何かしら仕掛けてくるのではないかと多少なりと警戒はしていたのだが、遂に泊まることになっても、本当に大成は指一本、俺に触れなかった。  それで、まんまと、俺からの(多少なりの)信頼を得たわけである。(※多少なりの!)  大成はすぐに軽口に口説いてくるわりには、こうして完全に二人きりの時は、フツーに友人の距離感になる。  相変わらず、泊まらない夜には愛の囁きみたいなラインを、朝にも、おはようくらいのラインを欠かさないのだが。
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