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新学期を一週間過ごしてみたが、これと言って変わったと思うような事はなく。ただ、時間割りが変わって時間の使い方が変わったくらいで、……まぁ、当たり前と言えば当たり前だが、二回生になったからと言って劇的に何が変わったと言うわけではなかった。
あの男ー心理学の安達亮介ーだけ、異物と思って警戒したが、奴は非常勤講師なので、どうやら月曜日以外にキャンパス内で見ることはないようで、然したる脅威ではなかったのかなと安心した。
平凡はつまらないけれど、平穏は大事だ。
それを去年の冬、よく味わったように思う。
「ねぇ、芳樹兄ちゃん」
夜十一時前、バイトから帰宅すると、玄関まで出迎えに来た弟の侑が待ってましたとばかりに声をかけて来た。
二回生になったので深夜までシフトをいれたかったが、母親の反対にあい、叶わなかった。学生の本分こそ勉強でそれをする為に大学に行っているんだと、改めて言われたので返す言葉がなかった。恐らくは、俺が寝不足になることを気遣っての言葉だろうと受け取った。
いつも疲れているけど、根は優しい母だ。
本当はもっと、自分の為にお金も時間も使って欲しい。
「兄ちゃん、明後日はどうするの?」
「明後日?」
「うん。誕生日」
話ながらリビングに向かうと、台所でもう一人の弟の[[rb:俊>しゅん]]が何かを火にかけていた。匂いから察するに、今晩はビーフ(の入っていない)シチューとみた。
「当日は、友達とお祝いしたりする?」
んー、と考えている間に、テーブルに皿が運ばれた。やっぱり、ビーフ(の入っていない)シチューだった。それから、業務用スーパーで買ったロールパン。キャベツの千切りの野菜サラダ。
「友達……って言っても、別に。俺の誕生日とか知らないしな。相変わらず、バイトして帰ってくるよ」
「そうなの? それ、寂しがらない?」
割って入ってきた俊に、俺は笑った。
「寂しがるって、二十歳になるんだぜ」
「芳樹兄ちゃんじゃなくって、友達の方」
「……や、あいつらも別に。『だから?』って感じだろ……」
「そうかな…?」と呟くように言ったのは侑。
「おれだったら、ちょっと、さみしーかな」と、眉毛を下げて、俊は笑った。「お祝いしたいと思うじゃん」と重ねる。
「そうかぁ? 別に、そんな奴らじゃないかなぁ」
ドンチャン騒ぎ……とまでは行かなくとも、講義後に集まって遊びに出たり、誰かの家でだらだら過ごしたりはしている。誕生日に改めて集まるようなことも無いだろう。
そもそも、「俺、今日誕生日なんだよねー!」って、大学生にもなってまで、言う?俺なら絶対、「だから?」って言うわ。「そーなん? オメデトー」くらいは言うかも。
それに俺の誕生日は四月の初めの方だから、打ち解けてお互いの誕生日を把握するような頃には、大体いつも既に過ぎている。友人から当日にお祝いされると言う習慣が無かった。
「俊と侑が祝ってよ」
「うん。そりゃあね!」
「[[rb:太一>たいち]]兄ちゃんと[[rb:正史>まさし]]兄ちゃんも仕事休みかも!」
「皆で祝えたらいいね!」
にこにこと既に祝福の言葉のように尊いメッセージを紡がれて、破顔しない兄などいるだろうか?
俺がわしゃわしゃと二人の頭を撫で回すと、侑と俊は「わーっ!」と嬉しそうに笑った。
それから日曜日。
彼らの希望通り、まさかの家族が全員参加で俺の誕生日を祝ってくれた。……親父までも、食卓を囲む。
「二十歳は特別だから」
と、一番上の太一兄ちゃんが乾杯してくれた。
人生初のーーーなんて言うと、金髪にピアスの穴は複数持つ俺の素行が意外と真面目だと笑う奴もいるかもしれないが、実際俺は、暴力沙汰の喧嘩とかしたこと無い。酒も勿論、二十歳まで飲まないと決めていたーーー酒を煽る。
「ぅあ、にっがッ!」
初めて喉を通したビールの苦さに、驚いた。
兄二人どころか、親父までも少し、笑っていたように思う。えっ?!と、見間違えかと目をしばたいている間にいつもの不機嫌な顔に戻っていたので、あっという間にアルコールが回って幻覚を見たのかも。
「これが最高に旨く感じたら、お前も一人前の大人だな」
なんて、兄ちゃんらは旨そうにビールを飲み干した。
細やかだが、普段よりも豪勢なご馳走が並ぶ。スーパーで買った寿司とか、肉も焼いてくれた。なんだか、申し訳無くて、でもやっぱり嬉しくて……どう言い表したら正確かわからない。泣きたいような、温かい、気持ちになる。
家族からのプレゼントだと、ボールペンと筆箱を貰った。ボールペンは筆記体で名前が彫られてある。わざわざ、注文してくれたらしかった。やっぱり少し、涙ぐんでしまう。けど、なんとか悟られないように隠して、照れ笑いを浮かべた。
「……ありがと」
それから、風呂から上がると、正史兄ちゃんに手招きして呼ばれた。
「芳樹、今いい?」
「いいけど。どしたの?」
正史兄ちゃんと太一兄ちゃんは同じ部屋だったが、太一兄ちゃんはまだ下で親父と母さんと話していたので不在だった。
久し振りに入る兄の部屋は、心なしか物が少なく、片付いて見えた。
「あのさ、芳樹。まだ、母さんと父さんには言ってないんだけど」ーーー俺以外の家族は、親父の事を「父さん」と言う。特に、兄ちゃん二人はパチンコばかりの親父の事を悪く言ったことが無かった。
「俺、この家、出ようと思うんだ」
「えっ?!」
「結婚、したい人が居て」
「えっ! あ、えっ?!」
まさに寝耳に水。
驚いていると、正史兄ちゃんが両えくぼを浮かべて照れ笑いをしたので、思い出したように、「おめでとう!」と言った。
「いやいや。まだ、決まった訳じゃないけど……」
「いや、え、知んなかった…」
「ははっ! 俺達がただ、残業ばっかで身を粉にして働いてるだけだと思ってたろ?」
素直に頷くと、兄ちゃんは苦笑いした。部屋に持って上がったらしい二つのグラスに、綺麗なボトルの酒を注ぐ。そうして、片方のグラスを俺に渡してきた。「まずはこういうお酒から入ったらいいよ」と。
くい、と飲んでみると、若干しゅわしゅわとするお酒は、程よい甘味を口に残し、滑らかに喉を滑っていった。
「………旨い、」
「うん。スパークリングワイン。彼女のお気に入り」
「急に惚気るじゃん?」
ははっ、と楽しそうに笑う兄の顔に、気持ちがほかほかとしてくる。否、アルコールかな。胸の辺りが、暖かい。
「芳樹は居ないの?」
と、徐に声がして、顔を上げた。
「え?」
「『え?』じゃなくて。彼女」
「…………居ねぇけど……」
気になる子は?と言われて、何故か一瞬大成の顔が浮かんだが、慌ててその顔を頭の中で払い除けた。
「居ねぇよ」
ゴクゴクとグラスの中の酒を飲む。甘くて、熱い。
正史兄ちゃんは、ほくそ笑んだ。
「居るならお前、我慢するなよ」
「居ないって」
「芳樹は甘えるのが下手だからなぁ」
「………」
もう酔っているのか、兄ちゃんはにこにこと上機嫌だ。
「……親父、許してくれるのかな。アイツ変に頑固だから『婚前前に同居なんて駄目だ!』とか、言いそう」
話を変えると、兄ちゃんはまた笑った。「そんなこと無いよ」と言った後に、「芳樹の中の父さんは、そういうイメージなんだなあ」と苦笑に近い笑みだ。
「確かに芳樹は、駄目な父さんの姿しか知らないからなぁ……。でも、父さんは家族想いの人だよ。不器用は元々だけど。あの人は、悪い親では無いよ」
「…………」
そうか?と思ったが、水を差すようで何も口に出来ずに、自分で瓶に手を伸ばしておかわりを注いだ。
「『酒は飲んでも呑まれるな』よ」
正史兄ちゃんの愉快そうな声。
それから、上がってきた太一兄ちゃんも混ざって、深夜過ぎまで、色んな話をしながら酒を飲んだ。
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