駆ける

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 俺は通勤快速の車内で後悔していた。  今朝は早く起きることができた。眠気覚ましのコーヒーを片手に優雅に朝食を食べて家を出た。それが良くなかった。せめて紅茶にしておけば良かった。  電車に乗って数分、猛烈な腹痛。下痢だ。俺の腹はそんなに弱くない。しかしコーヒーは時たま下す。幸い今朝はいつもより早い電車に乗っている。途中下車してトイレに行く余裕はある。だがこの電車は通勤快速だ。各停ではない。次の停車駅まであと7分はある。それに次の停車駅は普段使わない場所だ。俺はスマホを取り出し、次の駅の構内図を検索する。トイレへの最短ルートを見つけるためだ。そして最悪な事実を知る。俺は最後尾の車両に乗っている。そこが乗り換えに便利だからだ。けれど俺が行こうとしているトイレは先頭車両の方にあった。車内は混雑しており、車両を移動することは難しい。というか俺の腹が、肛門がこの揺れと人混みの中での移動に耐えられるか怪しい。  電車が駅を通過していく。脂汗が滲む。俺は下唇を噛みしめ、波に耐える。ここで粗相をするわけにはいかない。俺の尊厳に関わる。波が少し引く。もう少し耐えられそうだ。  季節は夏で車内には冷房がついている。定期的に俺に冷たい風が当たる。普段ならありがたいのだが、今は別である。腹が冷える。やり過ごした波を呼び起こす。  お願いします、助けてください。もう二度とコーヒーは飲みません。  俺は神に祈ることなどしないのにこの時ばかりは祈らざるを得なかった。頼むからあと数分耐えてくれ。肛門の前で止まっていてくれ。  昔はトイレなんて、特に大便なんて余裕で我慢ができた。小学生の頃は一度も学校の個室のお世話にならなかった。それが今ではこの様だ。加齢なのだろうか、年々トイレチキンレースの開催頻度が増している。  駅を通過。次が停車駅だ。何度目かの波が俺を襲う。頼む頼む頼むと何度も心の中で繰り返す。そしてトイレへの道をシュミレーションする。扉が開いたら急いで降りて、トイレへ全力ダッシュする。俺は足には自信がある。中高時代は陸上部で短距離走をしていた。俺の足ならきっといける。幸いにも扉の真ん前に立っている。ジャケットで腰元が隠れるのを良いことにあらかじめベルトを緩めておく。  車内に次の駅のアナウンスが響く。俺の心は停車の喜びと今から始まる戦いへの熱意で震えていた。電車は駅へ滑り込んでいく。スピードが緩やかになり、やがて電車は停止する。扉が開く。待ちに待った瞬間だ。俺は華麗なスタートダッシュを決め走り出す。ホームになだれ込む人々を必死に避けながらトイレへと走って行く。  人目なんて気にしない。気にする余裕がない。トイレまで全力ダッシュをし、個室に駆け込む。ドアを勢いよく閉め、ズボンとパンツを下ろし座り込む。俺の意識とは無関係で体外への排出作業が行われた。ぎりぎり。本当にぎりぎりの戦いだった。  戦いに勝利した俺は爽やかな気分で再び満員電車に乗り込むのであった。
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