虹の翅のつがひ

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 チョウツガイという虫がいる。見た目は蝶に似ていて、上下に分かれた一対の(はね)によって空を舞う。翅はアゲハチョウに近く、大きく鮮やかで、地域によって様々な模様と色合いの翅のチョウツガイが見られるので愛好家のみならず収集家も多い。昆虫博物館などに行けばガラス越しに舞う様々な色合いのチョウツガイの群れを見ることができる。近年ではトンネル状にしたガラスケースでチョウツガイを飼育し、来館者に天空を舞うチョウツガイを見上げさせる展示方法が流行っているらしい。その光景はまさに虹を見上げるが如く――そんな言葉を残したエッセイが反響を呼び、チョウツガイの群れはしばしば「虹の欠片の群れ」と呼ばれ愛されている。  また、チョウツガイの翅の色はその土地の水素イオン係数に依存することがわかっており、環境研究分野でも重要視されている。模様はどうやら遺伝性らしいが、一つとして同じ模様のチョウツガイは存在しない。一目で結果がわかるので遺伝子研究にも重宝されている。  チョウツガイは人類には欠かせない愛玩昆虫だ。  とはいえ昆虫に詳しくない人々からすればチョウツガイと蝶の見分けはつきづらい。左右の翅の模様が異なるのがチョウツガイだという話はあるものの、羽ばたき続けるチョウツガイの翅の模様を見極めるのは容易ではないだろう。最もわかりやすく見分けやすい点は頭部にあり、チョウツガイは複眼の下、口に当たるその場所はカマキリのような構造をしている。一般的な蝶と違い、花の蜜を吸うことに特化した口吻ではないのである。しかしチョウツガイは肉食ではない。一般的な蝶と同じく、花の中に頭を突っ込んで口の中から蝶と同じ口吻を伸ばして蜜を吸う。  ではなぜ、肉食であるカマキリと同じ口の形をしているのか? その理由は「チョウツガイ」という名前にも関係してくる。  チョウツガイはわずか数日で幼虫から(さなぎ)を経て成虫となるが、羽化したばかりのチョウツガイは翅を一列しか持たない。一列、というのは前翅一枚と後翅一枚の一組という意味である。つまり、羽化後のチョウツガイは全く飛べないのだ。飛べないチョウツガイはまず、仲間を求めて近場を歩く。チョウツガイは幼虫の頃からコロニーを形成し、兄弟達と共に植物の葉を食して時を過ごし、兄弟達と共に蛹となり同時期に羽化するので、つまり彼らは羽化後すぐに兄弟に会いに行くのである。 ***  そこまで話した後、担当者はふと口を閉ざした。ガラスケースの向こうを飛び回るチョウツガイの群れを見つめ、何かを思い耽るように黙り込む。私はメモを取っていた手を止めざるを得なかった。 「佐々木さん?」  首から下げられた名札の名を読み上げるように呼ぶ。チョウツガイ研究の研究員であるというその人はハッとした様子で背を跳ね上げ、そうして私をまじまじと見つめてきた。その眼差しはガラスケースの向こうのチョウツガイを追うものと同じ、輪郭から色から何からをなぞり覚えるためのものだった。居心地が悪くなった私はさりげない仕草で顔を逸らし、担当者の視線を追ってガラスケースの中を見たふりをした。 「ええと、それで、チョウツガイは羽化後兄弟と再会して、そこからどうやって翅を手に入れるんです?」 「記者さんはチョウツガイという名前から何か思い付きませんか」 「質問を質問で返されても……ああいや、ええと、そうだなあ」  私は困ったままガラスケースの向こうを見つめる。人二人分の視線の先で、チョウツガイはひらひらと楽しげに飛び回っている。元より昆虫に興味はない。これはただの仕事で、記事を作るために仕方なく昆虫博物館を訪れただけなのだ。正直な話、気力を消耗するような考え事はしたくない。流行りものを利用した記事がそれなりに売れてくれれば、ただそれだけで良いのだ。  とはいえ問われたからには答えなければ。へそを曲げられて取材を途中で投げ出されたらたまったものではない。私は「うーん」と唸りながらガラスケースの向こうを凝視した。  チョウツガイ。蝶番(ちょうつがい)と同じ名称。蝶番というのは扉に使われる部品のことだ。蝶の羽ばたきのように両翼が開いたり閉じたりし、それを建物と一枚板の繋ぎ目に使用することで開閉可能な扉が完成する。その構造は至ってシンプルで、円筒形の部位を片側に持つ板を二枚、円筒部に芯を通して組み合わせるだけだ。  ――板を、二枚。  組み合わせる。  ぞ、と悪寒が私を襲った。 「チョウツガイはですね」  担当者は私の回答を待たずにそれを言った。 「兄弟の翅を奪うんです」  担当者は私へと片手を見せた。目の前のものを指し示すように、指先を揃えて広げた手のひらを上にして、そうして小指側の側面を指差した。 「彼らは羽化後、真っ先に兄弟の元に向かい、翅を巡って争います。奪った翅の根元に腹から出した粘液を塗り、自らの背に擦り付けるんです」  担当者の指先が、輪郭を辿るように手の側面を撫でる。まるでその指の腹に粘液がついているような錯覚に、私は背筋を震わせる。 「粘液は接着剤のようにチョウツガイの背中に翅を接着する。とはいえ接着剤とは違い、翅が接着する場所がずれることはありません。不思議なことにパズルを嵌めるようにぴったりと、一対の翅を完成させるのです」 「……翅を、奪うって、具体的には」 「殺すんですよ。共食いです。羽化はエネルギーを使いますからね、すぐに捕食をしなければいけない。これは羽化後のエネルギー補給と強い個体を残すことを兼ねた、チョウツガイなりの繁栄方法なんです。だからチョウツガイは成虫になるまでの期間がものすごく短い。成虫になる前に捕食され数を減らすことのないよう、最小限の期間で成虫になるのです」  担当者は淡々と言う。私は言葉を失う。 「チョウツガイの翅は遺伝と地域に依存します。大きさも形も、少しばかり差異が出る。つまり彼らは同じ土地に産み落とされ同じ植物を食して育った兄弟の翅でなければ、左右の翅の大きさや形が揃わず飛べないのです」 「……思っていたより、過酷な、ええと、その……生々しい、生態ですね」 「そうですか」  担当者はやはり淡々と言うのだった。  私は改めてガラスケースの中を見た。チョウツガイがたくさん飛んでいる。赤、青、黄、白、黒、述べきれないほどの色がそこにあり、それぞれが忙しなく羽ばたいている。一見すれば美しい光景だ。虹の欠片がきらきらと星のように瞬きながら宙を舞っている。確かに、そうだ。  けれどこの光景は悲惨な競争によって成されている。  私は顔を背けた。美しいその景色を美しいと思ってしまう自分がおぞましかった。目を逸らさなければ永遠に「美しい」と評してしまう。それは本能的なものだった。生きた貝を(あぶ)り苦しみもがくそれを(むさぼ)り「美味(おい)しい」と思ってしまうのと同じ、醜くも止められない衝動だった。 「あなたにとって、チョウツガイは醜いものですか」  ふと、担当者が何か言った。 「チョウツガイは目を逸らさなければいけないほどに醜いものですか」  私は顔を上げた。そうして声が聞こえてきた方を見遣った。  担当者と目が合った。  その眼差しは真剣で真っ直ぐな輝きを宿していた。 「彼らは一途に生きているだけです。その生き方が我々と違うだけです。それを、あなたは批判するのですか」 「いや、私は」 「チョウツガイの生態を知ってチョウツガイに幻滅する人は数多くいます。それは仕方のないことだと思います。けれど、彼らにとってはその生き方が当然であり、最も効率的なのです。その結果がこの美しさであり、生命なのです。種族も進化の過程も異なる我々がチョウツガイを愛でておきながらその生き様を否定するのはあまりにも傲慢だ。それを、忘れないでいただけますか」  担当者は終始淡々と、私へ訴えた。 「記者さん、今回あなたの取材を引き受けたのはそのためなのです。チョウツガイの生き方を野蛮だというただ一言にまとめないで欲しいのです。彼らもまた命であり、命として懸命に生きている――それを、必ず、記事に書いていただきたい。僕は」  そこで初めて担当者は言葉を詰まらせた。単調に見えるその無表情を私から背け、そうしてガラスケースの向こうの虹色を見た。  心なしかその横顔は、柔らかだった。 「……この美しさが、彼らの懸命さに思えてならない。それを頭から否定されるのは……心底つらいのです」  けれどその言葉は表情とは逆に物悲しげだった。 「見た目だけを重宝され、その見た目を得るための過程を批判されるのは……」  悲しい、ことですから。  あらゆる感情を「悲しい」というありきたりな単語に押し込めて、彼は言うのだった。私はしばらくその横顔を見つめた後、ガラスケースの向こうの虹を眺め、時が経っても太陽光がなくても消えることなく煌めき続けるその色合いに見入った。  チョウツガイが飛んでいる。様々な色の、様々な翅の模様を持つチョウツガイが、砕けた虹の欠片の如く色鮮やかに宙を彩っている。いつまでも、いつまでも――おそらくは彼らが死に至るまで――その一対の翅を羽ばたかせて飛んでいる。それを見つめる私の顔がガラス面に映り込んでいた。  隣でガラスケースの中を見つめる担当者と同じく、私もまた、休日の昼間を過ごしている時のような気の抜けた顔をしていた。  私は静かに頷いた。そうして手元のノートにメモの続きを書き込んだ。  私達を前に、虹の欠片達はひたすらに懸命にガラスケースの中を飛び回っていた。
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