緑地深層

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『緑地深層』 園崎葉月の絵画はどれも言葉を失う作品だった。 しかし、この『緑地深層』という名の絵画を前に、僕は我を失い立ち尽くした。 色とりどりの鮮やかな花畑。 花々の美しさに彩りを加え、更に生命の力強さを訴える、瑞々しい葉や茎の緑。 そして、その下。 土の中。 戦禍 飢餓 疫病 暴力 圧政 凌辱 自殺 苦悶の声を上げながら、絶望の淵に沈みながら、死した亡骸が腐食し、崩れ、土に返り、そして彼らを養分にして、大地に美しい緑が芽吹き、花を咲かせる。 写真家である自分が不要と切り捨てた全てがそこに描かれていた。 ……いや、直視するのを恐れて避けたという方が正しいのかもしれない。 僕が直視できずに避けた全てが余すことなく描かれたこの絵画に、そしてそれを描いた園崎葉月という画家に、感嘆の吐息を漏らすしか無かった。 自分の持つ全ての言葉をもってしても、園崎葉月の作品を語るには足りない。 そんな絶望すら感じていると、隣に誰かが立った。 茶髪の、いかにも今時の若者といったラフな格好の青年。 少し痩せぎすで肌が青白く、不健康そうに見えたが、それ以外はごく普通の、何処にでもいる青年といった印象だった。 「ご気分、優れませんか?」 青年が僕を見上げる。 大きな瞳がしっかりと僕を見据え、逃げることを許さない。 「俺の絵、グロテスクでしょ?覚悟をして来ても気分が悪くなってしまう人もいるんです。あと、お化け屋敷感覚で来て倒れてしまう人もいて……救護所を設けて看護師さんに常駐してもらっているんです」 どうやら、立ち止まったまま動かない僕を心配して声を掛けたようだ。 ……いや、それよりも。 「俺の、絵?」 青年は大きな瞳を見開いて考え込んだ後、恥ずかしそうに真っ赤になって微笑んだ。 「俺、園崎葉月です。画家やイラストレーターに見えませんよね。よく言われます。威厳がないというか、何というか……」 照れ笑いする青年、園崎葉月を目の前にして僕は凍りついた。 タレント業もしている僕は、著名な俳優からアイドル、政治家とも仕事をすることもある。 彼らを前にしても自然体で居られる僕が、こんなにもごく普通の青年の前で、言葉を失い固まっている。 いや、ごく普通の青年なんかじゃない。 目の前の彼は、この『緑地深層』という絵画を描いた画家だ。 殆どの人間は、目の前の花にしか興味が無い。 葉や茎に興味を示す事すら稀で、その下の土や、土に返った人間たちの末路にまで、考えが及ばない。 その青年は、殆どの人間が知覚しないそれらを見聞きし、白いキャンパスに描き出すのだ。 常人である筈が無い。 巫女のような超常の存在だ。 「いや、すまない。あまりの素晴らしさに絶句していてね……」 「……え?」 青年は予想外の言葉を聞いたかのように驚きの声を上げた。 「君の絵画はどれも素晴らしい。……いや、素晴らしいという言葉では語り尽くせない。僕の持つ言葉を総動員しても、君の絵画の魅力は語り尽くせないだろう」 「そ、んな……キモいの一言で語っちゃう人もいますよ」 先程のアイドルたちを思い出した。 目の前の華奢な青年が、どれ程他人の心無い言葉で傷ついてきたか、想像するだけで胸が痛んだ。 「僕は御劔恭一郎。写真家の端くれだ。植物や風景を中心に写真を撮影していてね。だからこそ、この『緑地深層』という絵画に絶句した。僕が写してきた世界はほんの刹那の世界で、その刹那の世界が出来上がるまでにはこれ程までに壮大なストーリーがあるなんて今まで気がつかなかった。いや、目を逸らしていたのかもしれない。芸術家としては僕はまだまだ未熟だね」 自嘲の笑みを浮かべると、彼はふるふると首を左右に振り、言った。 「そんなことありません。俺は貴方の写真を見て、初めてこの世界が美しいと思ったんです。貴方の世界は、刹那だからこそ美しいんです。最も美しい瞬間を切り取った宝石。貴方は美しさというものを俺に教えてくれたんです」 他人の個展に足を運んで、まさか自分の作品を賞賛されるとは思わなかった。 聞けば、園崎葉月は毎回僕の写真集を発売日に購入し、サイン会にも足を運んでくれていたらしい。 園崎葉月が自身のサインを求めて来たのに、気にも止めなかった自分を心底殴りたいと思った。 この邂逅で連絡先を交換した僕と園崎葉月は、互いの仕事の合間を縫って会うようになった。 会う頻度は次第に増えてゆき、僕の邸宅で共に暮らし始めるまで、そんなに時間はかからなかった。
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