緑地深層

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「行ってくるな、恭一郎」 「あまり無理はしないでね、葉月君」 児童精神科病棟への入退院を繰り返し、ろくに学校にも行っていない。 現在も精神科に通院しており、安定剤や睡眠薬を常用し、自傷行為を繰り返す上に摂食障害持ち。 ……にも関わらず、葉月君は案外アクティブだ。 エリュシオンのジャケット映像やミュージックビデオに使われるイラストだけでなく、ライブでスクリーンに映し出される映像にも葉月君のイラストが使われているらしい。 今日はエリュシオンのライブツアーの打ち合わせに参加すると聞いた。 エリュシオンだけじゃなく、他のミュージシャンとも契約を結び、海外アーティストからの依頼もある。 その他、ゲームやアニメーション業界からも依頼があったりする。 昨夜の夕食後に激しく嘔吐した葉月君は、けれど眠れないからと徹夜でイラストを描き続け、今朝は顔色を隠す為に目立たない程度に化粧を施し、笑顔で打ち合わせに出掛けていった。 僕は物分かりの良い恋人を演じて送り出した。 けれど、僕の心の深淵では、ドス黒い灼熱の闇が煮えたぎっている。 葉月君を何処にも行かせたくない。 ずっとこの家に閉じ込めておきたい。 いつ死んでもおかしくないような生き方をしている葉月君。 ひとつでも多く作品を生み出し、世に送り出すために、その為だけに生きているような彼。 作品という子供の為なら自分がどうなっても構わないとでもいうように、自分自身を省みることなくその身を削り続ける園崎葉月という芸術家。 彼と同じ芸術家としての御劔恭一郎は、そんな園崎葉月を心の底から尊敬していた。 彼の作品を余すことなく堪能しようと、遂にはエリュシオンのライブにまで足を運ぶようになった僕は重症だろう。 だが、人間としての御劔恭一郎が叫ぶのだ。 葉月君と一分一秒でも長く共に在りたいと。 だからこそ、葉月君にはもっと自分の身体を大切にして、長生きして欲しいと。 ……いや、御劔恭一郎という闇はそんなに綺麗なものではない。 園崎葉月の全てを独占したいのだ。 彼の作品も、彼自身も。 「……っ、く」 葉月君には絶対に入らないようにと伝えた一室。 年中カーテンで閉ざされたこの部屋は、壁も天井も全て、隙間も無い程に葉月君の写真で埋め尽くされている。 葉月君承諾の元撮影した写真ももちろんある。 ……というか、最初はそれだけで十分で、笑顔を浮かべた葉月君の写真だけを貼っていた筈なのに。 「ふっ……、っ」 机の上に散らばるのは、昨日の葉月君。 夕食後にトイレで嘔吐する葉月君の写真を眺めながら、僕は自身を慰めていた。 葉月君のこんな表情を知るのは僕だけだ。 葉月君は僕のもの、僕の所有物。 葉月君は絶対に誰にも渡さない。 もし彼をこの家に閉じ込めたら、その手足を枷で繋いだら。 絵を描く為に生まれてきた彼から、絵を描くことを奪ったら。 ……彼はこんな苦悶な表情を僕に見せてくれるのだろうか。 こんな写真越しではなく、生身の彼の苦悶の表情が見たい。 ドス黒い妄想は膨らむ。 彼の首を絞めたら。 彼の自傷の傷を押し広げたら。 むしろ僕が彼の身体を傷つけたら。 彼はどんな表情をするのだろう。 僕を睨むのだろうか。 僕を憎悪するのだろうか。 自身の置かれた境遇に絶望するのだろうか。 死にたくても自殺すらできない、拘束された葉月君と、葉月君の生殺与奪の全てを握っている僕。 ああ、なんて醜い妄想なのだろう。 「っ、ぁああっ……!」 白濁を自身の掌に吐き出した僕は、呆然とした。 ……僕は、何をしているのだろう。 部屋を埋め尽くす写真も、机の上に散らばる昨日の葉月君の写真も、隠しカメラで撮影したものだ。 既にこの邸宅内は隠しカメラで埋め尽くされていて、葉月君はいつでも何処でも盗撮されているのだ。 同居人である、この僕に。 葉月君は律儀にこの部屋に入らないという約束を守っているのか、そもそも彼は絵にしか興味を持たないのか。 盗撮を始めてかなりの時間が経つが、彼は何も言わない。 もし万が一、彼がこの部屋を開けたら。 彼は僕に別れを切り出すのだろうか。 それとも、僕への恐怖に怯えるのだろうか。 その瞬間を心の底から望む僕と、絶対に嫌だと叫ぶ僕が居る。 僕はこんなにも醜い人間だっただろうか? 白濁に塗れた両手を洗い、葉月君の部屋に侵入する。 隠しカメラの確認と、位置の調整の為だった。 葉月君の部屋の机に、僕の写真集の新刊が置かれていた。 「恭一郎はやっぱり天才だ」 この写真集を胸にしっかりと抱き締めた葉月君が言った。 「俺、今回もタオル片手に泣きながらページを捲ったもん」 やめてくれ。 僕はそんなに綺麗な人間ではないんだ。 君を盗撮して。 君に欲情して。 君を監禁したいと願って。 君を苦しめたい、傷つけたいと願って。 そんな醜い自分を、君に曝け出せずに居る。 僕は臆病者で、小物で。 決して天才ではない。 美しいものを切り取る写真の才だって、結局はその背後にある醜いものが見たくないからだと思い知った。 僕は醜い。 こんなにも醜い自分を自覚していながらも、君の幸福を願い、手放す事すらできない。 それに……。 僕の写真集をこんなにも大切にしてくれるのは、葉月君だけなんだよ。 この写真集、発売日翌日にはネットフリマやオークションで安値で叩き売られていた。 古本屋にも発売日翌日に並んでいた。 僕には君みたいな才能は無いんだ。 タレントもしていて、テレビ番組にたまに顔を出すからチヤホヤされているだけで。 君みたいに画力とセンスだけで自身の運命を切り開くような、そんな才能は僕には無い。 だから、大切にしたい。 だから、壊したい。 相反する二つの自分に苛まれながら、葉月君の部屋を出た。 葉月君、僕はどうしたらいいのかな? 狂ってしまいそうだ。 彼の部屋の扉の前で蹲る。 けれども、彼が帰宅したら僕はまた、物分かりの良い恋人を演じるのだ。 僕にとって、何よりも恐ろしいのは。 君に別れを告げられること。 君に見捨てられること。 だから僕は演じるんだ。 物分かりの良い、優しい恋人を。 彼の一番の理解者を。
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