バナナ代返金要求書 第二話

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バナナ代返金要求書 第二話

 私はすっかり冷めた視線で、眼前に転がっているみすぼらしいバナナを、もう一度見つめ直しました。先程までは神々しく輝いていて、天使が与えてくれたようにも思えた、その秘薬といえる存在も、今となっては、場末のスーパーの安売りワゴンに放置され、ひと房180円で並べられている、元のありふれた存在に戻ってしまったのです。たとえ、人生の恩人が手渡してくれた物とはいえ、祖品は祖品だと思えてきました。これは誤った見方なのでしょうか? いえ、違います。今の見方、今の視点こそが現実に生きるために必要とされる視点なのです。一時の思考の迷走によって生まれた、まったく不必要であったはずの、他者への感謝心こそが、超氷河期時代にはそぐわない、非現実的な行動であり、不毛な行いだったのです。  このバナナは、この国でもっとも多く目にすることができる、貧しき消費者たちが、自分の財布の中身を確認するたびに、その都度失望し、国内産の高価な牛肉や鰻を、その手に取ることを早々に諦め、とりあえずの空腹を満たすために、泣く泣く購入していくチンケな商品です。私の思想も視界も、今や、すっかり現実へと引き戻され、その下々の民の視点からよく観察してみますと、その安売り果物の黄色い皮の表面には、いくつもの茶色い斑点が散見されました。収穫されてから、あの店に陳列されるまでに、ずいぶんと余計な時間が経っていると思われます。  ここにあえて書かせてもらいます。空腹感という負の要素をすっぱりと取り除いた上で、率直な感想を述べさせて頂けるならば、それほど美味しいバナナではなかったという結論になります。もっと高級で、しかも食感に優れた果物が、この世には無数に存在するはずです。末端のスーパーに流通しているバナナなど、庶民のテーブルに並びうる食べ物の中で、最底辺の部類なのです。できることなら、私は高級レストランのデザートで出されるような、一本2000円以上のバナナを口にしてみたかったのです。道端でふと出会った他人に自慢できる話題は、ひとつでも多くあるべきです。これは身分不相応の贅沢であると評されるべきではありません。これは欲深い俗人すべての心の叫びを代表して発せられる、究極の図々しさなのです。月給18万円の営業マンが、昼休憩の折りに、グアム島7泊旅行のパンフレットを手にとって、しかも、薄ら笑いさえ浮かべている。そのことを他人から責められるいわれがありましょうか? 現実逃避の必要性から生まれる、壮大な妄想と、それをさらに上回る欲望が無ければ、全国各地の宝くじ売り場は、すでに廃業して更地に戻っているはずなのです……。私が目の前に置かれたボロボロのバナナのことを、心から憎むのは当然のことです。なにしろ、私はそれほどまでに打ちひしがれ、この世に絶望していたのですから!  感情が熱くなり過ぎたようです。もう一度、正気に戻り澄んだ目で、自分が良心と引き換えにして貰い受ける羽目になった、そのバナナを見つめてみることにしましょう。何度見てもバナナはバナナであり、この程度の安物をいくら食したところで、自分の人生に何か格段の変化が起きるとは到底思えません。単純な予測では、未来において、私は必ず眼前のこれを食すでしょう。そうすると、多少の満足感も得られるのでしょう。しかし、明日また、この時間がくれば、胃の中のバナナは、鉄をも溶かすであろう強力な胃液により完全に消化され、寒気と腹痛を伴い便所に排泄され、しばしの後でまた空腹により追い詰められ、金策に悩むことになるわけです。悩んでも空想に逃げる他、自分を慰める方策はありません。再び、世を恨む妄想が次々と沸き起こります。企業社会の暗々たる現状に意味もなく憤り、何の悩みもなさそうに、アパートの前を行き過ぎる人々を見るにつけ、逆恨みすることでしょう。結局のところ、先日とほぼ同じ時刻に、腹を空かして、再びあてどなく街を徘徊するに決まっています。どうせ、少しの時間の経過によって、今までと同じ道に戻ってしまうのであれば、もしかすると、一度は我が身を救ったのではと思えた、この金色のバナナでさえも、私の人生にとっては、まったく不要な存在であったのかもしれません。  貴店の店長の好意により、バナナを譲っていただけた時、その出会いの奇跡には、いたく感謝したものです。だがしかし、今となって顧みれば、その稀有な出来事すら、単なるありがた迷惑に感じられてきたのです。あの時に戻れるのなら、一時は恩人とも思えていた店長さんに対して、こう尋ねてみたいものです。 『あなたは私の人生の方向を変え得る恩人の立場から、手を差し伸べて救ったのではなく、ただ単に、店の前に転がっている、薄汚い浮浪者をやっかい払いにするために、このバナナを恵んだのではないですか?』  軽薄な語りと同意だけで構成された、この安っぽい社会においては、陳腐でありきたりな美談さえも、それを毎日のように連ねていけば、テレビも雑誌もある程度の数字は稼げるわけです。誰もが軟派とナンパに走ります。そこに、真実を貫いた、このきわめて冷徹な質問をぶつけたのなら、あなた方はいったい何と答えてくれたでしょう。どうですか、もし、店の前で倒れていたのが、うら若く美しい女性であったなら、あなたはもっとよい待遇を用意していたのではないですか? 店の中にある事務室にまで、丁重に運び入れて、大病院の看護師のように優しく介抱し、今後とも関係をつないでいく為の身元調査とも思えるような、いやらしい質問を次から次へと繰り出しながら、高いブランデーと洋菓子を振舞っていたのではないですか? そう、あなたが私に対して、身近にあった安物のバナナを選び、そのひと房を恵んでみせたのは、自分の視界に入ったその姿が、余りにも見苦しい中年の浮浪者だったからです。この姿を目にしたとき、日々の生活自体に、ほとんど苦労していない自らの人生と比較して、安堵と優越感を抱いたことは疑いようもありません。つまり、社会から滑り落ちた負け犬を発見したその立ち位置から、息も絶え絶えであったこの私を、遥か崖の下に眺めて、そっと、ほくそ笑んだわけです。  こちらから言わせて貰えればですね、あなたとて一介の中級労働者に過ぎず、端的に表現すれば、あんな狭い店内を取り仕切るだけの存在なのです。企業社会全体から見れば、それほどの権力者ではないのです。それなのに、この私に対して、浮浪者、負け犬、落伍者、底辺徘徊層のレッテルをべったりと貼り、その心中では嘲り笑っていたわけです。こんな残酷極まる仕打ちを与えておきながら、すまん許せ、他意はない、今は我慢しろ、必ずいい時は来る、などと宣うつもりなのですか? こんな落ちぶれた生活を送ってきた自分にさえ、兎の糞ほどのプライドは立派にあるのです。現代の仏を気取って朗らかに笑っていた、あなたの憎たらしい表情を脳裏に浮かべるたびに、生まれ持ったねじ曲がり根性と、ここ数年揺るぎない劣等感が、むらむらと頭をもたげてくるわけです。そして、小さな疑念が生じました。 『もし、私のズボンのポケットに一円も入っていなかったなら、あなたは(もちろん、仕方なくでしょうが)このバナナを無料でくれたのかもしれない……』  あの緊迫した場面において、大変うかつにも十円という大金を支払ってしまったわけですが、本当にこのバナナには、ひとりのダメ人間の人生を矯正するほどのパワーがあるのでしょうか? そう思い至ったとき、私の手は自然とパソコンのスイッチを入れ、インターネットでその答えを探してみました。そうしますと、驚きの結果が得られたのです。なんと、原産国のフィリピンの広大な農園で生産されているバナナのほとんどは、現地の市場において、ひと房たった三円ほどで取引されているのです。つまり、現地の人ならば、有用の際に望めば、道端に捨てられている程度の貨幣で、このバナナを簡単に手に入れることができるわけです。発展途上国と我が国との物価の違いはあれど、これは明確な差であるといえます。さらに調べていきますと、農園で収穫されたバナナが、段ボールに詰められ、海を越えて我が国に入る間に、人件費や運搬料や手数料などが否応なく発生してしまい、日本に入ってからも、いくつもの問屋を仲介して取引される過程において、値段がどんどんと跳ね上がっていき、商品棚に陳列される頃には、原価の数十倍もの価格になってしまうということでした。  この事実から引き出される結論は、私はわざわざ十円も払わなくても、あなたの見せかけの好意などに出会っていなくとも、バナナを食べること自体はできたわけです。バナナとは、本来飴玉ひとつにも及ばぬほどの価値しか持っていない食べ物であったのです。あなたとの奇跡の出会いや、修道士さながらの説教などを必要とするまでもなく、この空腹を満たすことは十分に可能だったわけです。  もちろん、これは国土のほとんどが田と畑で占められている発展途上国の問題となり、我が国の現状に置き換えることの難しさは重々承知していますが、今は、そのことは問題ではありません。もっとも重大な問題は、私が百八十円だと思っていた、バナナの原価はたった三円であったということなんです。自分の手で丹念に行ったこの緻密な調査が、もし真実であるならば、私が照れ隠しのために、あるいは、例の行為の恩に報いるために支払った十円という貨幣でも、貴殿が受け取るには余りに高すぎたわけです。もっと突っ込んで言いましょう。私はあなたの悪知恵に騙され、まんまとふんだくられてしまったわけです。今回の件は、庶民生活の中に天使の降臨のごとく生まれた、心温まる奇跡のエピソードなどではなく、往年の詐欺師が村一番の神父に化けて出てきた妖怪物語だったのです。  あなたの足元にひれ伏しながらも、自分は貴重な食べ物を恵んでもらえたのだと、当初はある種の満足感もありました。しかし、実際はそうではなく、この純真なる心は、完全に騙されていたわけです。そう思うと、今まさに握りしめている、このバナナの食べ残りは、えらく無価値なもの、そして、ますます安っぽい存在に思えてくるわけです。しょせん、安売りワゴン専門の果物ですからね。その存在に本当の価値があり、食通の主婦やOLにまで人気のある種の果物であれば、消費期限ぎりぎりの現在にまで売れ残っている現状に対して、まずは疑問符が付くわけです。口にしても得られるのは少しのカロリーだけと思われるこの食べ物は、喰い終わってしまえば、空腹感こそ何とか満たされますが、この心には何も残さないわけです。三ヶ月分のお給料、庶民には身に余る贅沢。例えば、銀座の高級フランス料理店でフルコースを食したときの満足感や充実感に浸ることなど、もはや、望むべくもありません。結果論になりますが、歴史に名を残す有名画家が描いた国立美術館の絵画や、古典クラシックの不可解でありながらも透き通る音色や、外国の知りもしない丘の上に舞い降りた女神の伝説の方が、傷ついていたあの頃の私を癒してくれたのかもしれません。  経済的にはほぼ無価値といえる十円が惜しくて、こんなに捻くれたことを主張しているわけではありません。生活必須物資に自分の資産の一部を投資をした社会人の一人として、それに見合った価値の報酬が欲しかっただけなのです。一円を笑うものは一円に泣く、という極まったことわざがあるそうですが、数十年以上も前に、造幣局にておぎゃーと生まれて、日本の賭博場、場末の居酒屋、期間工たちの麻雀大会、喧騒のバーゲンセール、殴り合いの満員電車を巡り、汚いおっさんたちの手のひらに散々握りしめられた挙句、やっと私のポケットにやってきた十円玉ですからね。これもひとつの運命の出会いと表現できるわけです。このポケットの外へ、つまり、一歩社会に出てしまえば、取るに足らない存在なのかもしれません。しかし、私のポケットに収まっている限りは、永遠の運命の友と表現できたわけです。そう、あのギルガメッシュとエンキドゥとの長い関係のように……。あなたはその十円玉を何の良心の呵責もなく、金欲にまみれたその手でスパッと奪い取り、レジの中に放り込んでしまいましたけれども、この私にとっては重い重い十円玉だったのです。  あのとき、それは、バナナを与えたことにより私を救ったときのことですが、「では、どう対応すれば、よかったのか?」と自問されるかもしれません。一聴したところ、この質問は、この議論の中で自然に響きますし、至極当然のものとも思われます。よろしい、ならば、こちらから解答の一つをを示しましょう。もちろん、人間関係の繊細さとその歪みによって引き起こされてしまった、この種の問題への正当と思える回答は、無限に存在する、という事実を否定するするつもりは、さらさらありません。では、もっとも単純な解答として申し上げます。いいですか? 私としては、すっかり凹みきってしまい、この倒錯した思考回路を、一般的な社会人と同程度まで引き上げるための、そして、まっとうな人間としての道に復帰していくための、極めて理解しやすい、人生の指針や助言が欲しかったのです。  あなたが良きと思って成した淡白な行為のように、小学生向けの道徳の授業のような、簡単な説諭で励ますのではなく、「君は真面目に生きているうちに、いつの間にか、意図せずに人の道を外れてしまったね。でも、もう大丈夫だ。わたしの言う通りに進んでいけば、また元の道が見えてくるはずだ。ここで人間社会という箱庭に、ひとりの成功者として復帰するための心得を教えよう」と、そのようなお告げが欲しかったのです。季節外れの台風のように、一瞬だけで過ぎ去り、すぐに忘れ去られるような、単調な教訓話ではなく、まだまだ先の長い人生を、再び上昇気流に乗せるための、心こもった助言がぜひとも欲しかったわけです。心中の一番デリケートな部分に、深く深く刺さった刺を、旧約聖書も死海文書も、そらで暗唱できる本物の神仙のように、ためになる恩寵を込めて、丁寧に抜いて欲しかったのです。もちろん、今となっては、すでに時遅し、であります。疑念と偏見に塗り潰された私の心は、もはや、暗き沼の底にまで沈められ、大ぶりのアワビを狙う素潜り海女でも、容易に引き上げることは叶いません。心はもっとも落ちぶれたときよりも、さらにひねくれました。病気がここまで進んでしまっては、あの大天使ガブリエルが、助けの手を寄こそうと、わざわざ舞い降りてきても、その顔面に唾を引っ掛ける有様なのです。ただ、あなたの成した行為が最初からすべて間違っていたという悲しい事実は、この私でさえ、あの瞬間には思い至りませんでした。飼い主から暇を出され、完全に食い扶持を失い、もはや、獲物を捕らえる力もなく、腹を空かせて、汚れた裏道を彷徨う野犬のように、眼前に放り投げられた、得体の知れない干し肉に、飛びついてしまったわけですから……。 『さあ、では、このバナナをあなたの希望通り十円で譲ってあげよう。なに、礼はいらないよ。あなたのこれまで積み重ねてきた、正しい行いの結果として受け取ることができた食料なのですよ。偉いのはあなたの方であるし、私の好意は覚醒のきっかけに過ぎないのです。これを現代社会の片隅から贈られた、一つの愛情として受け取り、今度こそ、一人前の社会人として、真摯に心を入れ替え、まっとうな道を歩まなければなりませんよ。もちろん、酒、タバコ、ギャンブル、ペット嫌いなどの行為は控えるようにしてください。あなたが元の道に復帰するならば、あなたと関連していく人々の心も変わっていきます。周囲の人も、再び温かみと恵みを寄こすでしょう。家族はあなたを見直し、再び一つになれるでしょう。ただし、この次に深い悩みに襲われた際は、私は助言を与えられる距離にいられないかもしれない。そのときは新たに創り上げた人間関係を頼りに、自分の判断で道を選び、しっかりと歩んでいくのですよ』  と、そういう感じの台詞で力づけて欲しかったのです。人間社会という魔界そのものに脳と中枢神経を犯されてしまい、すっかり精神を病んだことで倒れてしまった、無数とも思える多数の信者を、優しく諭していくように、私を正しい方向へと丁寧に導いて欲しかったのです。それは叶わない夢でした。あなたがもっと高い知性と教養を持ち、これまでの半生の中で行ってきた、いくらかの人助けを良き経験として、そういう愛情にあふれる言葉を身に付けた上で、私を諭してくれていれば、一時の乱れた心によって手放してしまった十円玉には、もっと大きな偉大なる価値があったはずです。何しろ、神の助言との引き換えになるわけですからね。十円玉と引き換えに得た、輝かしい未来がその延長線上に開けていれば、私も真に心を入れ替えたかもしれません。そう、今頃はアイロンかけ立ての新しい背広に袖を通し、大いなる決意を込めて職業訓練所に足を運び、混迷した社会と自分の輝かしい未来に希望を求めて、新しい職探しに奔走していたのかもしれません。つまり、ひと房のバナナのパワーを頼りにして、本来ならば難解極まりない道徳の教えの数々を、かいつまんで説明しようとした、あなたの大雑把なやり方は、私の頭脳の動きを一時的に停止させ、錯乱させるという、中途半端な効果しかあげられなかったのです。これはとても残念な結果です。現在の私は、これこの通り、元のふてくされた放浪者の思考にまで、きっちりと立ち戻ってしまったわけですからね。  あなたの偉ぶった説教は、この哀れなる子羊の人生を、まったく救えなかったばかりか、別の悪意への道を切り開いたわけです。この指摘にどこか不満がありますか? 今のこの私の現状が、そして心情が何よりの証拠です。あなたが選択した、『クラスは全員団結』の熱血教師的なやり方では、私の心の奥底に染みついた、一般の企業人に対する、根強い劣等感と逆恨みを、いっそう強く刺激することになりました。もっといえば、まったく逆の行動へと走らせてしまったわけです。そう、これは一見にして平和とも思われる、現代の常識万能社会の大草原に、一匹の飢えた猛獣を解き放っただけのことだったのです。その尖った二本の牙には、呪いの血をこびり付かせて、数日後には、再び街を練り歩くのでしょう。  辺りを見渡せば、そこは何の備えも持たない、大量の羊たちが平和に飼われている牧場です。言うまでもなく、羊は皆、想定できぬ悪には無抵抗主義。それは(中産階級として)もっとも効率の良い生き方を知っており、小賢しくも実践できているからです。国家からの援助(エサ)がまともに与えられていないのは、常に強烈な反抗心を持って、鋭い目つきで上の階層を睨みつける、この私だけ。広く探し求めれば、他にも猛獣はいるのでしょうが、その数は極めて少なく、保守的な社会を統べる悪しき知性たちの陰謀により、離れ離れにされている。反抗者たちは決して群れをなさぬように別々の柵で飼われている。反抗心を持たぬ羊たちは、仲の良い羊同士で会話を楽しみ、やがて、交際に発展していきます。常に気の知れた仲間たちと隣り合い、年に一度の余暇を計画し、それを唯一の楽しみにして、どんな苦役にも苦悶にも耐えて働くのです。一生の間、半ば笑い半ば泣き、支配者により散々便利使いされ、やがてバラされ、出荷されるに至るまで、彼らはそのつかの間の幸せを、心ゆくまで謳歌するわけです。私は牧場という社会の中で、いつの間にやら、さらに孤立していき、さらに深くこの心を傷つけられ、さらに大きな罠に落ち込んで、地獄の釜の底の底で絶望するだけの社会生活を過ごすことになるでしょう。ただ、誰にも騙されずに生涯を終え、何があろうと、最後まで自分の意思を貫き通すという信念だけは持ち続けることができます。  極めて冷酷で単純なひとつの判断により、とあるバナナ数本は、我が手に渡され、複雑な心情によってなされた己の判断により、未だに食べ切れずに目の前に残されています。この先の未来を大きく左右しかねない、人生の途上のひとつの難問として、あるいは、すでに選んでしまった誤った回答の行く末として、いまだにここに存在しているのです。これらは地球の時を統べるグリニッジ天文台が、コツコツと一定の時間を刻むごとに、みるみるうちに味や容貌が劣化していくのでしょう。まるで、場違いな選択を繰り返しているうちに、嫁に行き遅れてしまった、身勝手な独身女性の、決して軽くはない懺悔を伴った、最後のお見合い番組の一部始終を見させられているようなものです。その結末がどうであれ、もうすでに周囲の誰の生活にも、さほど影響を与えないほどに、彼女の壮絶な恋愛劇自体は、小さな事件へと変質してしまっているわけです。  ロボットと操り人形が織りなす、この幸福社会(つまり牧場)に、これ以上存在しにくくなる前に、いっそのこと、早く口に入れ味わって欲しいと懇願しているようにも見えます。まるで、あの日、リストラを宣告され、やるかたなく、路肩に座り込んでいた私のようです。それとも、今現在は、まだこの私の方に、食うか食わぬかの未来を選ぶ余地が残っているのでしょうか? 今現在は、まだ、あなたに頂いたこの果物を食すことを意固地になって拒み、窓から放り投げてやる選択肢もあり得ます。しかし、それはやがて、資本主義競争社会が生み出した、冷酷無比な上官からの絶対命令や、厳罰を伴う指令へと変わっていくのかもしれません。 『まだ食わぬのか? この残酷すぎるカーストの怖さがわからぬか? 愚かなおまえが繰り出す、迷い迷った選択次第では、煉獄の沼の下、まだまだ底があるのだぞ?』  しかし、この極めて回答に困る超難題を、後先のことを何も考えず、次々と産卵していく鶏のように、実にあっさりとこの世に生み出してしまったのは、他でもないあなたの方なんですよ。決して神でも勝利者でもないあなたが、高等裁判官でも容易には答えられぬ難問を、我々二人の間に不幸の卵として生み出してしまったわけです。しかし、身分も思考回路も、おそらくは思い描く未来像も、まったく異なっている私たち二人の問題は、そのまま社会全体への解答不可能な問いかけとはいえませんか? あなたへの恨み事を絶え間なく考えているうちは、私の食も一向に進みません。些細な問題を発端にしたトラブルにより、因縁をふっかけてきたマフィアたちに、自分の家族を人質に取られておきながら、夕食の箸が思うように進んでいく父親が果たして存在するのでしょうか? 一日の労働に栄養を奪われた内臓たちが、いい加減にそれを食ってしまえと命令しても、脳はそれをかたくなにそれを拒絶するでしょう。  よろしい、では、こうしましょう! たったバナナ数本で、こんなにも私の心を悩ませ、その研ぎ澄まされた刃で、この身体ともに深く傷つけてみせた、あなたに対して、復讐することを思い立ちました。そうでなければ、反理想主義社会の一番隅の方にまで追いやられ、完全に俵に足がかかった状態の自分と、同じく社会で倦厭され、本来ならば猛獣でありながら、その牙を親知らずに至るまで、完全に抜かれてしまった、私の架空の仲間たちが許しません。たった数日の間に、私の病んだ思考は、陣地に迫ってきた無数の敵を、自動的に殲滅していく、最新鋭の戦術的プログラムのように、半ば自動的にそこまで妄想を広げ、自分の最後の十円玉を、我が身の保身のことしか考えられぬ、独裁国家の君主のように、残酷にもぎ取っていった、あなたのことを、そこまで憎むようになっていたのです。ああ、羊のように素直に、あるいは、アメリカの人気SF小説に登場するロボットたちのように、反射的に渡してしまったのです。この偉大なる先進国(愛国者たちが述べるところでは)においては、本当に価値が存在するかどうかも知れぬ、哀れなる十円玉をむざむざ失ってしまった瞬間が、この脳裏を過るたびに、耐震性などまるで持ち得ない、安いアパートの屋根や壁を貫通した形で、魔界からの幻聴が聴こえてくるのです。 『なあ、おまえは騙されたのだろう? 自分の過去における間違った行為(謝礼)が忘れられぬのだろう? 今となっては、どうしようもなくそれが口惜しいのだろう? その胸を衝くように恥ずかしいのだろう? そこまで相手の好意が許せぬのなら、もはや、遠慮はいらぬ、とことんまでやり返せ! 相手にも、自分とまったく同じ思いをさせろ。今度はおまえの土俵でおまえの理論を跳ね返してやれ! あいつの胸ぐらをぐっとつかんで、そのまま殴り倒し、その不良品の革靴でぐしゃぐしゃに踏みつけてやれ! その後、例のスーパーに乗り込んでいき、勝利のクラッカーを派手に打ち鳴らせ! この先、数週間は、常連の客でも、まったく寄り付かなくなるまで、あいつの店をぼろぼろにしてやれ!』  そう……、誰にでも素直で従順であったはずの私の理性に向けて、心の奥底の真実を知った悪魔たちが目覚めて、そのだみ声を張り上げ、私の脳をすでに貫通し、地球の果てまでも響き渡るような、大声で叫んでいるのです。
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