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1話:朝のカンファレンス
強い夏の朝日が、窓の外から燦々と降り注いでいる。まだ茹だるような暑さには到達していない今の時分、川辺で早朝の風を感じながらウォーキングなんかすれば、さぞ気持ちがいいことだろう。
しかし、周囲のビル群ばかりが目に入るこの高層階の会議室内は、そんな爽やかな想像とは随分と掛け離れていた空気を纏っていた。
三十人は優に入る大きな室内には回の字型で席が作られていて、奥の上席に桜木大病院の小児科部長が、そして部長を囲むように専門医、看護師、研修医、薬剤師と医療に携わる様々な職種の人間たちが座っている。その中で一人、淡々と患者の病態と治療方針を説明していたのは、小児科医の東宮和臣だった
「小泉俊平君、八歳。昨年、潰瘍性大腸炎を発症し、これまで服薬治療にて経過を観察してきましたが症状が安定せず、中等症から重症に以降しつつあるので、御両親の承諾を得て本日より抗体製剤による点滴治療を開始する予定です」
会議室にいる全員が真剣な面持ちで和臣の説明に耳を寄せ、資料に目を通す。まだ七時前という朝早い時間だが、気怠そうだったり眠たそうな目をしている人間は一人もいない。
だが、それも当然の話。今、この場で議論されているのは重症度の高い疾患、および現在入院中の患者の治療方針や手術の予定、術式は危険を伴うものではなないかという人の生き死に関係してくるもの。わずかな判断ミスも許されない。
特に小児科は身体が完全ではない子どもが相手だ。成人と比べて症例が多くないこともあるため、少人数の知識だけで治療方針を決めるのではなく、より経験を積んだ様々な分野の医療従事者達が真剣に話し合う必要がある。
「この薬剤は年齢に加え、患者の体重により投与量が変わりますので、治療開始前に医師、看護師双方による二重のチェックを行います」
カンファレンス資料を見るために落としていた顏を一端上げ、和臣が冷たい視線を看護師たちに巡らせる。すると今日患者担当になる二人の女性看護師が、こちらに気づいて身体を緊張に強ばらせたのが分かった。
「加えてもう一点、本薬は治癒効果が高い代わりに、様々な副作用も予想されます。ですので点滴開始後は状態を細かく観察すること。また、症例は少ないですが点滴直後のインフュージョンリアクション……急性輸注反応が起こる可能性もあるので、適切な処置薬剤の用意も忘れないようにしてください」
大人子ども関係なく、強い薬は相応の副作用があるものだ。日本は外国に比べて慎重すぎる国であるゆえ、危険な副作用の発生度が少ないものを採用する傾向にあるが、それでも絶対にないとは言えない。だから常に最悪な状況を想定して動けるようにしておかなければいけないのだ。
おそらく、この場にいる医療のプロフェッショナルたちにとってはそんな初歩的なことを改めて言わずとも承知しているだろうとは思うが、それでも人為的ミスをなくすためには同じことを言い続ける必要があると、和臣は思っている。
すべては患者のためだ。
「以上です」
説明を終え資料を手から離した和臣が、小児科部長である尾根伸行が座る方に顏を向ける。と、白髪まじりの頭を頷かせた男が、柔らかな空気を醸しながら部屋全体に目を配らせ、確認を取った。
「皆さんは東宮先生の治療方針に、質問や異論はありませんか?」
反論の声は上がらない。
では、これで決まりだろう。ならばあとは親御さんへの最終説明を行って、と和臣が手順を考えていた時、本日のカンファレンスの終了を告げた尾根が、何やら気まずそうな表情を浮かべながらこちらを見た。
「ああ、東宮先生、最後にちょっと……いいかな?」
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