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第六話
それから何軒か見て回ったが、めぼしい宿はトスイが言った通りどこも満室で、まったく空いていなかった。これはもしかしたら、野宿の可能性もありえるか。アニタがそんな風に思い始めた時だった。
「やー! いらっしゃい! いらっしゃい! 階層によって部屋がガラリと変わる世にも珍しい宿屋ですよ! 今晩のお宿に是非いかがですか!」
向こうの通りの方で威勢の良い男の声が聞こえ始めた。
おかしい。宿を必死に探していたさっきまではこんな呼び込みはしていなかったような。アニタが訝しげな顔をする横で、トスイは特に驚いた様子もなく口を開いた。
「ああ、あれは呼び男の声だね」
「呼び男?」
「宿の客引きだよ。他の宿が満室になり始めた頃になると出てきて、ああやって泊まる宿にあぶれた客に声をかけて集めてる」
トスイの言う通り、呼び男の周りには泊まる宿を求めていたと思わしき旅人が集まってきている。
王都でも、市場などで店主がお客さんに対して「安くて美味しいよ!」と呼びかけている光景はよく見る。だが、宿の呼び男という存在を見るのは初めてだ。その辺は土地や街によって違うのだろうか。
「……それにしても、なんで他の宿が満室になり始めた頃に呼び込むんでしょうか。宿の宣伝なら、もっと早くからすればいいのに」
「他の宿が空いてる時にやっても客が集まらないからじゃないの」
他の宿が満室の時は選ばれて、他の宿が空いている時は選ばれない。それはつまり、他に選択肢がなく妥協の末に選ばれる宿ということだろうか。野宿よりはマシだから、と。
(それって、まともな宿ではないんじゃ……)
アニタがそう考えて首を捻るのをよそに、男は飄々と例の宿に向かって歩いて行く。
「えっ、もしかしてあの宿に泊まるんですか?」
「うん。他に空いてる宿探すの面倒だし、もうあの宿でいいや」
い、いけない!この男は完全に先程アニタが考えた思考回路を辿っている。他に泊まる宿もない、探すのにも疲れた、もういい加減休みたい、あの宿空いてるからもうあそこでいいや。そんな妥協の末にあの怪しい宿を選んでいるような気がする。
「ほ、本当に泊まるんですか?」
「ん〜? 嫌なの? 俺は別に野宿でもいいけど」
「野宿……」
野宿。野宿というものを、アニタはまだしたことがない。野宿では無論、寝るのは硬い地面の上だ。ろくに身体も清められないだろう。
いい加減身体の臭いが気になる。過去に来る前から仕事で汗をかいていたし、過去に来てからも幾度となく汗はかいている。お風呂がいいとは言わないから、せめて身体を拭くくらいはできないだろうか。
「——なんといってもウチの自慢は3階! 3階のお宿は各個室に専用の風呂、特注のふかふかベッドがついてます! そうして旅の疲れを癒した翌朝には豪華なお食事も! 少々値は張りますが、極上のおもてなしをお約束しますよぉ!」
追い討ちをかけるように、呼び男の客引きの声が通りに響く。アニタはゆっくりと隣に立つ男を見上げた。
「……ちなみに、あの宿の何階に泊まるんですか」
「え〜、そりゃあ……」
男は一旦言葉を止める。その間にも、アニタの心の中では「あんな怪しげな宿やめておけ」と警笛を鳴らす自分と「各個室に専用の風呂付き」と声高に叫ぶ自分がせめぎ合っていた。それはもう、ぐらぐらと。
「あの宿が自慢してる3階じゃない?」
だから、そう告げた男の顔に随分と人の悪い笑みが浮かんでいたのを見逃してしまった。
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