第七話

1/2
前へ
/31ページ
次へ

第七話

 部屋に残されてからも、しばらくの間アニタは立ち尽くしていた。  トスイはもう帰ってこないのだろうか。いや、荷物はある。夜中まで出かける用事があるといっていたから、きっとそれが終わったらこの部屋に帰ってくるだろう。帰ってくるのは……嫌だ。帰ってきて欲しくない。顔を見たくない。嫌だ。嫌だ。嫌だ。 「……ぅ、うゔ、ゔー……!」  瞬間、こみ上げてくる嗚咽を必死に抑える。嫌だ。こんなところで泣きたくないのに。嫌だ。もう嫌だ。全部が嫌だ。もう頑張れない。 「……っ、かえり、たい……帰り、たいよ……父さん、母さん、……みんな……会いたい……!」  未来に、自分が元いた時代に帰りたい。どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。  訳の分からないうちに過去に飛ばされて、誘拐されて、殺されかけて、今度は王都を目指すことになって、でもそれで帰れる保証はない。  もしこれが夢ならいい加減醒めてほしい。もう充分苦しんだだろう。まだ駄目なのか。死ぬまで終わらないのか。 「……死ぬまで……」  死ぬまで終わらない。なら、死ねば終わる? 死ねば目が覚めて、何もかも元通りなのか。もしかして、未来へ帰ることができるのか?  ちょうど部屋にあるただ1つの窓が目に入る。まるで光に集まる蛾のように、アニタはふらふらとそれに近づいた。  窓を開けた途端、ぶわりと風が勢いよく吹き込んでくる。下に視線を落とすと、黒々とした地面が目に入った。宿の手前にある茂みは少し距離があるところに植えられている。つまりこの窓の真下は固い地面が剥き出しになっているということだ。高さも十分過ぎるほどあるし、落ちれば絶対にただでは済まないだろう。  しばらく地面をじっと見る。どれくらいそうしていたのかは分からない。  その後はズルズルと、気が抜けたように床に座り込んだ。窓枠に置かれたままの両手は、痛いくらいにそれを強く握っていた。 「……死ねないよ。そんなこと、できない」  死ぬのは怖い。死にたくなんかない。たとえ死ぬのが未来に帰る方法だとしても、きっと別の方法を探すだろう。アニタはそういう人間だった。  大体、何のためにトスイにあんなハッタリをかましてまで生き残ったと思っているのだ。 「…………」  トスイがさっき言ったことは、全部その通りだった。  正直野宿なんて絶対に嫌だったし、早くお風呂に入って身体を清めたかった。だからトスイが大金を出したあの時は驚いたし気になったけれど、止めなかった。この部屋に泊まれなくなるのが嫌だったから。  だけど、この部屋に来てからつい不安になった。あの大金が盗んだりしたものだったらどうしよう。もしそうなら、知らなかったとはいえ自分も共犯になるのではないか。そう考えると後ろめたくて仕方なくなった。彼の言う通り自分は薄っぺらい偽善者だった。  今のアニタは全部が中途半端だ。王都行きを取り付けた時も、あの時は上手くやったと確かに思っていたのだ。だが実際蓋を開けてみると、あの男におんぶに抱っこの状態だ。旅の用意も馬も宿も金も、すべてトスイに頼りきっている。  ただ、それをちっとも悪いことと思っていない自分もいることをアニタは自覚していた。自分はあの男に勘違いで誘拐されて果ては殺されかけた被害者だ。その自分が加害者である彼に施しを受けるのは当然のことなのだと主張する自分がいる。  でもきっと、それでは駄目なのだ。まずは自分で立たなければ。他人に頼るのはその後だ。 「……絶対に、無事に帰ってやるんだから」  袖で強めに涙を拭う。少し湿ったその瞳には、大きな決意が宿っていた。
/31ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加