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第八話
火事。火事なんてもの生まれてこのかた一度も経験したことがなかった。なんなら誘拐されたことも、殺されかけたことも、ぼったくりの宿に泊まったことも、ホームシックのあまり死にたくなったことも、今まで1度も経験したことがなかった。
過去に来てからというもの、どうしてこう毎回毎回、命の危機に自分は瀕しているのか。それはアニタが1番知りたいことだ。
とにかく何とか逃げなければ。ついさっき必ず生きて未来に帰ると決めたばかりだ。こんなすぐに諦めるわけにはいかなかった。
(……えーと、えーと、お城の火災訓練の時どうしろって言われたっけ)
必死に城の新人向け火災訓練のことを思い出す。今年の春に習ったばかりだから、記憶はまだ新しいはずだ。落ち着け、落ち着け。
確か、まずは口と鼻を布で押さえるように習った。ポケットのハンカチを取り出し、顔半分を覆うように頭の後ろできつく縛る。
「トスイさん! 口と鼻を布か何かで押さえてください!」
「…………」
「トスイさん! 聞いてますかトスイさん!」
「…………」
「……トスイさん?」
先程からトスイの様子がおかしい。何度呼びかけても返事をしないし、肩を揺さぶっても反応もしない。微かに言葉を呟きながら、食い入るように扉の方を見つめたまま動かなくなってしまった。
あんなに憎らしくて飄々とした笑みを浮かべていた男が。まるでアニタのことなど見えていない様子で、人形のように突っ立っている。
「トスイさん! どうしたんですかトスイさん!」
「……と……さん……あ、さん……」
「貴方このままじゃ死にますよ!」
「……とう、……か……」
「最低男! 変態男! 嫌味男! ヘラヘラ男! 顔だけ男! 変態男!」
「……さん……ごめ……」
駄目だ。これだけアニタが罵っても此方をちらりとも見ない。完全にヤバい感じのスイッチが入っている。こんな生きるか死ぬかの極限状態で、よく分からないトラウマを発動するんじゃない。
とりあえずトスイは後回しにして、先に状況を確認した方が良いだろう。火はもうすぐそばまで来ているのだろうか。アニタは急いで扉へと向かう。
「──熱っ!」
廊下に充満した熱気が容赦なくアニタの肌を刺した。煙が入ってはいけないからとまだ少ししか開けていないのに。
しかも最悪なことに、階段がある方面から火が上がって来ている。この部屋から階段までは距離があるため、まだ火はここまで来てはいない。だが、階段を使って下へ逃げるのは絶望的だ。
「グッ、ゴホッ! ゴホッ!」
いけない。少し煙を吸ってしまった。激しく咳き込んだついでに慌てて扉を閉める。その扉を背に、アニタは呆然と立ち尽くしていた。
……どうしよう。どうしよう。どうしよう。階段からは逃げられない。お城の火災訓練では階段から逃げられない場合どうするか教わらなかったか。そんなものは教わっていない。だって、あれは訓練だったから。こんな切羽詰まった状況のことなんて、事細かに教えてくれなかった。
階段が無理なら窓から逃げるか。いや、それも無理だ。さっき自分で確かめただろう。あの高さから飛び降りたら死ぬ。絶対に死ぬ。窓から外に叫べば助けは来るだろうか。でもどうやって3階に? 空でも飛べない限り無理だ。
焦りと不安に駆られて、何か案を考えてはそれを否定する問答をアニタは心の中で繰り返してしまっていた。落ち着かなければと思うのに、そう思えば思うほど焦りが湧いてくる。
「……大丈夫、大丈夫よ私。きっと何とかなる」
「……お……すぐ、逝……」
「もう! トスイさん! 貴方、ロープか何か持ってないんですか! トスイさん!」
「……ご、めん……ごめ……」
「誰に謝ってるんですか! 正気に戻ってください!」
本当にどうしてしまったんだ。いつもの彼とはまるで別人だ。ついさっきまで爛々としていたはずの紫色の瞳は濁って、焦点がまるで定まっていない。
いったい彼に何が起こっているのか。アニタには分からない。分かるのは、焦げた臭いがして宿が火事になった途端におかしくなったことだけだ。
とにかくこのままでは埒があかない。何とかしてトスイを正気に戻せないだろうか。
そう考えたアニタは視線を部屋に滑らせた。そして、とあるものが目に留まる。——浴室だ。この部屋自慢の専用風呂へと続く扉だった。
そこへ一目散へ駆けて行き、中に入る。外の喧騒が嘘のように浴室は静まり返っていた。一瞬ここでじっとして居たら助かるのではと錯覚しそうになるが、きっとすぐに焼け落ちてしまうのだろう。
幸か不幸か、風呂は誰も使用していない。なので風呂の用意もそのままだ。浴槽にはすっかり冷めきった湯が満ちている。どうやら部屋に泊まった客がすぐに温まれるようにと用意されていたものらしい。ぼったくるくせに、変なところでサービスが行き届いてる宿だ。これが呼び男や宿の主人が言っていた「極上のおもてなし」というやつだろうか。
いや、今それはどうでもいい。アニタは側にあった水桶を引っ掴み、もはやただの水と化した湯をざばりと掬った。そのまま浴室を出て、一直線にトスイの元へと向かう。
そして彼に向かって、思いっきり水をぶっ掛けた。
「しっかりしなさい! この馬鹿!」
バシャリと弾けた盛大な水飛沫とともに、アニタの叱咤が部屋に響く。水をぶっ掛けたついでに、どさくさに紛れて肩にグーパンも1発お見舞いしておいた。これは昨日折られた可哀想な箒の分だ。
頭に大量の水、肩にグーパンをくらったのだ。これは流石に目を醒ますだろう。そう思ったのに、トスイの目はまだ虚ろなままだった。ずぶ濡れになった彼の銀髪から、ぽたぽたと滴が落ちていく。それを微塵も気にする様子もないのが、今の彼の無機質さを一層引き立たせていて怖かった。
その恐怖を振り払うように、微動だにしない男をアニタは睨みつけた。
「いいですよ。そっちがその気なら、私にだって考えがある。私はこんなところで焼け死ぬ気なんて微塵もない」
「…………」
「貴方のことも、何が何でも助けてやりますから!」
半ば自分を鼓舞するように啖呵を切る。無事に未来へ帰ると決めたのだ。こんなところで死んでたまるか。そのためにはどうすればいいか。アニタは必死に頭を巡らせて脱出方法を考えた。
今1番必要なのは窓から降りるためのロープだ。だがロープはない。ベッドシーツをその代わりにしようにも短すぎる。短いなら継ぎ足せばいい。幸いここは宿屋で、ベッドの数は多い。まだ火の手が回っていない部屋へ行ってシーツをかき集めれば長さは足りるだろうか。そのためには廊下を通らなければならない。あの熱くて熱くて堪らない廊下を。
「……ちくしょう……」
アニタは歯を食いしばり、再び浴室に戻る。それから浴槽の湯を先程のように掬って、今度は己がそれを頭から被った。気休めにしかならないだろうが、火の手が回っている廊下に出るならやらないよりマシだ。
ずぶ濡れの体で出口に向かい、扉の前でこの3階の造りを思い出す。火が上ってきている階段とは逆側、この部屋の右側にはまだ3部屋あったはずだ。火が回るのが遅ければ、左側の部屋にも行けるかもしれない。何とかそれで長さが足りるといいが。
そう勇んで扉を開けたのに。アニタを襲ったのは思いがけないものだった。
「ゲホッ! ゴホッゴホッ!」
扉を開けた途端に大量に迫ってきた煙がアニタの肺を侵す。いけない。炎や熱さに気を取られて煙のことを失念していた。
(っ、まずい、トスイさん、まだ口と鼻を晒したままだ!)
布越しのアニタでもキツいのに、それをしていない彼はもっと辛いはずだ。早く覆ってやらなければ肺が焼けてしまう。
慌てて振り返ると、そこにトスイはいなかった。
「えっ?」
予想外の光景にアニタは目を丸くする。そして次の瞬間には、その身体を何者かに横から掻っ攫うようにして抱き上げられた。
「ぎゃあ! 何⁉︎」
誰の仕業かなんて決まっている。この場にそんなことが出来る人物は1人しかいない。
驚いて見上げた先、紫の瞳と目が合う。その目はしっかりとアニタのことを写していた。
「トスイさん⁉︎ 何してるんですか⁉︎」
「俺に考えがある」
そう言った声にはきちんと芯が通っていて、アニタはまた驚かされる。どういうことだ。さっきまでこの男は廃人のようになっていた筈なのに。
混乱するアニタを軽々と抱き上げたまま、トスイはくるりと方向転換する。そのまま出口とは逆の、この部屋唯一の窓へと向かっていく。どうして扉ではなく窓へ向かっているのか。アニタはその答えを何となく察してしまって、血の気が引いた。
「……トスイさん? あの、まさか窓から、なんてつもりじゃないですよね?」
「もう君あんま喋んないで」
「ロープは? やっぱりロープ持ってるんですよね?」
「持ってない」
「ここ3階ですよ! 3階!」
「知ってる」
「死にますって!」
「だから喋んないで。煙吸うから」
黙りたいのはやまやまなのだが、大人しく身を任せるには不安要素が多すぎる。この状況でこんなに落ち着き払って淡々としているのも逆に怖い。いつもの腑抜けた話し方はどうした。まさかまだ正気に戻ったわけではないのか? そうだったらまずい。
とうとう窓枠に足をかけたトスイを見て、アニタは声を張り上げた。
「あなた本当に正気⁉︎ 正気なんでしょうね⁉︎」
こちとら気が狂った男と心中決め込むつもりはつもりはさらさら無い。全身火傷だらけになろうと生き残ってやるつもりなのだ。
そんなアニタの気持ちが伝わったのか、はたまた単に分かりやすく顔に出ていただけなのか。ようやく此方を見たトスイは、にやりと悪戯っぽく笑った。
「正気だよ。誰かさんが思いっきり水ぶっかけて殴ってくれたおかげでさァ!」
「ちょ、なんで後ろ向きっ、ぎゃあああああああ!」
アニタの渾身の叫びとともに、2人は窓から後ろ向きに落ちる。そのままトスイは空中で腰の剣を抜いたかと思うと、豪快にそれを壁に突き立てた。
ごうごうと勢いよく風が通り過ぎていく音と、雷鳴のように激しく壁が削れていく音がアニタの耳を襲う。
このまま剣で落ちる勢いを殺して下に降りるのか。アニタがそう思ったのも束の間。トスイは彼女を抱く腕に力を込めたかと思うと、突如として剣から手を離した。見ると、真下の壁から炎が上がっている。
「——もっと掴まれ!!!!」
トスイが怒鳴り声を飛ばす。その刺すような鋭い声に、アニタは反射的に目の前の身体に力一杯しがみついた。
同時にトスイは思い切り壁を蹴る。一瞬だけ重力に逆らうようにふわりと浮いた2人の身体は、燃える宿から離れた茂みに落ちた。
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