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大学の屋内プール 。
照明の光が真新しい50mプールを明るく照らす。
午後7時を回ったプール施設には白砂 千秋と早瀬 真由以外に人影はない。
デニムにブラウンの長袖ニットを着た千秋は
ストップウォッチ片手にプールのスタート台の上で胡座をかき、仕切りにセミロングの髪を手櫛で首にかけていた。
千秋の視線の先には、泳ぐ真由がターンを終えて帰ってくる。
「遅いっつーの」
呟く千秋は泳ぐ真由に冷ややかな視線を送る。
ゴールする真由は千秋を見上げた。
「どう」
千秋は優しく答える。
「うーんさっきよりちょっと遅いかな」
真由はプールから上がり肩で息をする。
「そろそろ行こう」
「もう少し泳ぐ」
千秋は呆れ顔で息をはいた。
「昔から何でもやり過ぎて失敗してたでしょ、オーバーワークよ」
真由がプールを上がって息を整えるのをじっと見つめる千秋。
「兎に角、合コン遅れるから、メイクする時間なくなるよ」
「行かない」
「休みも必要、気分転換も必要だって、自分から合コン行くって言ったんでしょ」
「気が変わった、選考会までに、もうちょっと仕上げときたい」
千秋は真由を睨みつけた。
「あんた、最初っから行く気無かったでしょ」
「……そうでも言わないと、千秋はこんな所来なかったでしょ。幹事だし、人数揃えたいもんね」
千秋はストップウォッチを真由に放り投げて立ち上がった。
「バイバイ」
立ち去ろうとする千秋。
「千秋も泳いだら」
「は?」
「泳げるでしょ」
「何歳の時の話よ、私遅れるから行くね」
出口へと向かう千秋に、真由が声をかけた。
「教えて上げようか?」
千秋は一瞬立ち止まるが、真由の言葉を無視してプールを出て行った。
プールと更衣室を繋ぐ通路をスマホをかけながら足早に歩く千秋。
「ごめん、今日行けそうにない、本当にごめん、うん、埋め合わせはするから」
千秋はスマホを鞄にしまい、乱暴に更衣室のドアを開け、中に入った。
「教えて上げる?」
そう呟くと、千秋は傍にあったプラスチック製のゴミ箱を思いっきり蹴り飛ばした。
肩にタオルをかけ水着姿で屋内プールに戻って来た千秋は、プールを照らす照明の明かりを半分落とした。
スタート台の上の真由は驚き照明を見上げたが直ぐ千秋に気づく。
薄暗くなったプールサイドを歩く千秋は肩にかけたタオルを取り払った。
千秋の体の、右側首筋から首周り、右腕の手首辺り迄の火傷痕があらわになる。
「真由、勝負しようか」
千秋は体を解し、一旦、足からプールに浸かってからスタート台に上った。
千秋は黙って隣のスタート台にたたずむ真由に不適に笑って見せた。
「何、素人が怖い?ハンデいる?」
真由はプールに向かって構える。
「冗談」
「じゃあ、真由が合図しなよ」
真由の合図で飛び込む千秋、真由。
千秋がぐんぐん真由を突き放し、30m付近で、すでに体2つ分の差がついた。
50mをターンする。
後を追う真由。
徐々に千秋を追い詰めていく真由。
残り10mで真由が千秋に並びかけるが、僅かに千秋が先にゴールする。
肩で息をしながら真由は強張った表情で千秋を見ている。
「素人に負けてたら世話ないよ、まあ頑張ってるとは思うけどね」
言い捨てて千秋はプールサイドに上がった。
「泳げばいいのに」
「興味ない」
千秋はタオルを拾い上げ体を拭きながら答えた。
「じゃあ、指くわえて見てる?」
千秋の体が硬直する。
「私が世界の舞台で、歓声を浴びるのを指くわえて見れてれば」
千秋はタオルを投げ捨て、弾かれた様にプールに飛び込み真由に飛び掛かった。
真由を何度も沈めようとする千秋。
「昔からいつも、いつも!うざいんだよ!あんた程度が立てる舞台じゃない!」
真由が千秋の足を取り沈め返す。
「隠れて泳ぎ続けたの知らないと思った!素人が水着持ち歩くもんか!」
何度も真由に沈められる千秋。
千秋は何とか真由を蹴り飛ばし距離を取るとプールサイドに這い上がった。
千秋は激しく咳き込む。
「覚えてるでしょ、子供の頃見に行った、世界水泳、決勝」
「覚えてない!」
叫ぶ千秋はよろよろと立ち上がると、逃げる様に出口へと歩き出す。
「あの時の歓声だよ千秋」
「知らない!もうやめて……」
千秋は消え入りそうな言葉を残してプールを後にした。
ヒールをならしながら繁華街を苛立つ様に足早で歩く千秋は何度も涙をこらえていた。
スポーツバーの前まで来た所で、千秋は突然の大歓声に体をすくませ立ち止まる。
カラス張りの壁の向こう、スポーツバーの店内では、大きなスクリーンの前に群がる人々が歓声を上げ騒いでいた。
スクリーンの中の選手が喜びを爆発させている。
店外まで響く大歓声に他の通行人達が一瞬立ち止まっては、再び歩き出す中、千秋だけは何かに憑かれた様に立ち尽くしていた。
千秋の中で歓声が響きわたり続ける。
世界の舞台、観客席で歓声に飲み込まれたあの時の感覚が甦り千秋を捉えて離さない。
千秋は胸の火傷の辺りを強く握り締めた。
固く目をつぶり、苦しそうにに前屈みになった千秋は泣き続けた。
「ふざけんな……」
大学の屋内プール。
水着に着替えた千秋が、屋内プールの照明を全開に点灯させる。
突然、明るく照らし出された屋内プールに、スタート台の上で休憩していた真由は一瞬驚いたが、千秋を見つけると、立ち上がり千秋を待った。
千秋は髪をキャップに押し込みながら、真由のとなりのスタート台に上る。
「あんた程度が、世界の舞台とか軽く言わない方がいいよ、恥ずかしいから」
「私は必ずいくから」
千秋と真由は構える。
2人は合図もなく同時に飛び込んでいく。
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