華宵の宴

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 少年は、今日という日を大層首を長くして待っていた。  双子月がどちらも満ちる今宵は、年に一度の「佳宵の夜会」が催される。普段は決して交わることのない「彼方の住人」たちが、彼らの世界の扉を開いて彼方へと招き、盛大な宴を催すのだ。  少年の手には一通の招待状。赤い封蝋で閉じられていたその封筒を手にしたときは胸が踊った。封蝋は彼方の使者を表す複雑な文様であったが、かねてから憧れ続けていた場所へのチケットだということは誰に言われるでもなく理解した。  双子月が満天の星空にちょうど重なる時刻、少年は招待状を手に自室の天窓を開いた。吹き込む風が彼の髪をふわりとなびかせる。その冷たさに少し少年は身震いした。  迎えはきっともうすぐだと、少年は薄手のケープを引っ張り出す。もたもたとした手付きでまとうそれは彼の身の丈には少し大きく、半ば着られているような状態になってしまう。けれど少年はこれを手放さなかった。この夜会に向かうには、この外套でないといけなかった。  カランガランと小さな鐘の音が響く。見上げれば天窓に座る人影があった。手元には今鳴らしたであろう小さな鐘。顔の半分ほどまで覆うフードによってその顔は見えないが、つややかな口元は三日月のように弧を描いていた。 「招待状はお持ちかい?」  月明かりに響くアルトの声に、少年は手にしていた招待状を勢いよく掲げた。  天窓に座る「使者」はすっと手を差し出した。そのままくるりとひとつ手を翻せば、少年の持つ招待状がふわりとひとりでに浮かび上がる。きらめきを帯びて浮かんだ招待状は使者の手に収まり、使者はそれを開いて眼前に浮かべる。ぱちんとひとつ指を弾けば、招待状から花火が舞った。 「よしよし、たしかに本物だ。それじゃあ行くかな。準備はいいかい?」  少年は首を縦に幾度も振った。準備など招待状をもらったその時から万全だった。  よろしい、と使者は天窓に腰掛けたまま、また右手を翻す。少年の身体が光を帯びたかと思えば、ふわりと身体が浮かぶ。そのままついっと持ち上げられ、瞬く前に天窓から少年の身体は空へと放り出されていた。  勢いよく放られた身体は一瞬の静止のもと、緩やかにだが加速度的に落下を始める。このままでは屋根へ落ちることなどすぐのこと。この身体で落ちればどうなるかなど知れたこと。恐ろしさに少年は両の目を固く閉じた。  けれど、予想された衝撃はなんのこともなく覆される。がしっと首後ろを掴まれてぐるりと回され、降ろされたのはなにか細い棒の上。またがるように座った少年へ、カラカラと使者は笑う。 「いやはや随分軽いねぇ。力加減を間違った」  恐る恐る目を開いた少年の前には使者の背中。宙に浮かぶ箒の上で、掴まっておいで、と使者はいうので、その身体へ腕を回した。  それでは晴れて出発だ、と使者は宙を蹴り空へと身を翻す。ぐっと重力がかかるのも最初だけ。なめらかに進む箒は徐々に速度を上げ、向かう先は満ちる双子月。家の天窓ではわからなかった星々が流れるさまを、少年はしっかりと目に焼き付ける。  随分大きな月の下で、空中に指を這わせ使者はゆっくりと光の陣を描く。 「さぁ、しっかりとイメージしろよ。招待状は私たちを呼ぶだけだ。ここから先の縁えにしは少年、キミのイメージで出来上がる」  行きたい場所も、見たい世界も、そして会いたい人も、全ては少年にかかっている。  少年は目を閉じた。片時も忘れなかったその人を思い出すことは容易い。その手のぬくもりも、柔らかな声も、麗しい顔も、思いはいくらあっても語り尽くせぬほど。  そうして、少年の世界はしばしのあいだ裏返る。  すなわち、生者の住む此方と、死者の住む彼方とを。  夜風が少年の頬を撫でる。再び目を開いたその世界は、片満月の静かな夜。  息を呑んだ。  この空気を知っていた。少年は下を見る。町並みは自分の住んでいたそれと相違ない。細く入り組んだ路地が縦横無尽に走り回る、ごみごみとした田舎町。ぐっと使者のローブを引く。なんだい、と振り返る使者へ、まっすぐ一軒の家を指差した。はいはい、と後ろ手にくしゃくしゃと少年の頭を撫でると、使者はまっすぐにそちらへ飛んだ。  開いた天窓から飛び込んだ部屋に、その人はいた。  長い髪を結うこともなくそのままに、ゆったりと椅子に腰掛ける様は記憶と寸分も違わない。  少年はそのまま椅子に腰掛ける女性の元へ駆け寄った。彼女の肩からは、少年が身に着けているケープと同じものがかかっている。  人の二つの足はなんと不自由で遅いことだろう。ここまで来られたならばその姿を偽る必要もない。少年の姿はみるみるうちに縮んでケープに埋もれていく。もぞもぞと這い出して女性へ飛びついたのは一匹の黒猫だった。  女性の膝の上に飛び乗った黒猫は一声甘えるようににゃあと鳴いた。突然のことで驚きこそしたが、女性は優しい手付きで黒猫を撫でる。  彼女と出会ったのは、片満月の夜だった。  寒さとひもじさで意識もおぼろに霞む中、転がり落ちるようにこの家に迷い込んだ。彼女ははじめひどく驚いたようだった。けれどそれはこちらも同じで、また蹴られたり殴られたり投げられたりするのかと、部屋の隅まで行って震えていた。威嚇するだけの力も残っていなかった。  そんな小さな黒猫の前に差し出されたのは、白いミルクの入った小さな皿。甘やかな香りが黒猫の鼻腔をくすぐったが、顔を上げるのは恐ろしくて、そのままうずくまっていた。香りだけでもどこか気持ちは落ち着いて、ゆるゆると睡魔が遅い来る。こんな得体のしれない生き物の前で眠るのは危ないとは思っていたけれど、それも睡魔には抗えなかった。黒猫はそのまま緩やかに眠りに落ちた。  翌朝。黒猫が目を覚ませば、眼前にはミルクを入れた皿が変わらず置かれていた。恐る恐る匂いを嗅ぐ。妙な匂いはしなかった。少し温めてあるそのミルクを少し舐めれば、もう止められるものでもない。脳髄がしびれるほどに美味しかった。黒猫は一心不乱にミルクを飲んだ。  そうして皿がきれいにカラになる頃には、眼前に一人の女性がしゃがんでいた。驚いたように飛び退って小さな牙を向く。この女性が自分に糧を与えてくれたとわかっていても、素直に従う気にはなれなかった。人間はだれもかれも恐ろしい生き物だったから。  飛び退った黒猫を意に介すこともなく、女性は小皿を片付けた。それからしばらく、こちらが部屋の隅で小さくなっていることに触れる素振りもなく、穏やかに時間が過ぎていった。そしてふとした時間に再び、ミルクの入った小皿が置かれた。そんな生活が幾日も続いた。  女性はひどく優しい人だった。こちらが人間にいい思いを抱いていないのを正しく理解していた。  女性は過度に黒猫を構うことはしなかった。黒猫の体の傷が癒え、家から抜け出したとしても追いかけてくるようなことはなかった。  けれど、外へ出ても黒猫に厳しい世界は変わらない。ふとしたときに、あの家へ戻ろうと思った。ただただ黒猫としては、あの家は居心地が良かった。  黒猫と女性の距離は少しずつ縮まった。食事を取る時間が同じになり、憩う場所が近くなり、それはじきに彼女の膝の上になった。彼女は驚くこともなく膝の上の黒猫を優しく撫でた。  そんな彼女が、赤く粘ついたものを吐き出したのは程なくしてだった。それが、人間にとって命の終わりを意味するものだと黒猫は理解していた。  そして、そう。彼女の魂を連れゆく「使者」が、黒猫の前に姿を現したのだ。  どうか連れて行かないでと、あの日黒猫は訴えた。星の降る月のない夜のことだ。  はじめは、単なる恩だけだった。けれどそれが愛に変わるのに、時間も種族も関係なかった。  彼が生涯愛した人だった。彼女が自分に目をかけてくれるのが、誰かの代わりだということは分かっていた。それでもよかった。彼女の隣にいられるならば。  フードで目元の見えない使者は、つややかな口元を三日月に歪めた。 「いい子にしておいで。「佳宵の夜会」まで。それまで覚えていられるなら、招待状が届くだろうさ」 ***** 「お前も変わったヤツだなぁ」  「彼」を迎えに来たときと同じく、天窓に座って始終を観察していた使者の隣へ、同じローブを着た同僚が立っていた。使者は同僚へ「なんのことやら」と肩をすくめた。 「人じゃなきゃダメだなんて、一言も「規約」に書いちゃいないだろ?」 「そりゃあそうだけど。食いでがなさそうじゃん」  あんなちっぽけな生き物じゃ、と同僚は少し呆れ気味に言う。  年に一度の祭りの日。今日という日に食いっぱぐれれば、またあと一年ひもじい思いをするのはよくよくわかっているはずだと、同僚は続ける。  家の外からは賑やかな笑い声や音楽が聞こえてくる。かの黒猫の夢から抜け出せば、外は夜会の真っ最中。浮かれた同僚が今宵一晩の成果に沸いている。キラキラとした色とりどりの「ごちそう」に舌鼓を打ちながら、まだまだ夜会は続いていく。  双子月がともに満ちる年に一度の今宵は、彼方と此方の繋がる日。  彼方とは死者の国、此方とは生者の国。  常日頃は死した魂を此方から彼方へ運ぶだけの使者が、唯一自分の糧とするためだけに門を開き、生者の魂を持ち帰る。そうして一晩宴に興じるのだった。 「まだまだ夜は長いんだ。他に招待状は配らなかったのか?」 「今年はアレくらいだったなぁ。美味そうなのは」 「ほんとに、変なやつだなぁ」 「グルメって言っておくれ」  重なり合うふたつの魂を見ながら、使者はくすくすと笑うのだった。
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