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「もう……止めたら?」
檻の向こうから、女の呆れた声が聞こえた。振り返ると、薄闇の中、物憂げにビスケットを囓りながら、ボニーが走り疲れて座り込む俺を眺めている。
「男のロマンなんて、バカみたい」
「お前には、分かんねぇよ」
この女は、いつもそうだ。自分でヤリもしないクセに、口ばっかり達者で。
「ええ、分からなくて結構」
彼女は冷めた目で俺を一瞥したのち、フイとそっぽを向いた。ツンと澄ました横顔は睫毛が長く、エキゾチックな美しさが際立つ。
「俺はなぁ……信じてるんだよ」
俺はゆっくり立ち上がると、ふらつく足取りで数歩進み、鈍く光る柵にもたれた。ヒンヤリと硬い金属の感触が、熱くなった身体に心地いい。改めて眺めるボニーの姿態に目を奪われる。初めて会った頃は、痩せてガリガリの小娘だったが、ここに来てから程よく脂肪が付いて、すっかりセクシーになった。あの漆黒に潤んだ瞳を見詰めながら、桜色の小さな手を取り、艶かな栗毛を撫でて、柔らかな腰を抱き、俺のものにしたい。日毎、そんな想いが昂ぶって、胸を切なく焦がす。そう……俺は、彼女に惚れているんだ。
「このそびえ立つ壁を駆け上ったら……きっと、新しい世界が開けるに違いねぇ。俺は、そこにたどり着きたい。いや、たどり着いてやる」
そうだ。そこにたどり着いたら、俺は一人前の男になれる気がする。
「バカね。所詮、ゴールなんてないのよ、クライド?」
そしたら、この小生意気でお高くとまった……甘い香りを振りまく最高のイイ女に、とびきりのプロポーズをしてやる。きっと、彼女も心の奥で待っている筈なんだ。
「それでも、男にはやらなきゃなんねぇ時があるんだよ」
柵の隙間から熱い眼差しを送る。どうだ、決まっただろっ!
「……バッカじゃないの」
彼女は気のない素振りで欠伸をすると、ゴソゴソと寝床に潜り込んでしまった。
チッ。つれねぇなあ。だけど、そんなところにもゾクゾクしちまうんだ。
俺は側の蛇口から、ガブガブと喉を濡らして水を飲むと、腰を上げる。再び、運命の輪の中に足を踏み入れ――。
ガガガ……ガガガガ……ガガガガ……!
孤独な戦いを再開する。
ガガガ……ガガガガ……ガガガガ……!
この先に、きっと……きっと、新しい世界がっ……!
ガガガ……ガガガガ……ガガガガ……!
そして、男に……俺は、男になるんだぁっ!!
『うるさい、クラ吉っ!』
パッと辺りが明るくなると、微かな震動と共に巨大な影が近づいてきた。
『なぁんだって真夜中に、回し車を頑張っちゃうかなぁ』
『お姉ちゃん、ハムスターって夜行性なんだよ』
あとからやって来た、もう一つの影が俺の上に落ち、思わずビクリと足を止める。
『そーだけど、隣のボーちゃんは、ちゃんと寝てるのにねぇ……』
『もしかして、クラ吉、そろそろ発情期なんじゃないの?』
『あー、ダメダメ。うちは2匹で手一杯だもん。当分、繁殖はナシだね』
『そっかー。じゃあ、走るしかないかぁ』
2つの影が去り、唐突に明かりが消えた。室内に静寂が戻る。
ガガガ……ガガガガ……ガガガガ……!
「うおおお!! ボニー、愛してるぜえぇっ! 待ってろよおぉ……っ!!」
俺は、一心不乱に走り出した。
【了】
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