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迷宮
産婦人科の待合室は空いているのだと勝手に思っていた。少子化とやらはどこいったと思えるほどに盛況だ。
「問診票、まだ書けませんか?」
頭上から降ってきた冷たい問い掛け。時間を無駄に費やしていたことに気づいた。ボールペンをぎゅっと握りしめていたらしい。右手がいやに痛い。
「あの……今日は……その、ご相談だけ……」
すると、受付のおばさんは少し困ったような顔をした。
「そうねえ、望まない妊娠で誰かに相談したいっていう気持ちはわかるけど、ここで相談って言われても基本診察しかできないからね。産むか産まないかは相手の方やご家族とよく相談してから受診してくれる?」
わわわ。皆んなの前で堂々そんなこと言っちゃうんだ。待合室の空気が一気に冷えた気がした。
妊娠を喜ぶ女性、出産を間近に控える女性、不妊治療に通う女性、望まない妊娠をしてしまった女性、もともと妊娠を望まない女性、婦人科系の病気の女性。
すべての女性がここに存在するというのに、この待合室には思いやりの欠片もない。これだけカオスで複雑なひと部屋は、他には思いつかないくらいだ。
その場にいた女性のメンタルをすべからく傷つける受付のおばさんの言い方に、少し腹が立った。
だから私は診察だけして帰った。
診断書を見せると、浮気性のクズな彼氏はこう、のたもうた。
「本当に俺の子か?」
バーカバーカバーカ。あんたは何人もの女を相手にしてるけど、私は違うっつーの。それに私たち、もう十分結婚できる歳なんだよ。赤ちゃんができたって、困る歳じゃないじゃない。
「別にDNA鑑定とかしてもらって構わないよ。絶対にあんたの子で間違いないから。で? どうするの?」
彼の顔色が変わった。いつもは乱暴で上から目線な男が、途端におどおどし始める。
「……け、結婚かあ。なんかまだいまいちピンとこねえなあ。実感が湧かないっていうか……」
「わかった。じゃああんたはまだ遊び足りないってことなんだね?」
「そうじゃねえって。ただ、まだ結婚とかは早いって。俺の仕事も安定してねえし」
出た。結婚をほのめかすと直ぐに、不安定な仕事だからという理由を持ち出すパターン。
「歳的には全然早くないと思うし、私も出産のギリ前まで働けばなんとかなると思うけど?」
「……いやあ、俺の同期で結婚してるやつっていねえんだよ」
「いるじゃん。早川くん」
「あいつはできちゃった婚だから、」
「私たちだってそうじゃん!」
「あのな。結婚ってのはなあ。結婚するぞ! って決意してからするもんだろ? 俺はイヤだね、できちゃったからって結婚するなんてのは。まずはプロポーズが先だろ? それすっ飛ばして結婚だなんて、男のすることじゃねえ」
「どの口が言ってんの?」
呆れてしまう。なにを言ってものらりくらりとかわされる。こいつに『責任』という二文字とその重みを理解してもらうためにはどう言やあいいんだ?
私には親や兄弟がいないし、仲の良い友達もいない。口の軽いお局さんと不倫してる職場の上司に相談なんてもってのほかで、誰かにアドバイスをもらうこともできやしない。こうなったら公的な相談窓口に電話するしかないと思い、産婦人科で貰った市役所発行のパンフレットをカバンから取り出す。
『お困りごとをご相談ください』
彼氏のアパートからムカつきながらも家へと帰る帰り道。夕陽のオレンジな陽の光に包まれながら、私はスマホをタップした。
「それがまだ迷ってるんです。未婚で子どもを育てるって大変ですよね。わかってるんです。けど、どうしたらいいかって悩んでて。自分がどうしたいのかも分かんなくて」
幸いにも貯金はあった。亡くなった父母が遺してくれたものも少しはある。高卒で就職し、働き出してから始めた積み立て貯金は、欠かしたことがない。元彼に搾取されたこともあったが、まだかなりの金額は手元にある。
親にも頼れない。クズな男にも頼れない。もし産むと決めたなら、自分一人でなんとか育てなければいけない。
世間にはシングルの先輩方はごまんといて、もちろんそれぞれ心血を注ぎながらだろうけど、子どもとの生活を成り立たせている。だから自分にもできるかも。もともとガッツも根性もあるし、今までも独りでなんとかしてきたという裏打ちされた自信もあった。
けれど、私はこの期に及んで、まだ迷ってしまっている。人生は決断の連続だって耳にしたことがある。親しい人や愛しい人の助言もアドバイスもなしに、どうやって人は物事を決めるんだろうか? どうやって人はこの道を行くべきと選択するのだろうか?
私は自分の家に帰るとすぐに診断書を小さく千切って破り捨てた。お腹をそっと触ってみる。お昼に食べた唐揚げ弁当でふっくらしているのか、それとも。
これから自分がどうすべきかを探すため、スマホを取り出し、充電器に繋げた。スマホの画面には、先日ダウンロードしたばかりの『W』のアプリが浮かんで見えた。
『お話ししませんか』の文字が、優しく優しく、囁いてくるように思えた。
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