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燦然
夜、季節は春だというのに山はこれほどに冷えるのか。
Aさんが寝袋を買っておいてくれて良かったと心底思う。車のエンジンを掛けっぱなしにして、暖房をつけていてもいいけれど、ガソリンが無くなってしまって動けなくなってもいけない。この山の頂上を越えて下っていったところに、寂れたキャンプ場の跡地があるらしい。そこに辿り着かねば、何も始まらないし終わりもしない。
助手席運転席ともにリクライニングし、寝袋にすっぽりと包まれて眠りにつく。すうすうと漏らしたAさんの息遣いに、今日という日の終わりを感じて、僕は安堵を覚えていた。
目を瞑る。うっかりすると妻との修羅場の場面がまぶたの裏側に蘇ってきてしまう。なんて大それたことをしてしまったのだろうという思い、それこそ黒々としたものに苛まれ、気を抜くとこのまま車を飛び出して走っていって、狂ったように叫びながら山の頂上から飛び降りてしまいそうになるから、気をつけないといけない。いや、それでも良いんだけれど。
目を開ける。フロントガラスに浮かぶ夜空。星は瞬いていて、そして輝き、とても美しい。漆黒は無限に広がっていき、浮かぶ半月が冴える。
考えや思いは色々と巡っていくけれど、それらしき答えも出ていない。そしてこのまま逃げ続けているだけでは決して解決などしない。
(……結局、僕は怖かっただけなのかもな)
この現実。死んだ妻。子を持てない自分自身。
そして地獄か天国へと連れていかれる。いや人を殺しておいて天国なわけがない。地獄だ。僕は地獄に行くしかないとどこかで腹をくくっている。
握っていた手がぴくっと動いて、ふと、眠っていると思っていたAさんが呟いた。
「星、きれーーー」
独り言っぽかったけれど、僕は何となく返事をした。
「うん。綺麗だね」
「こうしてゆっくり夜空を見上げることも、ずっと無かったなあ。デートって言ってももっぱらパチンコ屋とか馬券売り場とかだったから」
「そっか。僕は仕事の帰り道に見上げたりしてたけど……でもこんなにもじっくり夜空眺めたのなんて久し振りだよ」
「もっとこうして星空を見ていたいなあ」
「そうだね……じゃあ今日はこうして星を見ながら過ごして、やるのは明日にしない?」
「うんそうしよ。流れ星、流れないかな」
「願い事するの?」
僕はそっと手を握り直した。Aさんの手は少し冷たかった。
「うん。今度こそ良い男に巡り合えますようにってね」
「あはは。笑っちゃだめだけどなんか笑える」
「うそうそクソな男はもういらん!」
Aさんの声は明るくはつらつとしている。冗談でも言って、死神に自ら近づこうとしている僕を、少しでも和らげ笑わせようとしているんじゃないかと思った。
その心遣いが、胸に沁みた。
Aさんがこちらに顔を向けたような気配がし、僕も顔をそちらへと向ける。月明かりのもと目と目が合って、僕とAさんはお互いに微笑んだ。
「だから、願い事はCさんに譲ってあげる」
「僕?」
「うん」
僕は少し考えた。
「思いついた?」
「うん」
「なに?」
「Aさんの男運をとにかくなんとかしてください」
二人で笑い合い、そして両手を伸ばして寝袋ごと抱き合った。僕の肩口に頭をこてんと倒す。少しして、Aさんが口を開いた。
「ごめんCさん。悪いけどやっぱり願い事、返してもらっても良い?」
「良いよ。はい三百万円」
「大阪のオバチャンか」
くすくすと笑いながら。
「でなんにするの? 願い事」
「ん。考えたんだけどさ……」
喉が小さく鳴った。
「元彼の女運をなんとかしてください、にする」
「え、」
僕は絶句してしまった。裏切られたのはAさんの方なのに。裏切ったのは彼氏の方なのに。僕が不服そうにそう言うのを聞いて、Aさんはまた夜空を見上げた。
「でもね。彼にとって私に出会ったのが不幸の始まりだったんだから。私のせいで誤認逮捕までされちゃったんだから」
「だけど、君はバットで物を壊しただけで……元はと言えば浮気した彼が悪いんじゃない。君はなんにも悪くないと思うけど……」
「でも彼氏が大切にしてたスマホもPS5も4Kテレビも全部ぜーーーんぶ、ぶっ壊しちゃったし」
「え? そうなの?……ってまあやり過ぎ感は否めないけど……」
「部屋から転がり出た彼氏にも襲いかかってったからね。そんなの逆ギレして当然。反撃にあって蹴り飛ばされるの当たり前だよ」
「いやいやいや、だからって階段から落ちるくらい強く蹴らなくても……」
Aさんはその拍子にアパートの外階段を転がり落ちたらしい。怪我がなくて本当に良かった。けれどこんな酷い話があるか?
僕がそう抗議しようとしたその時。
山あいの遠くに、車のエンジン音を聞いた。どうやら車は、この山道を上ってくるらしい。ブロロロロという音が徐々にこちらに近づいてくる。
僕は寝袋から上半身を出し、体を起こして、耳を澄ました。Aさんも同じような姿勢でいる。すると、山間に響くエンジン音はさらによく耳に届いた。
「……Cさん、もうおしまいにしよう」
Aさんが掠れた声で言った。
「……うん」
少しするとヘッドライトの光があちらこちらを照らし始めた。ジャリジャリとタイヤが砂を食む音がして、赤色灯を消した一台のパトカーと黒のセダンが展望台の駐車場へゆっくりとした動きで入ってくる。僕らの車と一定の距離を置いて停まった。
ヘッドライトに照らされる。僕とAさんは、まばゆい光の中にいた。
「Cさんごめんね。私が時間引き延ばしたせいで、買い物した七輪とか全部無駄になっちゃったね」
「そんなことは良いよ。君と過ごせて僕、楽しかったよ」
「私も」
パトカーや黒のセダンから数人の警察官とスーツの男が降りてくる。僕らの乗ったレンタカーを徐々に取り囲んでいく姿が、ルームミラーやサイドミラーに映り込んだ。
僕は心から観念し、意を決した。
「流れ星、最後に流れないかな。まあでも願い事のカードは、やっぱり自分のために使わなきゃ」
「ふふ、でももう良いの。Cさんに会えて良かったって思えたから。元彼にも迷惑かけちゃったなあ。正当防衛で仕方なかったってことは状況証拠で分かるし、隣の人が証言してくれるだろうから、すぐ釈放されると思うけど」
Aさんは呟く。Aさんの温もりはすでに、感じなくなっていた。
「アイツもこんな私みたいな女じゃなく、もっとしっかりした女と出会えますようにって。今なら心から願うことができる」
僕はそれを聞いて、少し嬉しくなった。やはりAさんは善良な人だった。きっと来世には幸せになる。大丈夫。なれるはずだ。
「そっか」
「Cさんのおかげ」
その言葉を聞いて、僕はこちらこそありがとうと薄く笑い、エンジンボタンを押した。ブロロロロとハンドルが振動する。すると、にわかに外が騒がしくなった。警察官が車のドアに食らいつく。鍵はかけてある。ドアは開かない。ガラス窓をドンドンと拳で叩かれたが、僕の心は決まっていた。
シフトレバーをRに入れ、バックに誰もいないのを確認してから、黒のセダンとパトカーの隙間へ狙いを定め、そして思いっきりアクセルを踏んだ。
「Aさん、掴まってて!」
ウィーーーーンギュルルルルと音が跳ねる。大きな石にでも乗り上げたのか、車体が上下にバウンドした。ガガガッと衝撃があって、パトカーかセダンのどちらかと接触。気にせずそのまま山道へと躍り出る。
「待てえぇ!」
「止まれ!」
「逃げるぞ! 追うんだ!」
パトカーに慌てて乗車しようと警察官が駆け寄っていく。その姿を見て、シフトレバーをDに入れ直すと、僕はAさんに向かって声を上げた。
「準備はいい?」
Aさんは、オッケーと指で丸を作ると、驚くほどの笑顔でにこっと笑った。
「もっと早くCさんに出逢えたらよかった!」
その言葉を聞くと、僕の中でなにかの液体のようなものが、ちゃぷんと音を立てて波うった。温かく優しく愛おしいものが身体中に満ち満ちていく。
永遠に。
「最期まで一緒にいてくれてありがとう!」
僕はそのままアクセルを全開で踏み込み、黒のセダンを大きく大きく避けた。
そして展望台のガードレールの切れ目、その向こう側をめがけて、ハンドルを切った。
視界のふちのどこかで、星が流れたような気がした。
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