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混沌
「……離婚したい。別れて欲しい」
結婚してからの5年、『離婚』の二文字はずっと頭を占めていた。妻にいつ切り出そうかと考えていたし、切り出してからは離婚に承諾して欲しいと何度も懇願した。
殴られ罵倒され貶されてまた殴られる地獄のような生活に、僕は耐えられなくなっていた。
履いているスリッパで頭をパンっと叩かれるぐらいは、もう日常茶飯事のこと。手で叩くと手が痛いそうで、妻はいつもスリッパかクッションで僕を殴る。
例えば。僕が仕事から帰宅しすぐに作るご飯の味つけに、塩加減が微妙だ甘さが足りないなどとちょっとしたことにケチをつける。殴る。
例えば。食後、皿を洗おうとして立ち上がろうとすると、妻に足を引っ掛けられ、その拍子に持っていた皿を床にぶちまける。殴る。
麻痺していたのかも知れない。最近はそのことに慣れてしまっていたのかも知れない。皿は割れると後片付けが大変だと思い、文句を言われないように少しずつだが徐々にプラスチック製の食器に買い替えた。
そして今日も僕は。
床に座り込み、転がった皿を片付け、床に飛び散ったミートソースを雑巾で拭いている。
「はあぁあんたはちっとも学習しねえな! でかい図体してキッチンに座り込むの、めちゃくちゃ邪魔なんだけど? ゴミはゴミらしく家の隅っこで生活しろって言わなかったっけ? とにかくどいてよ邪魔だからっ!」
足蹴りされ床に倒れた。倒れた拍子にワイシャツの腕にミートソース。
そして、「ゴミはゴミでもかぶっとけ!」
バサバサッと頭から被せられたのはリビングのゴミ箱の中身。朝食で食べたバナナの皮が頭から垂れ下がり、頬にべとりと張りついた。甘ったるい香りに紛れて漂う、腐乱臭。
バナナの皮を頭から被っている僕の哀れな姿を見て、妻が素っ頓狂な声を出し、笑った。
「すげえバナナの皮かぶってる! マンガみたいな奇跡! ってかめちゃくちゃ笑える!」
持っていたスマホでパシャパシャと数枚、僕の情けない姿を撮ると、笑いながら誰かに送信している。きっと妻の母宛だろう。二人はよく、僕のことを笑いのネタにしている。
僕は頭に乗ったバナナの皮を掴んで、ゴミ箱に戻した。バナナは今朝、自分が食べたものだというのに、掴んだ指がヌルッとして気持ちが悪かった。
「……離婚したい」
呟くように言う。視線をあげると、スマホを握った仁王立ちの妻の顔が、知らない人間のように見えた。僕の中にもまだ少し残っているのか、ちょっとした防衛本能が働いて、そう見えるのかも知れない。
もうずっと妻とは別々の寝室だけれど、僕のベッドサイドのローテーブルには、離婚届が眠っている。何枚署名しただろうか。そのすべてに僕のサインが入っていて、僕はそこにサインをすることだけを、心の拠り所にしていた。
「なんなの? バカなの? 何回同じこと言わせんの? 離婚なんかしてやるわけないじゃん! あんたは私のために死ぬまで働き続ける下僕なんだよ。安月給がなに偉そうなこと言ってんだよ! ダブルワークって言葉知ってる? なんならバイトでも紹介しようか? もっと働いて稼いでこいよ! この甲斐性なしがっ!」
妻は履いていたスリッパを脱いで掴むと、座り込んでいる僕の頭をめがけて振り下ろした。パンッと破裂音と同時に、こめかみに痛みが走った。
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