表紙

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 「うん。毎年、この研修で2~3人 辞めるみたいだけど、初任給もらった だけで終わっちゃうのも悲しいよね。 でも、滝田くんは頑張り過ぎるところ がある気がするから、ちょっと心配かも」  手にしていた本を閉じて、彼女が俺の 顔を覗く。その労るような優しい眼差し に、小さく鼓動が鳴ったのを意識しなが ら、俺はさりげなく話題を変えた。  「そう言えば、折原さんはどうして この会社に?」  「志望動機ってこと?」  「うん」  唐突に、面接官のように、そんなこと を問いかけた俺に目を見開くと、彼女は 小首を傾げながら数秒ほど思案したのち、 恥らうように言った。  「実際の面接で答えたこととは全然 違うんだけどね、本当はこのお店の、 アルパ・アンジェラのチョコレートチャ ンククッキーが好きだから、応募したの」  「……ああ、あの店のクッキーか」  彼女の答えに頷きながら、俺は柔らか な笑みを返す。その会社の商品が好きだ から、というのはよくある志望動機の 一つだ。もちろん、それだけでは人事へ のアピールとして不十分だろうけど……。  「あのソフトクッキーは値段の割に 大きいし、チョコがゴロゴロ入ってる から甘いもの好きには堪らないよな。 大学時代、あの店でバイトしてたんだ けど、あのクッキーだけ買いに来る客 も結構いたよ」  「そうなの?じゃあ、滝田くんが この会社を志望したのって……」  「当たり。『御社のスタッフマネジ メントと販促施策に興味があり……』 って、面接官の前で揚々と語ったのが 懐かしいな」  当時の自分を振り返りながら、 ピン、と背筋を伸ばしてそういった俺 に、彼女が破願する。  研修中は私語を慎まなければならな かったし、どちらかと言うと、彼女は 人見知りするタイプのようだったから、 こうして二人きりで話す機会を得られ たことは、純粋に嬉しかった。  だから、もう少しこのまま話して いたい。内心、そう思いながら俺は 次の話題を探した。その時だった。  「あ」  と、不意に声を発すると、彼女は本 を手にし、すくっ、と立ち上がった。  「滝田くん、ちょっとここで待って てくれるかな?私ね、のど飴持って来 てるの。まだ、いくつか余ってるから、 取ってくるよ」  「本当?貰えるなら、ありがたい」  俺は相変わらずのしゃがれ声でそう 言うと、喉を擦りながら彼女を見上げ た。こくり、と頷いたかと思うと、 彼女が身を翻す。  細く頼りない背中が、遠ざかって ゆく。その背中が見えなくなってから、 再び彼女が戻ってくるまでの時間は、 おそらくたった数分。  けれど、少しでも長くまた二人で 話したい。そう思っていた俺には ずいぶん長く感じた。
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