表紙

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 蛍里と同じ経理部で働く一年先輩の 彼女には、販促からエリアマネージャー へ職種が変わる時に、連絡先を渡され ていたのだった。  「社内で会える機会も減るだろうし、 たまには息抜きに飲みに行きましょう。 良かったらいつでも連絡して」  さらりとそう言って、彼女は小さな メモ用紙を俺に握らせた。そうして、 いつもと変わらぬ笑顔を向けると、 俺の連絡先は訊かずに「じゃあ」と 手を振った。  長い髪を揺らしながら去ってゆく 彼女の背中から、手の中に残された それに目を移せば、美しい筆跡で メルアドの下に  “新しい部署でも頑張ってね。 いつも応援してる。“ と、記してある。  そのひと言を見、初めて彼女から 向けられている想いに気付いた俺は、 数日間悩んだのち、そのアドレスに メールを送ったのだった。  あれから、いくつかの季節が過ぎ ていったが、彼女とは今も月に一度、 こうして二人で飲みに行っている。  けれど二人の関係は、それ以上何も 進展していなかった。 ーーもちろん、その原因は俺にあった。  「好き……なんだろうな、きっと」  そうとわかっていながら、いつまで もあやふやな関係を続けていることに、 少しの罪悪感を抱いている。  彼女に想いを寄せられて、嬉しくな いわけじゃない。むしろ、美人な上に 如才無い彼女と過ごす時間は愉しく、 こうして飲みに誘われれば悪い気はし なかった。  けれど、「好きか?」と聞かれれば、 「好きだ」と答えることは出来ない。  もちろん、同僚以上の好意は持って いるつもりだが、その気持ちが“恋”に 変わってゆくかどうかは、正直、まだ わからなかった。  その他にも、前に進めない理由が ひとつ。  彼女が折原蛍里と大の仲良しである、 ということがある。 ーー蛍里を想い、そして蛍里に失恋し たという事実を、彼女は知っている。  それがどうにもバツが悪く、このま ま、素知らぬ顔で彼女の気持ちに応え てしまえば、「あっちがダメなら、 こっち」という節操のない男になって しまう気がして……、それも嫌だった。  そんなつまらない拘りと、少しの 未練。  それらが、彼女の手を取れずにいる 理由で……。  俺はまた、夜景の中に映る不甲斐 ない男の顔を見、自嘲の笑みを浮か べると、“いいよ。飲みに行こう”と、 ひと言返事をしたのだった。  「うわ、ヤバいなこの店。煙が凄い ことになってる」  数日後の週末、彼女が探し当てた という、焼き鳥屋に飲みに来た俺は、 厨房から客席の方まで、もくもくと 流れてくる白い煙に眉を顰めながら 言った。  「ほんとね。換気扇が壊れてるの かしら?ごめんなさい、ネットの 口コミで美味しいって評判だったか ら、ここに決めたんだけど」  開いたメニューでさりげなく口元 を隠しながら、彼女が上目遣いに俺 を覗く。  俺は「いや」と、熱々のおしぼり で手を拭きながら首を振ると、言葉 を続けた。
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