プロローグ

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この狭い空間で過ごす1日は、 遭難しいつまで経っても陸の見えない船旅のように 途方もなく感じる孤独な時間。 ただひたすら一人で 自身を慰め続けるしかない。 楓は既に汗や体液で湿った服を脱衣所で脱ぎ捨てた。 浴室の鏡には アルファを欲して堪らない 火照ったオメガの顔が写っている。 大きく垂れた二重瞼の目と柔らかな眉。 赤い口紅を塗ったように色づいたぽってりした唇。 桃色に染まった頬。 普段横分けしている癖のある色素の薄い猫っ毛は汗で湿り、 前髪が額に落ちていた。 狭い浴室で 立ったり、座ったり、 小さい体を丸くし横になったりしながら、 前や後ろを指で弄る。 指先は長い間液体に浸かりふやけ、 腕の筋肉は過度な運動で痺れていく。 ずっと、同じことばかりを繰り返す。 時間の感覚は無くなるほどただ漲る性欲の処理に明け暮れる。 もう夕方ごろだろうか。 季節は3月。 春の訪れで 日が落ちるのは遅くなった。 浴室の上の方にあるかすみ窓から漏れる太陽の日差しが 赤みを帯び、 やっと日が終りに近づくことを知る。 そして、あっという間に 藍色へと変わる。 疲れているのに 未だ治らぬ興奮で 眠気には襲われない。 いっそう寝てしまえたらいいのに。 ぼんやりとした意識の中 そう思っていると、 カチャっと玄関の鍵の開く音がした。 そして、ほんのりと ムスクのアロマを鼻先に感じる。 楓は一人暮らしだが そのことに対しての警戒心はなかった。 野性的な甘い匂いの正体を 分かっているからだ。 次第に濃くなる香りと大きくなる足音。 半開きになっていた浴室の扉が全開になり、 楓は下げていた頭をあげた。 合鍵を使い楓の家に入ってくるなり、 タイルの壁にもたれかかりながら 男性器を握りしめる楓を見つけたのは 楓の上司であり、 ASKA PHARMAの専務取締役の飛鳥龍牙(あすかりゅうが)だった。 予定していたニュー商事との会食を済ませ そのまま楓の部屋に来たようだ。 1日はもう終わると言うのに センターに分けた黒く直毛の髪は 崩れることなく 服の乱れすらない。 そんな龍牙とは対照的なダラっとした楓を 龍牙はオニキスのように深い黒の瞳で見つめ、 「またお前はこんなところで・・・」 と呆れたような低い声を出した。
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