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第九話の① 行列崩壊
横江の家を離れたのちも、虎之介は考え続けた。
(あの家をおとずれたのは、湯殿にきた二人と同じだろうか。となると、横江に悪夢を見せたのは、あけ……)
やがて乗物がとまった。いつのまにか外は薄暗くなっていた。
のぞき窓からあたりを透かし見ると、両脇を木々がみっしり取り囲んでいる。
(まだ、森から離れていないようだ)
外から忠次郎の怒声が聞こえた。
「忠次、どうした」
「申し訳ありませぬ、たわけどもが道を間違えたようにございます」
小平太は行列の前方へ確認に行ったようだ。
予定通りなら、日暮れには街道沿いの集落までたどり着いているはずである。しかし、どこを見回しても見慣れない風景であり、現在位置は虎之介にもさっぱり分からない。
「いったい、なにをしておるのでございましょう。あらかじめ下見にもきているはずなのに」
「そう怒るな。国境を越えたりしたのでなければ、不都合はなかろう。担ぎ手や馬子が疲れるようなら、無理せず休めばいい。今日は雨の気配もない」
「はあ…」
「谷口は、どうしている」虎之介は、行列の責任者の名を口にした。本当に道を間違えたのなら、報告と謝罪にくるはずだ。
「それが、道中奉行様はあちらで揉めておられます」
虎之介は声をかけて戸を開けさせ、外に出た。
周囲の供侍たちは、主君の姿を見ても特に気にするそぶりを見せず、妙にぼんやりしている。変だな、とは思う。
ずっとむこうの先頭近くで、谷口が怒鳴っている。その周囲を何人かで取り囲んでいる。
谷口は、虎之介が乗り物を降りたのに気づき、慌ててこちらにやってこようとした。反対側にいた小平太もまた、それを見て小走りに彼へと近づいた。
突然甲高い声が聞こえた。悲鳴だった。誰かが谷口の背を抜き打ちに切りつけたのだった。
「あっ、そんな」
忠次郎が駆け寄ろうとして、思い直し虎之介のそばにもどった。
腰の刀に手をかけたまま、
「おい、見てきてくれ」
と、すぐ脇にいた刀役に声を掛けたが、反応が鈍い。
「おい、見て来い。どうしたんだ、斬られたんだぞ」言いながら笠の中を見た忠次郎は、
「わっ」と言って後ろに下がった。「目が……」
刀役の目は黒目がちになって、白目も充血している。
そして、どこからか声が聞こえるかのように掌を片耳にあて、ひとりうなずくとぎくしゃくと歩き出したが、誰もいないあさっての方角だった。
行列から同じように、徒をはじめ二刀を腰にたばさんだ男たちがふらふらと出ていった。一方、中元や陸尺(駕籠かき)といった武士以外にそこまでの胡乱な動きはない。おろおろと見守るもの、なんとなく異変に気づき逃げ支度をしているもの、といろいろ反応が分かれている。
「殿、ご免」忠次郎は虎之介の肩に手をかけ、道の端へ誘導した。
「いったいどうなっているか、小平太に確かめさせまする。ここでお待ちを」
「小平太はどこへ行ったのだ」
「はい、あちらにおります。おおいっ、小平太っ」と大声で叫んだとき、すでに行列は混乱に陥っていた。
「えっ」
数人が獣のように仲間につかみかかったかと思えば、それを止めるもの、加勢するもの、ぼんやり佇むようにそれを見ているものがいる。つかみ合いが進むうちに、あちこちで組討ちが起こった。
最初に列の先の方で起こった斬り合いはすぐ終った。一人が止めようとした数人を斬り倒してしまったからだ。
重なり合った人の向こうに、小平太が突き倒されて道脇の藪の中へと転げ落ちていくのが見えた。
「小平太っ」
忠次郎がまた叫んだが、まずいという顔になった。
彼の声によって、特に目つきのおかしい二人が振り向き、こちらに殿様がいるのに気づいたためだ。
虎之介を守り、身代わりになるはずの徒侍たちは、はじめ素手だけを使って野犬の喧嘩のように互いにもつれ合っていた。そのうち、体格の良い一人が前の男を蹴倒し、抜刀しようとした。しかし、後ろからのしかかるように押さえ込まれ、さらに腰に別の男がぶら下がり引き倒された。
嫌な音がした。首を折られたのだろう。
「皆逃げろ、急げ」虎之介は周りにいた乗物の陸尺らに言った。
国入り行列とは異なり、今日の担ぎ手たちは城下の陸送業者から派遣された、いわば純然たる民間労働者だ。武器を持たず戦闘訓練も受けていない彼らが、武装した狂人に抵抗できるすべはない。
男たちは戸惑っていたが、「かまわぬ。命令だ、無事に逃げてどこか近くの番小屋へ急を知らせろ。早馬もあるはずだ」虎之介はきつく命じた。
「ご無事を」それぞれ一礼してから、振り返って駆け出した。
「よし」虎之介は振り向くと太刀を探した。ない。
彼の刀を持った係の者は、どこかでもみ合いの真っ最中だ。
しかたなく手挟んだままにしていた短刀を抜いた。儀礼用のごく小ぶりなものであり、せいぜい自害するぐらいしか役に立ちそうにない。
「殿」偵察から戻ってきた忠次郎から声がかかった。
「おそれながら、拙者の後ろに」声が震えていた。「なにがなにやらさっぱり」
血達磨になった羽織姿が一人、もみ合う同輩を押しのけあるいは踏み越え、近寄ってくる。足取りがしっかりしているから血は返り血なのだろうな、と虎之介は思った。
「あれは、鴨居殿では」
馬術の達人はまた、槍の遣い手としても名があった。その男が返り血を浴び、思い詰めた顔をして近づいてくる。
さっき忠次郎に目をつけた二人の男も、人をかき分けかき分け、こちらへと向かっている。ひとりは股立を取った三十男、もうひとりは羽織姿の壮年の武士だった。羽織は派手に破れてしまっているが、歩く姿は腰が座っていて、目の前にいた男を片手だけで跳ね飛ばした。武術が身についているのが一目で知れた。
三十男はこっちに移動しながら、ぼんやりとした顔で立っている武士のひとりに、手で指図したりしている。
「あの様子では、あやつらが渦の中心のようだな」虎之介はそう口にしたものの、自分の声が遠くから聞こえてくるように感じた。
「お逃げくだされ」
そう声をかけてきた忠次郎が、震える細い両腕で刀を持つ姿は、いかにも頼りなかった。
「忠次郎、落ち着け」
不思議と虎之介に恐怖はなかった。
逃げる気配を見せない主人を忠次郎は隠そうとしたが、背丈の違いで徒労に終わった。
いったん早足になった鴨居は、あと少しまでの距離に近づくと動きがゆっくりになった。慎重に獲物を見定めている。
そして血刀を槍のようにまっすぐ前方へと突き出すと、無言のまま主従二人を目指して踏み込んできた。
体当たりしようと呼吸を計っていた忠次郎を制し、虎之介は前に出た。
「お待ちをっ」
からみつく忠次郎を片手で横に払いのけ、虎之介はまっすぐに鴨居に向かい合った。虎之介の方がたっぷり一回り以上、身体が大きい。しかし相撲ならともかく、相手は刀を持った武芸の達者である。
(あるじに刀を向けるのかと罵るのも、どうもいまひとつだな)
変なことを考えている自分に気がつき、可笑しくなった。相手の目をみつめながら、虎之介は言った。
「わたしの命が欲しいか」
やけに黒目がちになった鴨居の目が、せわしなく瞬いた。
口から小さな泡を吹き、なにかつぶやいている。刀身がかたかた震えた。
「違う、違う」
鴨居は、刀を持った右手を自分の左手で押さえた。あらわになった二の腕に血管が盛り上がり、ものすごい力が入っているのが分かった。
言葉にならないうめき声が聞こえる。彼は真っ赤な顔をして、泣いていた。
近くまでやってきたさっきのやぶれ羽織の壮漢が、口から変な呼吸をもらした。はやくやれと鴨居を罵っているようだった。
しかし鴨居は、押さえ合った両腕を頭上に持ち上げる姿勢になった。
鈍い音がした。
左手が右手を折ったのだ。それでも手と手は争い合っていたが、ついに刀が地面に落ちた。折れた手はなお、脇差を抜こうとしたが、果たせなかった
鴨居は悲鳴のような声をあげた。
「との」
そして膝をつき、地面に落ちた刀を左手で拾うと、「に、げて」と言いながら刀を首に突き当て、自ら倒れ込んだ。
みるみる地面に血だまりが広がり、鴨居は動かなくなった。
それを見たやぶれ羽織が、腰を落とし刀の柄に手をあてた姿勢のまま、じりじりとこちらに接近をはじめた。この男は抜刀術を使うらしい。
小刀だけを握りしめた虎之介は急いで思案した、
(どうする。鴨居の刀を取るか、落ちている槍に飛びつくか。居合いが相手なら、距離を稼げる槍がまだましだ。しかし刀のほうが近い。それともまず刀を掴み投げつけるか?)
虎之介が迷いつつ距離を測っているうちに、破れ袴は近くまでやってきてしまった。
背は虎之介よりもかなり低いが、首や腕は十分太い。それより、近づいてはっきりわかるようになった相手の顔つきは、ひどいものだった。
黒目がちの眼が血走って目尻は張り裂けんばかり、ゆがんだまま開いた口は泡を吹いている。鴨居からはまだ感じられた人間味が、こっちはかけらほどもも残っていない。自裁などしそうになかった。
–––– これは、嘘偽りなく、やばいな。
やっぱり、素直に逃げ出そうかとも考えたが、もはや手遅れだろう。ここでうしろを向いて逃げたら早速飛び掛かられ、背中からばっさり斬られるみっともない結果に終わりそうだ。
–––– ははは、この優柔不断め。迷っているから失敗したぞ。
実戦経験のなさはいかんともしがたい、と虎之介は己を嘲笑した。
かくなるうえはと丹田に力を入れ、震えがきそうな足を叱咤しつつ、敵の出方を観察した。敵も動きが止まった。血走った目でこちらを睨みつつ、頭を傾けた。だれかの声に耳を傾けているようでもある。
最終案としては、まず小刀を投げつけ、相手が躱すなりはねのけるすきに飛び掛かり、体格差を利用して制圧する。
「ただし」他人みたいな心の中の声が言った。「そんな幼稚な手に引っかかってくれればの話だ」
半ば斬られるつもりで虎之介は身構えた。片腕がやられても、残った手で相手の首を潰せるかもしれない。
ゆらりと敵の姿勢が下がり、見事な居合腰になった。
来る。
最後に真喜の顔を思い出そうとした。
(…魂になって会いに行ったら、真喜は喜んでくれるだろうか)
虎之介が飛び出そうとしたその時、いやに甲高い悲鳴が上がった。それはやぶれ羽織の声だった。
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