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第九話の② 行列崩壊/月を背にして歩け
小さなつむじ風がたちのぼった。
とたんにやぶれ羽織の男は足をもつれさせ地面に倒れ込んだ。黒いなにかが張り付いた顔を押さえ、のたうちまわる。
「ネズミ?」
虎之介はおもわず声に出した。間違いない。どこからか現れた野ネズミと思われる小動物が何匹も鼻や手、腹などいたる所に噛み付いている。
倒れた男の顔には、ひときわ大きいネズミがぶら下がったままで、瞼も鼻もすっかり傷だらけだ。
見ればさっきの三十男も向こうで同じ目にあっている。こちらは自ら転げ回ってネズミを落とそうとするが果たせず、かえって噛み付く数が増えた。
おかしな悲鳴をあげながら、ごろごろと地面を転がり回る。
もはや羽織のずたぼろになった男が、大きな黒ネズミを毟り取って姿勢を立て直そうと図った。するとすかさず、黒い稲妻のような影が走った。
(あれは、鎌鼬か)
ひと抱えある四足獣とわかったが、残像しか残らないほど動きが素早い。
一瞬、男の首筋と交差したかと思うと、すぐ跳び去った。残された男は首を手で押さえたが、指の隙間から勢いよく赤い血が吹き出している。
土煙をあげて完全に地面に伏すと、痙攣を繰り返し次第に動かなくなった。
獣はいつの間にかいなくなっている。
状況の理解できない虎之介が棒立ちになっていると、突然腕を引っ張られた。
「こちらへ」忠次郎だった。虎之介が転倒させてしまったようで、額に大きなこぶができていた。
悪いことをしたな、と思いながらもとぼけて尋ねた。
「おまえは、変になっておらんだろうな」
「あたりまえです」憤然として忠次郎が言い返し、それをきっかけに二人はすべてを置いて、そろって駆け出した。
忙しく足を前に送りながら忠次郎は、
「鴨居には驚きました、自害とは。それにさっき殿を襲おうとしたのは、膳方にいた多聞でございますな。自慢の抜刀術も鼠には勝てなかった、あははは」
助かったと思ったのか、興奮した口調でしゃべり続けた。
「あの者を知っておるのか」
「私より、粥川又八がひどい目にあいました。かなり前、酔ったあの者に殴られたのに、泣き寝入りです。又八め、聞けばなんて言うだろう」
振り返ってみると、八十人を超えた行列のうち、まだ立って動いているのは五、六人ほどだった。残ったその男たちも、ただぼんやりとするばかり。意思を持っているかどうかは、わからない。
「とにかく、いったん退こう。あとはそれからだ」
「はっ」
闇の迫る中を二人は駆けに駆けた。あたりは次第に暗く、道がわかりにくくなってきたが、人の踏み締めた跡を探し、それに沿って進んだ。
「あっ、そうだった」唐突に忠次郎が言った。
「どうした」
「これをお履きください」
彼は立ち止まり、背中に担いでいた包みを開いた。さらしや縄、火打道具などが混じった中から草鞋を取り出し、虎之介の華奢な履物と取り替えた。
「用意がいいな」
「はっ」と答えてから忠次郎は首をすくめ、
「実は立つ前に、必ず肌身離さず持てとご用人さまに」
「兵部か。なるほど」
襷をかけながら、一番頼りになる兵部を城に残らせたのは、結果的に良かったと虎之介は思った。彼なら主君を庇って殺されたかもしれない。
空はすっかり暗く、月は出たが雲に隠れがちだ。
「いまさらではございますが、皆がそろって気の触れた原因はいったい」
「わからぬ。谷口は死んだし、鴨居もな。小平太が無事だと良いが」
「はい」忠次郎は肩を落とし、くりかえし息を吸ったり吐いたりしてから言った。
「まあ、しぶとい奴でございますから。それより、もしや食べ合わせが悪かったのではないかという気もいたします。あるいは毒きのことか」
供の多くは昨晩、近くの寺と農家に分宿していたことを彼は口にした。
「なかなかの馳走が出たと、喜ぶ声を聞いておりました。鳥や猪まであったそうです。その時はほんの少し、羨ましく思ったりもしたのですが」
「こっちはがんもどきだからな」
虎之介と床机役、そして谷口は明信院のいる寺の中に泊まった。そこでは精進料理しか出なかった。
「原因は毒かも知れんが、よくわからん。まだ追手が残ってこちらを迫ってくる恐れは十分にある。まずは切りぬけて城に戻り、生き残った者を探させよう。中間どもや荷を扱う者らは、うまく逃げてくれたと思うが」
「はい。あのような者どもは、素早いですから」
二人はまた夜道に戻った。踏み固められた道を選んで進むうちに、山を登っているのに気がついた。
「殿、お疲れではありませぬか、なにも口にしておられませんし」
「いや、まだなんとかなる」
「それがわたしは、だんだん足が動かなくなってきました。ひもじくて」
「忠次郎、情けないことを言うな」
風が冷たい。足元に道はあっても、これから向かう先に見当がつかなかった。
「ああ、ここはいったい、どこなのでしょうか」なんとも頼りない声を忠次郎は出してから、「いえ、申し訳ありません。拙者が口にすべき言葉ではありませんでした」
生まれながらの町っ子を自認する忠次郎にとって、見知らぬ山道を追手におびえつつ歩くのは、たまらなく心細いのだろう。
彼が感情を隠さずにいるため、かえって虎之介は腹のすわった気になれた。
「かまわぬ。この山も我が国の中だ。山賊でも出てくれば、名を告げて城に連れて帰ってもらおうではないか」
「はあ。山賊ですか」
「もののけが出たなら、真喜への土産話になる」
いつの間にか、広く開けた場所に出ていた。
雲が切れ、頭上にのぼった月の光がわずかな間、彼らを照らし出した。かろうじて小高い丘にいるのがわかった。
周囲には樹々の黒々と茂った山が迫っていて、足元から一本、傾斜した道が走っているのが見えた。獣道ではなく、人の足幅ぐらいに踏みならしてある。おそらく、昼間は少なくない人が通るのだろう。
「澤田とはぐれたのは、失敗でござった」澤田とは郡方にいて山道に慣れているはずの男だった。駕籠の近くにいたのが混乱の中、姿が見えなくなった。
よほど自信がないのかくせなのか、歩きながらも忠次郎はくよくよと各種の後悔をし続けた。
「澤田なら乾飯ぐらい持っておりましたかも」忠次郎の背負った包みに水筒はあったが、食料まではなかった。
「あの者がいても、どうせ迷っていたであろう」虎之介は苦笑した。「そう気に病むな。一日ぐらい食べずとも人は死なぬ」
「あっ、そうだ」忠次郎は、夜空にかかった丸い月を指差した。「月に向かって進めば、城に着くのではありませんか」
「いや」虎之介は否定した。「おそらく、逆だ。迷ったとはいえ、駕籠は城に向かって近づきつつあったはず。これまで歩いてきたのも、側道だろう。藪をこいだわけではないからな。そしておそらく、あれに見えるのは鼓岳」彼は前方にある黒い塊を指した。頂近くに、いびつな形の大岩が居座っている。
真喜に教わって、領内にある伝説を持った場所については覚えていた。
鼓岳というのは、昔むかしの領主の息子が月夜に大石の上に座って鼓を打つうち美しい女と親しんだものの、相手の正体は狐だったという話で知られている。
「どんな女のひとだったか、一度会ってみたい。せっかくきつねが化けたのですから、さぞ美しかったに違いありません」真喜が夢見るように言ったのを思い出した。そのあとつい、
「きつねが化けたなら、鼻や口がとんがっているのではないのか」と、言ってしまったのは虎之介だ。妻はそれを聞き、無神経さを咎めるような顔をしたが、やがて不承不承、「筋は通っていますね」と認めた。
一方、鼓岳の左隣にある大小のお椀を伏せたような塊は、俄山と呼ばれる岩山のはずだ。そこから考えると、いま歩いている道をそのまま進めば、いずれ間道のひとつと合流すると思われた。そして、さらにそのまま行けば、遠からず街道筋へと出られるのではないか。
「あれが鼓岳。あちらが俄山。それを考え合わせると、ここから月を目指せば、隣国へと向かうことになる」
「はあ」
「国境には番がいるだろうが、ずっと先の森の中だ。あえて深い森林へと迷い込むこともない。よし、これで行こう」
「はあ」
「月を背にして、さあ忠次郎、歩くぞ。自信を持て」
ちょうどその時、月明かりに四つ足の動物の影が浮かび上がった。
「にぁ」一声啼いたあと影は二人の前を横切り、虎之介が指した方向にとつとつと進んだ。そして、いったん二人を振り返ったと思えば、ぷいと前に向きなおり、また歩きはじめた。月がその背を照らしている
「見ろ、忠次郎。まるでついて来いとでも言っているみたいだ。ならばその通りにしようではないか」
「殿、あれはただの野良猫、あてになりませぬ。やけに身体が大きく尾も長い。あっ、ふたまたに割れてはいませんか。怪しい。もしや、妖かも」
「気のせいだ。大きいがとても美しい猫ではないか。それに賢そうだ。妖であるなら、きっとたいそう格の高い妖だろう。国の土地神の使いかもしれないぞ」
猫は立ち止まり、耳をちりちりと何度も動かしつつ二人の会話を聞いている体だったが、長い尻尾を来い、とでもいうように振りあげてから、案内を再開した。
「そら忠次郎、行こう。猫の手も借りようではないか」
すっかり自信をなくし、半泣きになった忠次郎を励まし、虎之介は猫の後ろについて歩きはじめた。
確信があったわけではないが、月を目指すのが、彼にはなぜだかとても危うく思えたのだ。「あけ」がそちらに誘導しているような。
しかしこの猫は違う。「あけ」やその眷属が漂わせる独特の腐臭、すなわち妄念で腐ったはらわたの放つ邪悪なにおいはまったくしない。
妖しいぐらい美しく立派なのに禍々しさは感じられず、いうなれば澄んだ剣気のような一本筋の通った気配を身にまとっている。
尻尾の長い猫は、ときどき彼らを振り返ると、また先を進んだ。
「今日は衣冠束帯でなかったのだけは、よかったな」
「はあ。刀がこれほど重いとは」
忠次郎は刀を腰から背中にかつぎ直した。そして二人は、足下にできた自分の影をふむように、歩き続けて行った。
いまや雲は切れ、明るい月が中天にあった。
大きな月を背に、猫の尾を目印に山道を歩いていると、うつし世ではなく夢の世界の中での出来事のような気がしてならない。
ときおり感じる土や樹々のにおいと、自分の息づかいだけが現実に戻らせてくれる。
(ここも、おれの国なのだな)
虎之介は長く優美な尻尾に先導されながら、月あかりの下をひたすらに歩き続けた。
空がどことなく明るくなって、夜明けが近いとわかったころには、二人は川の縁を歩いていた。忠次郎はすっかり無言になっている。
河川まで出ると、猫はいつの間にか姿を消していた。
かわりに人影があった。
襲撃者かと身構えた二人だったが、影は大人にしては小さかった。水を汲んでいるようだ。
「おい」と忠次郎が声をかけると、人影は立ち上がってから、身をすくませた。
近寄ると、まだ十を大きく出ていないと思われる少女だった。怯えさせないようにできるだけ優しく、
「難儀しておる。近くに大人はおらぬか、家はないか」と聞くと、少女はうなずいて駆け出し、いったん立ち止まった。
「お水は、飲みませんか」
「いや、いまはいい」虎之介が笑いかけると、やっと少女も柔らかい表情になって、また駆け出した。彼女のかわりに水桶をつかんだ忠次郎と虎之介が、あとを追いかけた。
「猫の次は小娘ですか」
「仕方ない。どちらもわれらより道に詳しいのだからな」
小さな街道に出ると、あたりが白々と開けてきて、村落の状況が視認できた。
「おおっ」忠次郎が喜びの声を上げた。「馬がおります」
道の両脇に、旅籠なのだろうか二階建ての家があり、横に馬屋があった。
気のせいか右に傾いて見える建物に少女が入っていくと、しばらくして痩せた中年の女がものうげに出てきた。
無遠慮に二人を上から下までじろじろ見ると、
「ひどい格好だね。追いはぎにでもあったのかい」
「ここは、どこだ」虎之介が尋ねると、
「そりゃ、おおよしだよ。なーんもよいことなんて無い、この世の行き止まりみたいなところだけどさ」
主従は互いに顔を見合わせた。大吉は領内の西部にある小さな宿場であり、目指していた郡奉行配下の番小屋を、行き過ぎたのだとわかった。
「ずいぶん歩いたと思ったはずだ」虎之介が言うと、
「ここで休み、人を呼ばせましょう」さっきまで死にそうな顔をしていた忠次郎が、急に元気を出して提案した。
「そりゃ、いうのは勝手だけどさあ」と、女が馬鹿にした。「あんたら、お足はあるのかい。なんとかの沙汰も、金次第だよ」
「なるほど」露骨な言い草に、虎之介は妙に納得してしまった。
「おまえは、宿の者か。頼まれてくれ」と忠次郎が低姿勢になって頼んだが、
「悪いけど、このごろとりっぱぐれが多くてね。用を言いつけたいなら金か、代わりの品を先に出しておくれ。いちおうはお武家みたいだし、肌付き銭ぐらいは持ってるんだろ」
「こ、この無礼者」ついに忠次郎が癇癪を起こした。
「その方、こちらをどなたと心得るか」
「まあ、そういうな」虎之介は怒る忠次郎をなだめ、胴巻きから金を出させた。
「これで足りるか」
小判を目にすると、「馬鹿にしやがって」と、女が怒り出した。
「あたしゃ、いくら田舎者だからといって、偽金をつかまされたりはしないよ。なんだい、こんなピカピカ。けさ金座を出たみたいじゃないか。嘘ならもっとうまくつきな」
女が大声で喚き散らすと、向かいの家の人間まで出てきて、騒ぎになった。
(また、とりかこまれた……)
世渡りとはなんと難しいことかと、虎之介はため息をついた。
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