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第十三話の① 前日譚 かつての真喜姫の、冒険
過去の真喜
夜の廊下を照らすのは月の光だけだった。
黒々と磨かれた古い床板は、真喜姫が前に進むたび、ため息のような音で答えた。
まだ子供にしか思えない小柄な姫の体は、しのび足には適していた。移動量にもかかわらず、誰も起きてきたりしなかった。
突き当たりにある部屋の前に立つと、姫は控えめな飾り彫刻を施された板戸を見つめた。
闇に慣れてきた目には、たしかに侍女たちの主張どおり、墨を叩きつけたような黒っぽい染みがあるように映った。
大騒ぎをした引っ越しから半月余りが経過し、ようやく建物への違和感も薄まって、見取り図や灯りを持たずに移動できるようになった。
ある藩の下屋敷と交換した形となった新しい屋敷は、手狭だった前の屋敷と比べて一挙に倍近くの敷地を得た。庭などは特に凝ったものではなかったものの、全体に余裕ができ、ようやく「使わないでいる部屋」も生まれた。
しかし、この部屋は以前から扉に封がされて、長い間だれも入らないままだった。その理由は、部屋が余っているのとは別だった。姫にとって、今回の引越しで最も興味をそそられた部分といえる。
いま彼女が闇を透かして見つめている黒い染みは、ここで誰かが誰かを殺し、その後に自ら首を刎ねて自害したときの血だと言われている。
扉を開けているとおかしな現象が頻発し、夜ともなれば耳慣れない声がしたり、部屋の近くにいると背筋がぞくぞくし、居てもたってもいられなくなるとされていた。
月明かりを利用してじっくり確かめると、血の痕とされる染みは位置にどことなく不自然さがあるし、なにより本当に血なのか判然としない。
拭っても戸を換えても痕は浮かび上がってくるといわれるが、そのあたりもはっきりしない。つまり実際のところ、だれも比較実験を通して確かめてなどいないのだ。
だが、この屋敷に一緒に移ってきた女たちは、実に楽しそうに噂を語り、昼間からきゃあきゃあと怖がって掃除の役目を押し付け合う。
真喜姫も彼女たちから、「あの部屋のそばにはお近づきになられませぬように」とは言われていたが、そっと観察していると、そう注意した人間が老女から叱られていた。
あの姫君に下手な言葉をかけたりしたら、自ら確かめようとしないはずがない、という理屈だった。だから屋敷にいる年嵩の女たちは、そろって姫の質問におとぼけで返してくれる。
さすがに古手のおんなたちはよく見ているな、と真喜は思った。
彼女は怪異譚は大好きだが、ただ恐れるだけでは物足りないと感じている。
憑き物を退治するなどと大それたことは考えていないが、目の前の、手の届くところに謎があるのだから、見て、探って、納得したい。本当に怪異なら、なおのことうれしいではないか。
もしかすると、美しく儚げな女の幽霊と知り合いになれるかもしれない。真喜は伝説や怪談に出てくる登場人物のうち、とりわけ美女の妖怪が好きなのだ。
自らの容姿にひけめを持っているせいかもしれない。
夜半を過ぎ、彼女の側仕えの女たちはすっかり眠っていた。宿直はいるが、この時刻この場所にこないのはわかっている。
もしこられても、犯罪を遂行しているわけもなく、特段困りはしないが、その結果として大勢の侍女たちや侍たちが飛び立つ水鳥のように騒ぎ立て、せっかくの調査が後回しになったりしては、面白くない。
真喜姫は音を立てないように心がけつつ、部屋内部へと移動を開始した。
「ごめん」少しも躊躇せず、男のように戸に手をかけ、開いた。
部屋の中にいた形のない者たちがさざめいた。真喜が顔をのぞかせ部屋に踏み込むと、静かになった。
真新しい畳の香りがただよっている。
長くこの間には人が足を踏み入れず、畳も換えていなかったとのことだったが、引っ越しの差配をした国枝監物は豪胆な男で、この「開かずの間」を強制的に開け放ち畳や表具をすっかり入れ替えさせた。
ただ、その後顔を見ないのはずっと寝込んでしまっているせいらしい。風邪がこじれたのか持病の疝痛なのか判然としない、と老女のひとりが言っていた。
白銀のようにまばゆい月あかりが部屋に一筋、さしている。その光に、畳の上の血だまりのあとのようなしみが照らし出された。
真喜はひざをついてじっとそのしみを見た。
「新しく思える血にしては、生臭いにおいがしない。血にも幽霊はいるのかしら」と、つぶやく。
言葉が宙に放たれると、己を恥じるかのように、血らしきものはだんだんぼんやりと薄れて行き、消えていった。
「あら。いさぎよい」
真喜はそのまま、畳に座り込んで暗い天井を見上げた。
「なかなかいい部屋ではありませんか。それに広い」誰に言うでもなく、口にした。
部屋は大きくふたつに分かれる構造になっていて、畳敷きの広間とやや小さい板敷の間が、襖によって分けられている。建具類も充実している。
もともと、どういう目的に使われていたかは判然としなかったし、元の所有者からの説明もなかった。井戸とこの部屋だけは、あまり手を加えずそっとしておかれるのがよろしかろう、などと忠告とも感想ともつかない言葉があっただけだった。
物音一つしない部屋に、真喜はじっとたたずんでいた。
大掃除は行われたためか、埃っぽい匂いもしないし、寝巻の裾が黒く汚れることもない。
だが真喜の鼻は、部屋のどこかから漂ってくる濡れた土のような匂いをかぎとった。
廊下から差し込む月の光を頼りに、部屋のあちこちを探る。
床の間の後ろに隠し扉があって、そこを開けると抜け道が現れる、というのが真喜の希望だったが、違うようだ。
そのかわり、隅にある床板のひとつがどことなく浮いている。
板の上でてのひらを仰いで風を起こし、その匂いをかぐ。どこかしめった匂いがしている。
彼女は護身用と称し持ち歩いている鉄筆をたもとから取り出し、床板のへりを探る。鋭利な筆の先が引っかかって、板がはずれた。その先は空洞だった。
また手を扇いで匂いをかぐ。腐った匂いや危険そうな匂いはしない。
とりあえず一たん板を戻し、どうするか考えた。潜りこめるなら中に入りたいものだ。しかし、灯りは欠かせない。あと、命綱も。
次の瞬間、部屋の気配が変わった。急に気温が下がったような、ひんやりした雰囲気がただよいはじめた。
鋭敏な真喜の神経が、それを教えた。
そして、理解不能なか細いささやきが聞こえ、真喜の心に、恐れと興味の両方が湧き上がった。
さっきの浮きかげんだった床板が、そっと動いた。
真喜は音もなく身を縮めた。
板は上に持ち上がり、ずれた。ぽっかり空洞がのぞいたが、しばらくなにも起こらない。
ふいに突起物が現れた。月明かりに毛の生えているのがわかった。
ねずみの鼻先かな、と、思ったとたん、風のようにすばやく全身が外に飛び出してきた。全身が黒く長い毛におおわれ、ねずみというよりもぐらやイタチを思わせる大きさだ。
(あっ……)
けものは、鼻をひくひくさせながら、周囲をさぐるように首を蠢かしていたが、穴の中に首を突っ込むと呼びかけるように鳴いた。するともう一つ同じような生きものが後に続いて飛び込んできた。それは呼吸五つ分ぐらいの間、ひっそりと床のうえにいた。その息のひそめかたは、けものというよりどこか人めいていた。そして流れるような黒い毛並みは、優雅というほかなかった。
先に飛び込んできたけものは、今度は首を水平に動かしたが、すぐに全身をこわばらせ、固まった。
じっと見つめる真喜と目があったのだ。
一瞬ののち、大ネズミらしきけものは二匹とも穴の中に飛び込んだ。
するとまた、部屋の気配が変わった。
今度は少し驚いた。周囲が黒くて重々しいものに覆われる感覚を覚え、頭の中にどくどくと、ある感情が湧いて出てくる。なにかの呪術だろうか。
穴の中に引き摺り込まれる気がして、怖い。
怖い、怖いと誰かが震えている。
自分だった。
背筋に震えがきて、腰が抜けそうな状態というのは、なるほどこういうのか、と思えるほど、(逃げたい)という気が強まった。
あぶない、なにかがいる。襲われる、食われる。
こんな感情が脳裏に点滅する。背筋がぞくぞくして、体が冷たくこわばりはじめる。さあ、振り向いて、助けてと呼ぼう……。
しかし、真喜の唇からは別の言葉がこぼれた。
「あなた方が、きゅうそですか」
ふっと暗さがゆるんだ気がした。
「ああ、やっぱり……」
そこまで言って、真喜の体は雪風にあてられたようにふたたび震えはじめた。しかし彼女はまた、
「き、旧鼠に会うのははじめてです。ここの主にあたるのは、そなたですか」
四周の闇がいっそう暗さを増した。
そして彼女の耳に、自分の声がおどろおどろしくささやくのが聞こえる。
「おまえは、そろそろ終わりを知るべきだ」
同時に正面から、彼女のか細い体に巨大な黒い塊が覆いかぶさってくる感覚がやってきて、思わず庇うように腕を差し上げた。
頼りになる誰かに救いを求めようとしたが、危機に陥った際に呼ぶべき名を真喜は知らなかった。
父は末の娘に興味などなく、母はもうこの世に亡い。世話をしてくれる老女たちは親しんでも、ときどき変わってしまう。もちろん男の家臣たちでもない。
ただひとり、父方の祖母だけが彼女をことのほか慈しんでくれる。だが、誰もが認める天下の大物であって真喜が思う存分甘えられる相手ではない。
非力で孤独な彼女に、祈る相手はいない。
唯一の頼りたる母のくれた守り刀は、侍女に不審を抱かれないよう部屋に置いてきてしまった。
言葉にならない悲鳴をあげる彼女の胸の内には、しかし恐怖とは別の感情があった。
魔物に遭うとは、こういうことか。
繰り返し聞いた怪奇とは、これなのか。
まるで物語の登場人物になったような気がして、彼女の心に小さな満足感が灯った。
以前から彼女は、宿命に出会うという話を気に入っていた。
同様に、どこかに己と運命の糸でつながった相手がいるという話も好きだ。だが、それは人間とは限らない。
もしや、ずっと待ち望んでいたそれは、この魔物なのだろうか。ならば、ついに宿命に会えたのか。
生には、あまり未練はなかった。
「ありがとう」
思わず真喜がそうつぶやくと、瞬きほどの間隔のあと静寂が訪れた。
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