第十三話の② 前日譚 続・かつての真喜姫の、冒険

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第十三話の② 前日譚 続・かつての真喜姫の、冒険

 苦痛も恐怖もなくなった。  真喜は小さな声で聞いた。 「旧鼠よ、気を悪くしましたか」  長い時間が過ぎたが、真喜は暗い部屋にずっと座ったままだった。    やがて、暗闇の向こうから、 「悪いもなにも、驚いちまったよ」と、男のものらしい小さな声がした。  また少し間を置いて、さっきの男の声が聞いた。 「怖くないのかい」 「怖いが、嬉しくもあります」  すると、「なんで?」と声がした。こちらはやや高く、女のそれに思えた。 「わたくしの相手をしてくれる者は、みな望んでではなく、役目上そうしているだけです。わたくしそのものに関心があるわけではありません。それに、なにをしても遠慮があります。それも仕方のないことと思っていましたが」 「あたしたちは、そんなのじゃないよ」 「ええ。とても真剣で誠実です。だから相手をしてもらえるのが、素直に嬉しい」 「なんだよ、それは」ため息のような声がした。 「ところで」真喜は逆に尋ねた。 「あなた方はどなたかのために、私を脅したのですか」   「ずばりと聞くなあ、お姫さん」 「どうしてそう思ったの?」 「ただ、なんとなく」 「なんとなく?」 「強いて言えば、あなた方がここを使うためとは思い難かったからです。わたくしと同じく、探りにきたのではないでしょうか」 「……」 「と、申しますのは、この場所は先日、掃除をしましたが、もし前々から使っていたならば、それなりの痕が残っているのではと思いました。噛み跡とか。その、出した物とか」 「そんなこと」女の声が憤然とした。「ここを厠につかったりはしないよ。あたし、あんたが考えてるより育ちはいいのよ」 「ええ。だからです。この部屋はがらんとして、あなた方に使い良いとも考えにくく。この屋敷には、もっとあなた方に住み良い部屋がありそうですし」 「なかなかの御賢察だよな」男が言った。すると女の声が引き取った。 「そう、ここはもともと別の怨霊がとっついていたの。ごくめんどくさいのが」 「怨霊。それはどこに行けば会えますか」 「それが、もう成仏しちゃったみたい」と女は少し笑いを含んだ声で言った。 「あとは、腰巾着だったずっと小物の妖が居ついて人を脅してくれてるから、助かったんだけど」 「そうですか」 「正直に言っちゃうと、この屋敷の下には『あちら側』と『こちら側』をつなぐ扉みたいなのがあって便利なの。立派な建物だし人は少ないし、いい場所だからちょっとばかし使わせてもらおうと思ったんだ。ある立派なお方が困ってらしてね」 「おいおい。それぐれえにしとけよ」咎めるような男の声に、 「いいじゃない。お姫さんに手伝ってもらおうよ。こんな腹の座ったお人、いないよ」  気がつけば、いつのまにか旧鼠と会話を交わしている。真喜は胸躍る喜びを感じていた。 「できることは、いたします」そう彼女が答えると、 「そうかい。そのお方はさ、皆に慕われ敬われるたいへん立派な方なんだけど、ちょっとしたもめごとを抱えてらして……なんていうのかな」女の声が考え込むと、男の声が言った。 「ま、お姫さまにわかりやすく例えるなら、御家騒動かなあ」 「そうだね。その御家騒動に巻き込まれて、ひとつ所に留まっていられないの」 「まあ」 「で、仮住まいばっかりでお疲れになったろうから、たまにはいい部屋に寝泊りして骨休めしていただこうっていうわけ。長く住んで、この家に取り付くわけじゃないから、いいでしょ」 「構いませんが、供はどれほどおいでですか。大勢いれば、それなりの準備を要します」 「あ、いいの。いいの。事情があってお供はいないし。普段はもっぱら下にいて、ときどき上を借りるだけだから。知らんぷりしてくれたらいいのよ。良かったら、お姫さんも下を見てみる?」 「おい、そりゃちょっといくらなんでも」という男の声がしたが、 「ええ、ぜひ」すかさず真喜は言った。「ときに、下というと地面の中ということでしょうか、甲賀三郎が旅したという。それとも、黄泉比良坂のごとく……」 「あたし、人の知り合いはいないわけじゃないけど、三郎さんはいないなあ。それはともかく、お姫さんたちから見たら、地の中かな。でも、じめじめした土の中を這うわけじゃないからさ。結構広いし。それに、あたしがいるからね。ちょっとぐらいなら術が使えるのよ」 「まあ」 「さっきは怖がらせちゃってごめん。だから、こんどはそのお詫びをするよ」 「こいつ、偽りなく偽りを見せる術ができやがる。古今無双ってぐれえの大妖術師に見込まれちゃって、いまじゃその師範代さまさ。おいらと大違いだよ。男はだめだよな」 「ときに、あなた方をなんとお呼びすればよろしいか?わたくしは真喜と申します」 「ああ、まーさんね。あたしはぎん。それでさっきから横でごじゃごじゃいってるのがあたしの兄貴の……」 「久太ってんだ。よろしくな。しかしおいらたちを見ても驚かねえんだな。肝の太えお人だ。こっちが焦るよ」 「驚きはしましたが、喜びの方が勝りました。旧鼠にお会いできるとは、夢のよう」 「よせやい。それより、御家来衆には黙っていてくれよ」久太は念を押した。 「お侍ってお侍は全部ね。内緒だよ。おいらたちのこと、はなから信じないでくれりゃうれしいけど、中には血相変えて退治しにくるおっちょこちょいがいるんだよ。それと、この部屋をときどき使うのを許してくれるんなら、これからのこともあるから、ひとつ頼んでおきてえことがある」 「なんでしょう」 「お姫さんのご寝所に置いてある、あれさ。あの剣呑なやつ、蓋して決して出さないようにしてくんな。あのせいで屋敷にいた怨霊も退散しちまったけどさ、こっちも苦手なんだ」 「ああ、あれ」ぎんも言った。「ちっこくて、ぴかっと光る、刃物」 「おい、やめてくれ」 「ああ、母の遺した守り刀のことですか、吉備津丸と申します」  一斉に悲鳴が上がった。 「それ、苦手」 「きらい、あれ」声が震えている。 「駄目なのですか」 「だめだよ、だめ。いたちに顔の前で屁をブッこかれるよりひどい」 「まあ」 「いやだあ、兄上ったら。なんて下品な言い草するの。仮にも人のお姫さまよ」 「仕方ねえだろ、性分だ。おめえこそなんだ、いつのまにか上品ぶった口調に変えやがって」 「これだって性分なの」  真喜は嬉しそうに微笑んだ。  「お兄さまと仲が良くてよろしいですね」  するとぎんも笑った。 「仲良くなんてないよ。腐れ縁だよね、しかたなくて一緒にいる」 「だけどさ」ぎんが聞いた「まー姫さまにはごきょうだいはいないの、ここでかしずかれてるの、おひとりだけみたいだけど」  妖怪の兄妹は、昼間に屋敷を観察していたようだった。 「います」早くに亡くなったのも含め、兄ばかり五人いるのだと真喜は答えた。 「あら。人にしちゃまあまあいるんだ」 「ですが、ほとんど親しく話をしたことはなく、なにをどう考えているのかがわかりません。こちらから話をしかけたことはありますが、すべての兄に忌避されました」 「そりゃ、冷たいねえ。おっかさんは同じなの」 「違います」 「ふうーん」 「ま、お大名だからな」と久太が言った。「貴人なんて連中は、てめえ以外には、得てして冷てえもんさ」 「悟ったようなこというじゃない、あにうえ」 「聞いたんだよ」と久太と名乗る妖怪は言った。「この家にお呼びしたさっきのえらいお方、あっしの姉御。その方には恩人と慕う方がいらっしゃる。まだ若い、人さ。その兄さんも、さるところの若君なんだと。姉御があれほど褒めるぐらいだから、それは立派なお人でいらっしゃって、下々だろうとけものだろうとあっしら物の怪だろうと、差をつけず自然に振る舞う方らしい。わかるかな」 「はい」真喜は暗闇にうなずいた。 「ところが、そんないいひとなのに、兄うえたちには蝿蚊みてえな、いないと同じ扱いを受けてるんだそうだ。お姫さんと同じく一人だけおっかさんが違うらしいが、それが理由かどうかは分からねえ。おやじさんも似たような態度らしいから、ただ人情が薄いってだけじゃないのかもな」 「意地悪をしているということですか」 「だと思うぜ。おいらたちは幸いそうじゃないけど、この広い世の中には憎しみあう親子兄弟がざらにいて、家族のうち一人だけをいじめて憂さ晴らしするやつらもいる。かく言うおいらたち旧鼠だって、いざ身内どうしが憎しみ合うとなったら、そのすごさったら、ないぜ。なんせ人の悪いとこだけ真似てへんげしちまったみたいなもんだから」 「そうそう、そうだよねえ」 「その若君のところも、同じようなもんかもしれねえ。姉御は、おやじや兄貴に諫言する気骨のあるのが家中にいないのかって悔しがっておいでだが、ばかが親玉なら子分もまぬけだよな、人だろうと物の怪だろうと、ふつう。あ、そうか。ばかの親玉に苦労する子分の話ってのも、ざらにあるな」 「もしかして、末の弟君を妬んでるんじゃないの。ぴっかり源氏みたいに色男だったりして。あら、ちょっとお会いしたくなったわ」  そう言ってから、ぎんはいっそう感情のこもった声になった。「ねえねえ、まー姫さま、一度聞いてみたかったんだけど、姫君っていろんな若殿さまにお会いできるの?それで旦那にするのは、どこで選ぶの?やっぱり家柄?それとも色男がいいの?」 「…あまり考えたこともありませんでした」 「あたし」と、自分の内側を顧みるようにぎんは言った。 「このところいろいろあって、相手の選び方そのものに悩んでるの。いえね、こんなあたしでも話はあるのよ、でもほら、手近で間に合わせるのもどうなのって考えてしまう。お化けの世間なんて狭いし、さっきみたいに意地悪な輩も少なくなくて。特にこのごろ、すごく。それで人の、それもお姫様の意見をためしに聞きたい」 「おい、そんなこと聞くなよ。殿さま姫さまってえ御身分は、下々のように好き嫌いで相手を選べねえのがつれえところなんだぜ」 「あら、そうなの。そりゃ、気の毒な人生ねえ。でも、希望は持っていいのよ。手前の勝手だし。で、どんな殿さまがいい?洒落た人?それとも石部金吉?」 「そうですね。お生まれやお姿はともかく」しばらく真喜は考えているようだった。「できうるなら、わたくしを裏切らないお方がいいと思うのです。少なくとも裏切らないよう努めてくださる方」 「どういうことかしらね」 「いくら考えても、わたくしは多くの人が求める女ではなく、望ましい妻にもなれそうにありません。見た目も気質もひどいものです」 「まだちっちゃいからでしょ。すぐ大きくなるわよ」 「どうでしょう。それで、たとえ夫となる人ができても、名のみの夫婦となるのは武家ならめずらしくありません。考えようでは、むしろそっちが気楽でしょうし、国や領民のため、夫がわたくしを切り捨てる時もあるからには、交わりは薄く淡く保つべきかもしれません。けれども」  真喜は言葉をいったん切った。そして、「けれども、父や兄たちがわたくしにそうするように、人形よりも心の通わぬ相手を見るようには、見てもらいたくない。もしも叶うなら、わたくしに一片でも興味を持ち、むかい合おうと試みるひと。そのうえでわたくしを裏切らず、もしそうなっても痛痒を感じるひとを夫としたい。もちろん、相手にとってわたくしもそうありたい。あくまで小娘の世迷言ですが」  間が空いてから、久太が言った。「心って、大切だよな」 「ええ。そう思います」 「裏切る、裏切らないよりまず、心のある生身として扱ってくれってことね、姫さまの望みは」ぎんも言った。 「そうかもしれません、いえ、きっとそうでしょう」 「しかしえらいな、お姫さん。まだ若いのに、いろいろ考えてるもんだな」 「ほんと。いい人、見つかるといいね」 「近く婿取りの話があると、わたくしの祖母から便りがあり、それで少し思案していました。祖母はわたくしを大切にしてくれますが、いわゆる世間の広いひとです。いろいろしがらみもあるでしょう。どうなるかわかりません」 「そうなの……けど心配ないからね。嫌な奴だったら、あたしがお尻を噛んで向こうから断るようにしむけてやるわ」 「お尻を噛まれない方であるのを、祈ります」  真喜はそう言って、何年もなかった心の底からの笑いを楽しんだ。  
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