第二話の① 落とし穴を飛び越えろ!前編

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第二話の① 落とし穴を飛び越えろ!前編

 国境から鵠山城へと向かう山道は、途中いくつかの上り坂をへて峰を越えると、徐々にゆるやかな下りへと変わる。  城の新しいあるじである越後守正光こと虎之介は、馬上にあってその道を辿っていた。  むろん、ひとりではない。壮麗な大名行列が彼とともにあった。いや、彼こそが行列の主役であり目的だった。  国境で弓組や鉄砲組が加わったことで、行列は獲物を飲み込んだ大蛇のように膨れあがり、ゆるゆると進んでいく。彼の初の国入りを祝うように、陽射しがあかるく、よく手入れされた軍装がそれを反射してきらめいている。    しかし、列の中央にいて大勢にかしづかれながらも、虎之介は馬に鞭を当てて飛び出したい気持ちを懸命に抑えていた。  行列を見て回りたいし、これからの居城のことが気になる。なにより、彼の関心の多くは、城下の様子やそこに暮らすひとびとにあった。 (さんざん聞かされるだけだった城下町をやっと目にできる。真喜にどう伝えよう。絵は苦手だしな、だれか絵描きに頼むのも、手かもしれない)  江戸藩邸にいた彼の近習たちは、そろって生真面目な男ばかりだった。ためになる話、堅苦しい話は喜んでしてくれるが、城下の様子をいきいきと伝えるのには、適さない。  その意味で虎之介の最大の情報源は、妻の真喜であった。  町は城からなだらかに下って扇型に広がった平野部にあるため、天守からは一望のもとにできるのだ、と彼女は見てきたように教えてくれた。あの時の妻の得意げな顔を思い出すだけでおかしい。  亡くなった先代藩主の娘である彼女は、大名の子女の例にもれず江戸生まれの江戸育ち、実際にその目で国元を見たわけではない。すべて侍女たちをはじめ周囲からの伝聞である。  それでも、あれほど詳しく解説できるとは、どれほど情熱を傾けて城下町の話を聞き、記憶しているのだろう。  これに限らず、真喜について考えるだけで、自然と笑みが浮かんでしまう。  いや、にやにやした顔で城下に入ってはいけない。そう考え、まだ丸みの残る頬を虎之介は引き締めた。  彼の顔の多くは笠で隠れているが、大名の子弟にしては際立って立派な体格は隠しようもない。  肩幅は広く手足も大きく、背丈はまだ伸びそうだった。そして青波と名付けられた彼の馬もまた、騎手に負けないほど大きく逞しい。鞍の上からは行列のかなり向こうまで見渡せた。  閉じ込められるのが苦手な彼にとって、慣例により鵠山の新城主の国入りは騎乗と決まっていたのは嬉しかった。  城主が移動に使う専用の乗物は脇息までついていて、庶民の使う駕籠とは段違いの贅沢さなのだが、中にいるとどうしても息がつまる。  だから、国境を超え里に近づいてから乗馬するという案もありながら、夜明け前に宿場を発つ時点で馬にまたがってしまっていた。 (でも今日は、なんていい天気だろう)  陽射しがここちよいうえ、鼻孔に木々のしっとりした香りが運ばれてくる。 (早駆けできたら、さらに風や光まで感じられるのに)  歳若いあるじの内心を見抜いているのか、用人の筆頭をつとめる榊兵部は油断せずに監視を続けている。  そして、村々で名主たちの挨拶を受けたり、小休止するたびに虎之介のもとへと近寄っては、 「くれぐれもお急ぎになりませぬよう」などと、言わずもがなの小言を付け加える。  彼は、虎之介が出立の前に、 「道中、こんなことをすれば面白かろう」  と、妻の真喜と冗談をいいあったのを耳にし、まさか実行しないよう念押ししているのだった。 「わかっている。心配するな」そのたびに、真面目な顔をしてうなずきこたえる。  いくら粗放に育てられた彼でも、槍持ちから熊毛槍を奪って振り回したり、馬の曲乗りを披露したりするつもりはなかった。  なにより、彼の国入り実現までに鵠山藩のひとびとが重ねた苦労を足蹴にするような行為は、ぜったいにつつしまねばならない。  江戸家老など、ただの真喜姫の婿候補として会った際は、ふくよかな男と記憶していたのに、いつしかみるみる豊頰がしぼみ苦渋のしわが刻まれ、一時は幽鬼のようにやせこけた。このごろになってようやく、ただの細面の男ぐらいにまで回復してきているが、いまも自分の健康より、虎之介のそれを気にかけている。 (これほど真剣な家臣たちの願いを、おろそかになぞできるものか)と、内心は思うが、まだ少年と言っても良い年齢の虎之介には、その気持ちの上手な伝え方がよくわからない。  それに、彼らの気苦労はある意味、無理もなかった。国に降りかかった存続の危機が、虎之介によって、ようやく回避されたのだ。  彼の義父にあたる先代藩主は、人柄はともかく大病などとは無縁の健康体であり、夭折を含めて六人の子に恵まれていた。  ところがある日、ほんの昨日まで元気だった彼が突然の奇病に倒れると、世継ぎと決まっていた長男を皮切りに後継予定者が短期間のうちに次々と急死した。そして先代は病魔に翻弄され、苦しみ抜いたのち、幽明のあわいにあって生死いずれともつかない状態が続いた。  すなわちこれほどの事態ともなれば、幕府による取り潰しを警戒せねばならない。いや、さっさと潰されてもおかしくはない。  いったん男子後継者がないと見做されたら、当該の家そして国はその時点で終了というのはまさしく不可避の決まりであったからだ。    本来、長女の婿となるはずの虎之介が正式に一国の後継者と幕府に認められるまでには、城代家老以下家臣団はまさに綱渡りの日々を送ったはずであり、言葉にいいあらわせぬ気苦労があったのだろうと思う。  しかし虎之介本人だって、ただ流れに乗っていたわけでは決してない。自分のできることは、まさに身を削るほどの熱心さで協力した。その献身ぶりにいまも江戸藩邸の面々は感謝を捧げてくれる。  それでも、小国の厄介者と冷遇される日々から一転、正光と名をあらため十五万石の城持ち大名になったのを、ズルでもしたかのように蔑む向きはいまもある。  まず、誰より、実の兄たちがそうだった。  金もなければ城もない小藩を継いだ長兄は、ゴミ扱いしていた腹違いの末弟が手の届かない存在となってしまったのを、いまだ側近たちに当たり散らしていると聞く。  一方の虎之介本人は、ざまあみろという気持ちよりも、どこか申し訳なく感じる気持ちがいまだに勝っているのだが、兄が知っても屈辱としか思わないであろう。  とにかく虎之介の人生は激変した。  まったく異なる環境へと移行した気分を彼は、「欠け茶碗に乾いたまま置かれていていたのが、急に大鉢に移され、出汁かなにかと一緒にすりこぎでこねまわされたようだ」と、妻の真喜にだけはもらした。 「それでいまは、紋入りの腕によそわれ、立派な膳に並べられてしまった。ますます落ち着かぬ」  すると真喜の返事は、「まあ。ならば、わたくしはきっとその出汁ですね。それとも味噌かしら」だった。  妻は、彼と夫婦になったのを素直に喜んでくれている。いまも気苦労には事欠かないが、この国と縁ができ、真喜をはじめ信頼できる人々と心が通い合えたのだけは、かえがたい喜びであると思う。感慨にふけっている虎之介に、 「殿、間も無く石仏にございます」と、声がかかった。  城下にはまだ距離があるが、前方に初代藩主がかつて花を手向けたとされる小さな石仏がある。いったんそこに立ち止まり、彼もまた花をそなえる予定であった。  暗い茂みの中を、ひとりの男が背をかがめ、なかば駆け足で進み続けていた。  まだ三十ほどの年齢だが頭髪はすっかりない。尖ったほおに鋭い目つき、顔は黄色味を帯びていて、腰には武器がわりの鎌を持っている。  そして彼の後ろからは狼と見紛うほど大きな犬が四頭、距離をおかずについてきている。いずれも十分以上に凶暴で、人の首を噛み切るなど、造作もなくやってのける。人間などよりはるかに頼りとなる連中だ。    行列が一時停止した。  しかし男の足は、藪にからまれて、もつれた。舌打ちする。  大名行列の速度は遅く、経路もわかっているから跡をつけるのはさほど難事ではないはずだったのに、なぜか今日は思うように足が前に出なかった。  とはいえ、男の頭には主人に与えられた指令、「国入り行列をいつでも襲えるよう見逃すな」との言葉だけが巡っている。なにより昂るのは、「なお、命があり次第、躊躇せず城主を始末せよ」と、犬たちを預けられたことだ。   あらかじめ主人からは、新しい城主こそ不正義の象徴だと教えられている。加えて、主人のさらに上にいて男が目通りも叶わぬ存在、彼ら一党の真の盟主たる方にとっては、「あの者こそ憎んでも憎みきれぬ仇の眷属」なのだという。一矢報いるためには肉体の不調などなにほどでもない。いや、行列を襲えばまず男も生きては帰れまいが、死はきっと永遠に仲間に語り継がれることだろう。  一頭の犬が短く唸った。  行列に鉄砲を持った集団がいて、その鉄の匂いが気に入らないらしい。  悔しいが今日は犬たちも本調子ではない。なんとなれば、ここで行列に雪崩れ込んでひと暴れしたいところだが、どうにも動きがちぐはぐだ。  仕方なく、男は距離を保つのを選んだ。だが追跡は諦めない。  目の前にある立派な馬のたてがみが、ぶるっと震えた。 「どうしたのかな」虎之介が聞くと、馬を引く松蔵が答えた。 「茂みの先に狐狸でもひそんでおったやもしれませぬ。この馬はなかなか剽悍にございますゆえ」  旅と良馬に昂った虎之介は、先導する松蔵が調教の名手でもあるのを知るなり、道中遠慮なく彼にしゃべりかけた。はじめは畏まるばかりだった松蔵も、そのうち若駒ならぬ歳若い主の扱いを飲み込んだのか、思いつきのような問いにもていねいに答えてくれていた。 「ならば、そのうち私も振り落とされるかもしれないな」虎之介が笑うと、 「いえ、珍しいほど賢い馬にございます。殿をお乗せするのをこれなりに誇りと思うておるようにございます」  馬と武術の稽古だけは生国でも続けていたが、今またがっている青波ほどの馬に乗った経験はなかった。   苦しいことは数々あれど、借り物でない自分の馬を持てたのだけは素直に嬉しい。  行列には青波とは別に、将軍家より拝領の優美な馬もいる。こちらは虎之介より立派に飾りつけられ、横に幾人も供がついている。国元で披露したのちは、この馬にも乗ることができる。気の重い国入りの数少ない楽しみだった。  兵部がやってきて、まもなく休憩場所につくと教えてくれた。 「殿、なにか」虎之介が笑みを含んだような表情で見たので、兵部は聞いた。 「いや、なんでもない。なんでもないぞ」 「まだ、お気を緩められませぬように。だれが見ているかわかりませぬ」 「わかった、わかった」  兵部にはこんな返事をしても、まじめくさった彼との間で繰り返されるやりとりは、決してわずらわしくはなかった。  冷たく酷薄そうに整った顔の中に兵部が隠しているものを、この三年ばかりの付き合いのうち、少しは理解したつもりになっていた。  むしろ小言がうれしく感じる時さえある。    兵部は元来、視野が広く万事に見識のある非凡な男だが、用人に就いて以降、なにごとも虎之介に是が非かを考えてから判断を決めるようになっていた。  その献身ぶりには頭が下がる。ふるさとには、これほど虎之介を無条件に気遣い導こうとする人間などいなかった。 (いや、あの二人は違っていたかもしれない)と、虎之介は心の中で条件をつけた。亡くなった母と、扶育係だった板垣の二人である。悲しい記憶がよみがえりそうになって、それ以上考えるのはやめにした。  城下に足を踏み入れる前に、城を遠望できる丘に建つ古い寺で休みをとった。  国境を越えて以来、数百人規模にまで膨れ上がった行列全体が、装備と衣装をこの場所でととのえ直すのだ。ここを降りれば人里、そして城下である。  だから休憩といっても簡易なものではない。あらかじめ幔幕が張られ、板と筵で拵えた厠も用意されてある。  虎之介は、木々を払って見晴らしをよくした場所に立ち、 「ほおー」と、声をあげた。若い近習たちが思わず微笑んだ。  江戸とも、山がちで狭い故国とも異なる眼下の光景に、目をみはりっぱなしの彼のもとに、家老や年寄衆が代わる代わるやってきては、 「今日はまことに良い日和にて」 「これほどの見事な晴れは、まさに神仏のご加護にござる」  などと、くちぐちに抜けるような青空をほめそやした。  たしかに今年は夏がひどく暑く、九月を過ぎて国入りが近づくと今度は梅雨のようにぼそぼそ小雨ばかりが続いた。それがいざ江戸を立つと天候は落ち着き、昨日今日とすばらしい快晴となった。 「足もとの具合もよい。装束が汚れずにすんだな」少年君主が微笑むと、年かさの男たちも追従笑いを浮かべた。  行列は、ふたたび出発した。  虎之介は深々と息を吸い込む。城下も近いのに、まだ森の香りがした。  子供時代を山裾にある家臣の別邸で野方図に送った彼にとって、樹々の間に身をおいているのは心が落ち着いた。  それに、生国 ―― 正確には彼は江戸生まれだが ―― の山は厳しく切り立ち、森も黒々として人を容易に寄せ付けない。それに比べ鵠山の森はずっと西にあるせいなのか、はるかに穏やかに、近く感じられる。 (山と里が離れておらず、手入れが行き届いているせいかな)と、考える。  行列を追いかけていた男もまた、寺の向かいの林に陣取り様子を探った。国入り行列とは知ってはいたが、うかつにもこれほどの陣容であるとは正しく理解していなかった。  せめてにっくき新城主の顔でも睨みつけ呪ってやろうと、鎌を背に隠しひそかに近寄ろうとするが、突然に膝が砕けた。 (どうしたことだ)男は焦った。馬や人があれほど固まっていれば、激しく反応するはずの犬どももぐったりと元気がなく、しげみに寝そべったままである。  こいつらは、ただの野良犬ではなく主人と正しく縁を結んだ、特別な犬たちである。だが、それが裏目に出たのかも知れない。  彼は行列の中央になにか強大な力があると見た。これが男と犬どもを寄せ付けぬのだろう。だが、確証はない。  視認できるまでの距離に近づけないためだ。  (せめて、理由なりと探らねば)  主人との結縁以来、複雑な思考が苦手になった男は、ひとつのことだけを考えるようにして、懸命におのれの体を叱咤した。
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