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第十八話 番外編 妖怪の準備 猫
書状から目を上げると、橋本左内はこめかみを指で揉んだ。
この件は、礼状はいらないだろう。そう判断して、横の文箱に放り入れた。
わずかにすっきりした。
しかし、似たような文面を、いったい何千枚書いてきたことか。
用人としての執務室にあてている小さな部屋の中に座ったまま、左内は首の後ろを自らの手で揉んだ。
このごろは、目もすっかり弱ってしまい、長い時間にわたって文字を読み続けるのがつらい。
若いうちは楽にできたこと、そして数年前までなら文句を言いながらでもできたことが、今は苦行となりつつある。
これが主人にはわかってもらえないのだ、と左内はうんざりした。
主人は彼より四つばかり歳上なのだが、近年すっかり老け込み、どこへ行っても年寄り扱いされる左内に比べはるかに若々しい。
お世辞抜きにまだ四十代といっても通用するほどなのだった。
(すべき苦労を、おれがそっくり背負ってきたせいだ)と、愚痴も出る。
五千石の旗本らしく、主人は諸事に鷹揚であり、さらに吝嗇でないのはいい。だからこそ長年仕えてこられたと思う。
一方、家臣や家族の無理や苦労に無頓着なところがあり、そのうえ面倒なことからは、いつのまにか逃げている。これは若い頃と変わりない。そんな時だけ判断は早い。
左内は人生の大半を、気がいいだけの殿様の尻拭いに費やしてきた。主人がまだ若く柔軟なうちに、もっとそのあたりをしつけておくべきだったと、この歳になって思い返すことが増えた。
ふと、誰かが部屋の前を横切った気がした。
「誰だ」彼が執務中に干渉されるのが嫌いなことは、この家のものなら誰でも知っている。
舌打ちしながら、腰高障子を開く。前の廊下には誰もいない。
ただ、小さな音がした。がさがさと、おそらく落ち葉を踏み締めている音だろう。それにしては、間隔が短い。人ではなく、
(もしや、犬か猫か)と思う。しかしこの屋敷には犬も猫も飼ってはいない。
「野良猫はきらいだ」と口に出す。
なにも反応はない。
首を横にふって、また作業に戻ろうとするが、上手くいかなかった。
それより、歳をとったせいかこのごろ、ああすれば良かった、こうすれば良かったとのさまざまな後悔が、ひんぱんにやってくる。
(ああ、後始末と後悔ばかりの人生だ)
左内は目を閉じた。
数十年にわたる後始末のうちには、むろん人に言えないこともある。
手をかけすぎたせいで、親の死目に会えなかったこともあった。
特に気になるのが、その中のひとつ。いまでも胸に引っかかって仕方がない。
脳裏に浮かぶのは、
若殿たち四人の興奮した顔。不快そうな顔。殴られて倒れた男。キッとこっちを見た顔。
(あれは、女か、男か)
どうして四十年も前のことが、心苦しく思えるのだろう。
いや、むしろ年月をへたからこそ傷が広がり、痛みが振り返しているのだ。
秋に入って、頻繁に昔のことを夢に見る。そのほぼすべてが、いやな夢だ。
疲れたな、と思う。
さっさとすべての仕事を譲って隠居してしまいたいが、これだけは長年の秘密の共有者である主人がいい顔をしなかった。
他のことはたいていなんでも、いかにも殿様らしく「よきにはからえ」と放置する主人が、用人の引退にだけは不思議と抵抗した。
おそらく、彼の胸のうちにある暗い引き出しを、白日にさらしたくないのだろう。
同じ又者(将軍・大名家の家臣に仕える人間)の知人には、
「このご時世、古びた草履のごとくあっさり捨てられないのをありがたく思え」などと忠告されたこともあるが、主人の代わりとして胸の内に抱え込んだ暗闇を、いつまでも吐き出せないのも辛い。
「ご用人さま」と女の声で呼ばれ、夢がさめたようになった。
「ここに置きます」
「おお、茶か。持ってきてくれたか」
「はい。お忙しいのはわかりますが、少しお休みになりませぬと」
「うむ、そうだな」いつも執務中の出入りに厳しい態度を示しているだけに、左内は抑えた低い声で返事した。しかし喜色を帯びた顔つきの方は隠せなかった。
おあきと名乗る女は、なにも表情に浮かべず、左内を見た。
だが、彼の目線に気づくと、すぐに小さく頬に笑みをきざんだ。
左内もつられて笑ってしまった。
彼女は半年ほど前、付き合いのある京の商人の紹介によってこの家にきた。歳のころは三十手前、夫とは死別したという。
親が京の生まれ、当人も子供のころは大原の北、草深い土地にいたというが、多少口調がおっとりしているだけで、なまりはほとんど感じない。
ただ、佐内に対する態度はひときわ親しげである。
本人は「物知らずなもので」と言い訳しながらも、江戸近郊生まれのほかの使用人に比べいたって気軽に彼に声をかけ、まめまめしい世話を焼いてくれる。遠慮のなさにまゆをひそめる者も家中にはいたが、彼自身はそんなものか、と少しも嫌な気はしなかった。
それどころか、いつしかこの女にすっかり親しみ、同輩はもちろん家族にも言わない愚痴までこぼすようなっていた
「たいへんな数の書状でございますね」机の上を見て女は言った。
「はは」左内は笑った「茶を引いている廓の女のようだと申すか」
下手な冗談が通じなかったのか、おあきは小首をかしげただけだった。
「いや、例の風流の会が近づいて参ったからな」
「あの、宇部様のお屋敷に集まられるという」あきは、左内が少し口にしただけのことでもよく覚えていて、響くように反応してくれる。
「うむ。ただ紅葉を見に行くだけでこれほどの手間なのだ。大名方や数寄者を自邸に呼んだりすれば、どれほどの雑事が押し寄せてくるか。前は平気だったが、このごろはとてもとても。考えるだけで恐ろしいわ」
「今度の紅葉狩りも、これからまた礼状やら音物やら、さらにお返しやら」
「そうだ。殿はただ、涼やかなお顔をしておられればいいがな」
おあきは、さも同情したかのようにため息をついてから、
「ご用人様は、すぐ無理をなさいますから」と言った。
そろそろ薄暗くなってきたので、あきの表情は読みにくい。それでも赤い唇が苦笑したようなのはわかった。そして白いうなじの動き。
一瞬、左内はそのしぐさに見惚れてしまった。
女は、顔立ちは少しも派手ではないが、なにかの拍子に色気を感じることがあった。
今がそうだった。
やや声を上ずらせながら、
「前は「忙しい忙しい」と笑いながら処理できていたが、この頃はだめだ」と左内は言った。「すっかり粘りがなくなったな」
老け自慢ばかりもいかんな、と思っているとあきの方から気の毒そうな声で言った。
「このような辛いことを、長い間ずっと続けておられたのですか」
「そうだな、考えれば長いな。いまの殿がまだ家督を継がれる前だから、近習としてそばに仕えたのは……」
一瞬、胸の中にある黒い怒りの燻りが、炎を吹き上げようとして、やんだ。
それを見て、あきは唇をゆがめ、うっすら笑ったのだが、左内は気がつかなかった。
「はは、気にしてくれるのは新参のお前だけだな」
誰もわからず、おれは生涯便利使いか。
我ながら嫌な連想をしていると、あきが今度は少し悲しげな顔になった。
そして、これは失礼とわかっているがと前置きしつつ、
「この大きな家には、わたくしの思いもつかない、重苦しくややこしいことがたっぷりつまっているようです。ところが、お殿様をはじめみなさま、少しの気鬱もなく過ごしてられる。このごろようやく、それらはすべて御用人さまが背負っておられるというのがよう分りました」
「まあ、言ってくれるのはありがたいが、そこまでとはわしは思っておらん。さりとてこの苦労がわかってもらえぬのは、ときに情けなく感じるのはうそではない」と笑った。「用人とはそうしたものよ」
また暗い衝動が腹の中を駆け巡った。
–––– 会合だろうが紅葉狩りだろうが、わが殿は顔さえ出せばすっかり済むと思っている。しかし、ただで終わるわけがない。その前後にそれなりの手間と金が必要であり、操船を誤ればあっけなく船は沈む。
(あの時だってそうだ)橋下左内の心の声が思わず激しくなった。
(正直に告白すればよいというものではない。いくさの続いた荒々しい時代ならともかく、いまの世の中、もみ消しにどれほどの手間と金を要するか、少しでも考えたことがあるのか)
薄暗い部屋に、香のような香りがただよっていた。甘く、生々しい。それをかぎながら、橋本左内は話を止められなくなっていた。
「わしは、誤りだらけの人生を送ってきた。このごろなぜか、それが思い出されてならない。取り戻すことはできないにしても、せめて……」
しばらくの間、左内はさまざな過去の後悔を語りつづけた。
おれはなぜ、こんな愚痴を口にしているのだろう、ただの、ただの……。
「ご用人様」あきが言った。「いくら悔やんでも、元には戻れないなどとお思いではありませぬか」
「どういうことだ」
「少しではありますが、気の晴れるやりかたもございます。まず」
「まず?」
「わたくしに、お話になりませ。そして」
「そして……」
「こちらへ」
ふいに寝所へでも誘われたのかと思い、左内は腹の中が熱くなった。
「わしは、もう歳だ、いかん」
「いかん?」
「いや、構わぬかな。それで、なにを話せばいい」
ふらふらと、左内は部屋の隅の薄暗がりへと歩いて行った。
「そうですね。そろそろめんどくさくなってきたので単刀直入に」
そう言って、あきは一歩左内へ近づいた。
「あなたは、あの外道の大名と、日和見の旗本を連れて、ひどいことを重ねた。すこうし、それをお話になりませ」
「ひどいこと……」
おれは混乱している。左内は頭が十全に動かないのを感じていた。
目をあたりに漂わせていて、部屋の隅のなにか白いものが目に入った。
いや、白いのは顔だ。
「…おんな?」
若くてほっそりした、夜目にもはっきり冴え冴えとした美貌のわかる女が一人、足を崩してすわっていた。体に丸みはとぼしいが、すっきりして美しい。
泣いている。
「どうして、泣いているのだ」
「それは、それは……」
「どうしてだ」思わず左内は、女の前に腰をかがめた。女はうつむき、顔を隠した。執務室になぜ玄人風の美女がいるかとの疑問は、思い浮かばなかった。
「ああ、そういえば」左内はもらした。
「主らが、取り憑かれたように通われた、色がおった。陰間なら何人も相手にしていたようだが、ひとり別格に美しいのがいて、若殿たちは夢中になった」
「そして」
「そして、おれは行って足蹴にした。まこと女のような男。そこまでする必要はなかったが、ご存命だった前の殿に激しく叱責されたのだ。なぜ若をしっかり見ておかなかったと。ひどい話だ。そしてそのあと、色にはなんども会った。しかしそのたびにひどい言葉を投げかけた。おれもひどいやつだ。許してはもらえないだろうか。たしかあれは……」
「あれは?」
「み、三木乃丞」
女がこっちを見た。顔には目鼻がなく牙の生えた真っ赤な口だけがあった。
「ひっ」思わず後ずさった左内に、すぐ後ろから声した。
「よくぞ覚えていた」そしてものすごい力で腕を引かれ、彼は畳に崩れた。
「うわっ」
振り返ると生臭い匂いがした。彼の目の前には牙の生えた真っ赤な口が開いていた。薄暗い部屋なのに、その赤ははっきりと見えた。
それを覗き込んだ左内は、
(地獄への門のようだ)と感じた。同時に、(あの日に戻る入り口)とも感じた。あの日というのが、わからない。どこかで見たはずだが、思い出せない。しかし、これからどこかに行くことだけは、わかっていた。
真っ赤な口は言った。
「おまえの後悔に免じて、心を踊り食いにしてやろう。これほどの誉れ、おまえだけだ」
声にならない悲鳴を、左内はあげた。ほんの微かな快感とともに。
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