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第十九話 番外編 妖怪の準備・鼠
「ならば、これはどうかしら」
そう言って 真喜は絹裂を縫った袋を取り出した。
「あやっ」
頓狂な声を上げて、鼻をひくひくさせたのは掌にあまるほどのネズミである。艶々した真っ黒な毛並みに、額のあたりに銀色の毛が太い筋を描いている。
袋のまわりをネズミが動き回っている間、真喜は、最初に見せていた木箱を取り上げた。
「やはりこれじゃ、ぎんには大きすぎたかしら。茶壷を入れる箱なの」
「びろうどの内張がしてあって立派なのはわかるけど」ぎんと呼ばれた大ネズミは言った。
「それだったら首桶を持ってるみたい。目立って仕方ないわよ」
「そうねえ。持つのはおそらく、わたくしか、えんという女なのだけど」
「なに?力持ちのひとなの」
「ちがうの。力が強いのはいいけれど、そそっかしくて、しょっちゅう失せ物をするの。あなたを入れたまま、どこかへ置いてきそうよ」
しかしぎんは、引き寄せられるように袋に鼻面を差しこみ、感に堪えないように言った。
「この袋、ほんとうにいい香りがするわあ。さすがお大名の持ち物ね」
「ええ、もともとお香炊きのお道具入れだったのを、縫い直したの。それなら抱えていてもおかしくないかしら。でも、ただの布だし、ぶつけたりしたら痛いのじゃないかと思って」
「構わない、構わない。あたし、出たり入ったりするつもりだから。とりあえず人の多いところで隠れられたらいいの」
「そう、じゃあこれにしましょう。でも、楽しみだわ」
「そうよね、あたしももう滅法楽しみ。あにきはもっと真面目にやれって怒るかもしれないけど……」
「だって、紅葉狩りなんだものー」と、一人と一匹は仲良く声を合わせた。
「奥方様」ふすまの向こうから声がした。
「なにかございましたか。それとも、茶などお持ちいたしましょうか」
「いいえ、結構。ただの独りごとですから、気にせずとも構いませぬ」
「はい」
ぎんの方を向いて、真喜は肩をすくめた。
もう一度、ぎんは袋に寄り添ってささやいた。
「こんな袋に入ってたら、あたしだっていい香りがしてきそうよ。でも、お姫さま」
「なあに」
「あたし、変なにおいしない?なんせ、ねず公だから」
「いいえ、ぜんぜん。むしろあなたからは、いつも花のような香りがします。よほどいつもみなりに気を使っているのね」
「え、ほんとう」ぎんは嬉しそうな声を出した。
「あたし、湯あみだけは欠かさないようにしてるの。あと、あまりどぶには近づかない」
「そうでしょうとも。毛並みも美しく、目もつぶら。けど、殿方が声をかけてこないのもわかります」
「え、その言葉は、気になるな」
「あなたが、あまりに身綺麗にしているから。ほら、他の皆さんはあまりみなりに構わないでしょう。高嶺の花のように思えているのではないかしら。あなたの優美な姿は、このあたりのお仲間とは、比べものにならないもの」
やだーっおせじでもうれしーと言ってぎんはかぶりをふった。
「でもあたし」黒々とした目を持った旧鼠は、くびを軽く傾げた。「ちょっとは世間に合わせた方がいいのかなって迷ってるの」
「ふむふむ。俗をにくむことすくなしということかしら」
「だって、このまえ御前をたずねてきた馬鹿猫がいてね、あたしをじろっと見て、『気取りやがって』ってぼそっと言ったの。ちゃんと聞こえましたよ、失礼な。でも、ご同朋もそう思ってるのかなーって。嫌われるのはイヤでしょ」
「そうですね。ただ、そんな相手に無理に合わせるというのも考えものです。結局のところ、御前様はそんな輩と付き合うのを嫌い、あなた方と起居をともにされてるわけでしょう」
「そうよね」ぎんは考え込んだ。「たぶん、そいつが嫌がったのは、例の油の香りと艶だと思う。化けネズミからこんな香りがしたら、食べる気にならないんじゃないかしら。あたし、この前お姫様が下さったあの油、大切につけさせていただいてるんだ。とっても気に入ってる。たしかに、間抜けどものために、いい香りをやめるのも悔しいな」
「そう、うれしいわ。あれは殿にいただいたものなの。長崎から取り寄せて下さったのよ」
「きゃっ、やっぱり。でも、そんなのあたしみたいなねず公がつけてちゃ不味くない?」
「いいえ、無事お戻りになられたら、あなたをご紹介申し上げようと思っています。ふたりとも同じ香りがすれば、きっと嘘偽りなく仲が良いとわかってくださるわ」
「いやー、緊張しちゃうな。でも馬鹿兄貴、ちゃんとお役に立ってるんだろうな」
「兄上にはご苦労をおかけします。けど、たしか御前様もわざわざご同行を」
「そうなの。長持ちに潜んで行ってしまわれたわ。まあ、いいんじゃないの?殿さまにはたいそう恩を感じておいでのようだし、それに目茶苦茶強い方だから」
「まあ、そんなにお強いの」真喜は驚いた顔になった。「仁徳はお持ちとは存じていますが」
「ええ、はっきり言って侍の五人や十人、どうってことない方よ。殿さまにはちゃんと、強い奥詰がついているんでしょうが、なにせよくわかんないことだらけの相手だし。強い妖が近くに控えていれば、むやみと手を出したりしないはず」
「ええ。そうであって欲しい」
「しかし、あと一年?二年?一緒になって間無しではなればなれって、お大名って辛いわね」
それを聞き、真喜がぐっと歯を噛み締めたので、
「あ、ごめんごめん、悪いこと言っちゃった」ぎんはおろおろした。
「なんとかしてさ、魂を飛ばして大切な相手に近づけるって例の術、習ってくるから。ちょっと待ってよ。ほら、師匠が気難しいばあちゃんでしょ、なかなかなのよ」
「いえ、このぐらいどうってことはありません。それにお戻りの頃には、わたしの骨と皮だけの体も少しは肉がついているはず。そうすれば物の役にも立てます」
「それであんなにご飯食べてるの」ぎんは呆れ声になった。「だめよ、やりすぎは。ばかね。もどしちゃってるじゃない」
「そうかしら」
「そうよ、それに戻ったら新妻が相撲取りみたいになってたってのも、つらいわよ。わしの楚々とした妻はどこ行ったって、殿さま泣いちゃうよ」
ついに真喜は声を上げて笑い出した。
「奥方様」また声がかかった。
「いえ、なんでもない」
一人と一匹はまた互いに顔を見合わせ、肩をすくめあった。
「それで、お殿様には御前と兄貴、お姫様にはあたしがついてるからね。心配ないからね。だってあたし、術はけっこう得意だから」
それを聞いて真喜はなんどもうなずいた。
「ほんとうに、頼りになります。ぎんがいてくれて、うれしい。でも、無理をしてはよくないですよ。あなたにはあなたの暮らしがある」
「なあに、まかして。あたし、喜んでやってるんだから。おまけにお姫さまと一緒に御成御殿で紅葉狩りなんて、嬉しくて仕方ない。声をかけてもらって、本当にありがたいわ。だけど」ぎんは、わざとひやかすように言った。
「姫さまはあの井戸が気になるんでしょ」
「……はい」
「いやねえ。ただの陰気で恨みっぽい女の幽霊よ。会ったらがっかりするって」
「だって……」
もじもじする真喜を見上げて、
「だめだこりゃ」と、ぎんは繰り返し首を横にふった。
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