第十九話 番外編 妖怪の準備・鼠

1/1
前へ
/34ページ
次へ

第十九話 番外編 妖怪の準備・鼠

「ならば、これはどうかしら」  そう言って 真喜は絹裂を縫った袋を取り出した。 「あやっ」  頓狂な声を上げて、鼻をひくひくさせたのは掌にあまるほどのネズミである。艶々した真っ黒な毛並みに、額のあたりに銀色の毛が太い筋を描いている。  袋のまわりをネズミが動き回っている間、真喜は、最初に見せていた木箱を取り上げた。 「やはりこれじゃ、ぎんには大きすぎたかしら。茶壷を入れる箱なの」 「びろうどの内張がしてあって立派なのはわかるけど」ぎんと呼ばれた大ネズミは言った。 「それだったら首桶を持ってるみたい。目立って仕方ないわよ」 「そうねえ。持つのはおそらく、わたくしか、えんという女なのだけど」 「なに?力持ちのひとなの」 「ちがうの。力が強いのはいいけれど、そそっかしくて、しょっちゅう失せ物をするの。あなたを入れたまま、どこかへ置いてきそうよ」  しかしぎんは、引き寄せられるように袋に鼻面を差しこみ、感に堪えないように言った。 「この袋、ほんとうにいい香りがするわあ。さすがお大名の持ち物ね」 「ええ、もともとお香炊きのお道具入れだったのを、縫い直したの。それなら抱えていてもおかしくないかしら。でも、ただの布だし、ぶつけたりしたら痛いのじゃないかと思って」 「構わない、構わない。あたし、出たり入ったりするつもりだから。とりあえず人の多いところで隠れられたらいいの」 「そう、じゃあこれにしましょう。でも、楽しみだわ」 「そうよね、あたしももう滅法楽しみ。あにきはもっと真面目にやれって怒るかもしれないけど……」 「だって、紅葉狩りなんだものー」と、一人と一匹は仲良く声を合わせた。 「奥方様」ふすまの向こうから声がした。 「なにかございましたか。それとも、茶などお持ちいたしましょうか」 「いいえ、結構。ただの独りごとですから、気にせずとも構いませぬ」 「はい」  ぎんの方を向いて、真喜は肩をすくめた。  もう一度、ぎんは袋に寄り添ってささやいた。 「こんな袋に入ってたら、あたしだっていい香りがしてきそうよ。でも、お姫さま」 「なあに」 「あたし、変なにおいしない?なんせ、ねず公だから」 「いいえ、ぜんぜん。むしろあなたからは、いつも花のような香りがします。よほどいつもみなりに気を使っているのね」 「え、ほんとう」ぎんは嬉しそうな声を出した。 「あたし、湯あみだけは欠かさないようにしてるの。あと、あまりどぶには近づかない」 「そうでしょうとも。毛並みも美しく、目もつぶら。けど、殿方が声をかけてこないのもわかります」 「え、その言葉は、気になるな」 「あなたが、あまりに身綺麗にしているから。ほら、他の皆さんはあまりみなりに構わないでしょう。高嶺の花のように思えているのではないかしら。あなたの優美な姿は、このあたりのお仲間とは、比べものにならないもの」  やだーっおせじでもうれしーと言ってぎんはかぶりをふった。 「でもあたし」黒々とした目を持った旧鼠は、くびを軽く傾げた。「ちょっとは世間に合わせた方がいいのかなって迷ってるの」 「ふむふむ。俗をにくむことすくなしということかしら」 「だって、このまえ御前をたずねてきた馬鹿猫がいてね、あたしをじろっと見て、『気取りやがって』ってぼそっと言ったの。ちゃんと聞こえましたよ、失礼な。でも、ご同朋もそう思ってるのかなーって。嫌われるのはイヤでしょ」 「そうですね。ただ、そんな相手に無理に合わせるというのも考えものです。結局のところ、御前様はそんな輩と付き合うのを嫌い、あなた方と起居をともにされてるわけでしょう」 「そうよね」ぎんは考え込んだ。「たぶん、そいつが嫌がったのは、例の油の香りと艶だと思う。化けネズミからこんな香りがしたら、食べる気にならないんじゃないかしら。あたし、この前お姫様が下さったあの油、大切につけさせていただいてるんだ。とっても気に入ってる。たしかに、間抜けどものために、いい香りをやめるのも悔しいな」 「そう、うれしいわ。あれは殿にいただいたものなの。長崎から取り寄せて下さったのよ」 「きゃっ、やっぱり。でも、そんなのあたしみたいなねず公がつけてちゃ不味くない?」 「いいえ、無事お戻りになられたら、あなたをご紹介申し上げようと思っています。ふたりとも同じ香りがすれば、きっと嘘偽りなく仲が良いとわかってくださるわ」 「いやー、緊張しちゃうな。でも馬鹿兄貴、ちゃんとお役に立ってるんだろうな」 「兄上にはご苦労をおかけします。けど、たしか御前様もわざわざご同行を」 「そうなの。長持ちに潜んで行ってしまわれたわ。まあ、いいんじゃないの?殿さまにはたいそう恩を感じておいでのようだし、それに目茶苦茶強い方だから」 「まあ、そんなにお強いの」真喜は驚いた顔になった。「仁徳はお持ちとは存じていますが」 「ええ、はっきり言って侍の五人や十人、どうってことない方よ。殿さまにはちゃんと、強い奥詰がついているんでしょうが、なにせよくわかんないことだらけの相手だし。強い妖が近くに控えていれば、むやみと手を出したりしないはず」 「ええ。そうであって欲しい」 「しかし、あと一年?二年?一緒になって間無しではなればなれって、お大名って辛いわね」  それを聞き、真喜がぐっと歯を噛み締めたので、 「あ、ごめんごめん、悪いこと言っちゃった」ぎんはおろおろした。 「なんとかしてさ、魂を飛ばして大切な相手に近づけるって例の術、習ってくるから。ちょっと待ってよ。ほら、師匠が気難しいばあちゃんでしょ、なかなかなのよ」 「いえ、このぐらいどうってことはありません。それにお戻りの頃には、わたしの骨と皮だけの体も少しは肉がついているはず。そうすれば物の役にも立てます」 「それであんなにご飯食べてるの」ぎんは呆れ声になった。「だめよ、やりすぎは。ばかね。もどしちゃってるじゃない」 「そうかしら」 「そうよ、それに戻ったら新妻が相撲取りみたいになってたってのも、つらいわよ。わしの楚々とした妻はどこ行ったって、殿さま泣いちゃうよ」  ついに真喜は声を上げて笑い出した。 「奥方様」また声がかかった。 「いえ、なんでもない」  一人と一匹はまた互いに顔を見合わせ、肩をすくめあった。 「それで、お殿様には御前と兄貴、お姫様にはあたしがついてるからね。心配ないからね。だってあたし、術はけっこう得意だから」  それを聞いて真喜はなんどもうなずいた。 「ほんとうに、頼りになります。ぎんがいてくれて、うれしい。でも、無理をしてはよくないですよ。あなたにはあなたの暮らしがある」 「なあに、まかして。あたし、喜んでやってるんだから。おまけにお姫さまと一緒に御成御殿で紅葉狩りなんて、嬉しくて仕方ない。声をかけてもらって、本当にありがたいわ。だけど」ぎんは、わざとひやかすように言った。 「姫さまはあの井戸が気になるんでしょ」 「……はい」 「いやねえ。ただの陰気で恨みっぽい女の幽霊よ。会ったらがっかりするって」 「だって……」  もじもじする真喜を見上げて、 「だめだこりゃ」と、ぎんは繰り返し首を横にふった。
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!

17人が本棚に入れています
本棚に追加