17人が本棚に入れています
本棚に追加
第二話の② 落とし穴を飛び越えろ!後編
「やれやれ。草深い鵠山などに行かずにすんだのは助かった」
江戸は芝にあった生国、有島藩の中屋敷にいて偶然耳にした家臣らのことばを虎之介はよく覚えていた。
本来なら、彼が国を移る際には近習のだれかが扈従して国を移るべきところ、鵠山側が丁重に断りを入れたとされていた。
「田舎者は、よそ者を恐れるからな」とも言っていたが、気心が知れてから鵠山側に聞いたところでは、あんな無責任な連中がきても百害あって一利なし、来る気も薄そうなのでこっちから先に断ってしまえ、と早い段階で方針が決まっていたそうだった。
ともかく、故郷有島の家臣たちは虎之介を舐め切っていた。
声をろくにひそめもせず、虎之介の縁談が決まってもまだ、江戸屋敷の中で堂々と相手の国の陰口を言い募った。
「北の厄介様は、例えようもない田舎に婿入りか」
「おう。夏暑く冬寒く、土は痩せて人より狐狸が似つかわしい所だ」
「では、あの金もよくよく確かめないとな。葉っぱに戻っているやもしれん」
むろん、その家臣どもが鵠山を見たことはない。だいいち、自慢できるほど自分たちの国は開けておらず、むしろ貧しく不便なのは承知しているはずだった。よほど妬ましかったのだろうか。
「あの金」というのは、婿入りに付随する支度金のことだ。
緊縮財政の続く有島の国庫にとって、お荷物たる末子を引き取ってくれるばかりか多額の金子まで都合してくれるこの縁談は、干天の慈雨に等しいはずだった。
なのに、少しのありがたみも感じられないのは、一刻も国に止まらず借金のカタとして右から左へ消えるためだろう。
それにしても、故国で受けていた扱いをなにげなく鵠山で話すと、誰もが驚くより冗談だと思ってしまう。
御曹司の足袋や寝間着が洗いざらしのつぎあてとは、質素な国柄にしてもまさかと信じてもらえなかった。
兵部を見知ったのは、まだ藩主息女の婿候補にすぎなかった時のことだ。
常に怒っているようなその顔を、怖いと感じて記憶に残ったのだが、それは仮にも藩主の弟に対するあまりの気遣いのなさに、彼が義憤を感じていたのが真相だったようだ。
青波にまたがったまま、虎之介は身なりを見直した。
朝から山道を行進したことによってうっすら土ぼこりはかぶっていても、どれも兵具役や納戸役から用人衆、そして真喜までが意見を寄せ合い、この日のために選び抜いた品ばかりだった。
いずれも手が込んだ作りなのに、軽くて着心地がよい。相次いだ不幸と質実をむねとする家風のため、「華美を控えやや粗放に」した聞かされた。要は若く溌剌とした虎之介に合わせ、ちまちました柄や刺繍などは選ばなかったということらしい。
馬の歩みに合わせて、真新しい拵えの太刀が腰でゆれている。
彼にとって気になるのは、やはりこちらのほうだ。そっと柄に手をやる。
今日、ようやくたずさえることのできた佩刀は、将軍家へのお目見えに奔走してくれた支藩の藩主から、
「ぜひ、これを腰に国に入られよ」と贈られた。無銘ながら三池典太と伝わる太刀だ。「かの地は古くから河童や一つ目が名物だが、これなら泡を食って逃げ出しましょう」とのことだった。
大名の息子として生まれた身であっても、虎之介が名刀と呼ばれるものを所持するのは生まれてはじめてだった。
なるほど刀身は幅が広く華やかで、よく切れそうに見えた。一度ぐらい試し斬りをしても怒られないとは思うが、まだ持つだけでも緊張する。
体温が伝わったのか、触れるとほんのり暖かく感じた。
樹々の合間から厳しい顔つきの男が行列と対峙していた。さっきの禿頭の男だ。
気力を奮い起こして近づき、なんとか新城主と思しき姿を確かめた。背筋を伸ばし、見事な馬にまたがっていた。間違いない。こんな場合、なりの大きいのは便利だ。奴だけが列から飛び出して見える。
ただ、でっぷり肥えているの噂とはまるで異なり、五体は引き締まっていた。案外鍛えてあるのかも知れない。
もう一度しっかり見ようと、男は目を激しく瞬かせた。強行接近して以来、目の焦点が本格的に合わなくなってきた。当然ながら目が潰れるほど高貴な存在とは思わない。ただうすらでかいだけの小僧だ。うかつにも土埃が入ってしまったのかも知れぬ。
ごしごし目を擦りながら、「ふん。隙だらけではないか」と、声に出して馬鹿にする。大勢の家臣はいても、だれ一人本気で襲撃など警戒していまい。行列をきれいに保つのにばかり執心し周囲を探る気配がまるでない。
平和ボケを鼻で嗤おうとした男は、「うっ」と声をあげると、今度は手で胸を押さえた。黄色い液体が口から漏れた。原因はわからないが、彼の肉体はすでに意志を完全に裏切りつつあった。
焦りはあっても、恐怖はない。人間味は数ヶ月前から無くしてしまった。
----- かくなるうえは。
このまま犬たちと行列に突っ込んでやってもいい。城の手前には仲間たちが奴への罠を用意しているようだが、主人なら彼の行動をきっと理解してくれよう。
禿頭の男の頬にやっと会心の笑みが浮かんだ。
「さあ、小僧、ここで俺の手にかかれ」
そういいつつ特大の鎌をつかみなおし、ぎらりと光る刃を目の高さまで持ち上げた、つもりだった。
さらに男は、行列との距離をつめようとしたが、結局どちらも果たせなかった。
数歩歩いたところで完全に膝がくずれた。近づきすぎたのだが、もはや彼には理解できなかった。ついには糸の切れた操り人形のように横倒しになる。近くにいた犬たちの息遣いもいつの間にか聞こえなくなった。
「なぜだ」と男は力なくつぶやいた。それが最後の言葉だった。そして忠実な犬たちともども、二度と動くことはなかった。
茂みの向こうの出来事に気づかないまま、馬上の虎之介はふたたび故郷の国について考えていた。
地理的に交通の要衝であったのが唯一の特徴であり、城がなくて陣屋だけなのはもとより名所やめぼしい産物はなく、伝来の名物・名刀もない。まさにないないづくしであり、末弟にかける別れの言葉すらなかったほどだ。
それが婿入りしたら、とたんに銘品づくしといえば語弊はあるが、一挙に目に入り、手に触れる物の質が変わった。
江戸城に参内の際、礼法や口上より、もっとひやひやさせられるのは、彼より官位も国の格もずっと下になった父や兄が、どこかでにらんではいまいか、ということだった。
当たり前だが、父や兄とは着ている装束はもとより、通される部屋、受ける待遇もまったく違う。
当初、城中では人形のようにぎくしゃくとしか動けなかった虎之介を、いわゆる御坊主衆はとても優しく導いてくれた。
「いじめられはしないか」と肩に力の入っていた彼は、拍子抜けしたものだったが、これは神経の行き届いた付け届けのせいもあるのだろう。少なくとも、これほど丁重な扱いは、父や兄は経験がないはずだ。
それだけでも恨まれているのに、とどめに弟が伝説の降魔の利剣を伴う姿でも目に止めようものなら、たとえろくにこちらの顔を覚えていなくとも嫉妬で兄は気がふれるかもしれない。
三池典太の太刀は江戸屋敷に届けられたあと、縁起物でもあるため、しばらく祭壇を設けて飾ってあった。
兄のことはさておき、もし真喜が見たら絶対に霊力の実験をしそうだと踏んでいたが、現物を前にした妻の態度は、意外にあっさりしていた。感想も、「思ったより拵が地味に感じました」と評しただけだった。
あとで考えると、こんな名刀が虎之介のもとへ来たこと自体、妻の意思が働いた証拠である。もののけに縁のある刀なんて、どう考えても真喜好みではないか。おそらく彼女と、後ろ盾である明信院が暗躍したのであろう。
妻への想いにとらわれていた虎之介は、目の前に広がる光景にやっと気がつき、思わず嘆声をあげた。馬を曳く松蔵が驚いて振りかえった。
四層の天守閣を中心に、大きく羽根を伸ばしたように街がひらけている。
日の光に、城下町全体がまばゆく光って見えた。
それに、山上から垣間みた際には城とその背後がやや黄色くけぶって感じたのが、一行が近づくにつれ潮が引くように鮮明になり、白い城郭が目に焼き付いた。
「おお、まるで霧が晴れるようだ」
「もしや、邪気が去ったのかもしれん。来年こそ良い年となるぞ」
私語を禁じられたはずの行進中の列の中からも、次々と感嘆の声があがった。
(すると、気のせいではなかった)不思議な現象は、しばらく虎之介の脳裏に残った。
里に下っていくにつれ、道には行列にひざまずく人の姿が増えた。
虎之介はおとがいを引きつつ、笠の内からどんな様子かをのぞき見た。
沿道の人々もまた、いったんは頭を伏せながらも、そっと新しい藩主の姿を目にしようと、姿勢をいろいろ試していた。
(おあいこだ)
ふと、言葉にあらわしがたい感情がわいてくるのに気づいた。地蔵に向かうように小さな童が手を合わせているのを目に留めたせいかもしれない。
飛び降りて菓子でもやりたかったが、余計な振る舞いはするなと釘をさされているので我慢した。
家々の並ぶところまできて、その間の道を進んでいると、人々はさらに増えた。どこからか波のような歓声がひびき、ささやき声も聞こえてくる。
馬上にいるとかえって耳に届きやすいようだ。
「前のお方より若いのに押し出しはええな」
褒め言葉が聞こえてすぐ、
「見た目は立派でも、肝心の中身はどうじゃ」
「いらぬ触れ書き、せぬといいな」
という声が耳まで届き、おもわず鞍からずれ落ちそうになる。
悔しいので、声のした方向に首をかえし、軽くうなずいてみせた。
小さくどよめきが起きた気がしたが、虎之介はすまし顔のまま、馬に身をまかせた。
平らになった道を進み、商家の点在するあたりへと行列は入ってゆく。一挙に沿道に人が増えた。前方に小さな川があり、幅のわりに立派な橋がかかっている。その周囲には、あふれんばかりに人がいる。
供頭から短く声がかかった。
「殿、あれを」
「うむ」
町民達はその川から城の外堀に至るまでを掘ノ外と呼んでいた。城下町の中核にあたり、商家も職人もそこに居を構えるのは橋の手前に住むよりも格上とされていた。橋の向こうには緞帳が張られ、紋付姿の男たちがずらりと控えていた。大商人からなる町名主たちが挨拶に出ているのだった。
藩祖の例にちなんで、橋の先で一旦止まって、用意された酒肴に軽く口をつけることになっていた。入城までの最後の山場が、ここだった。
―――― あれ。妙だな。
さっきの太刀に続いて、こんどは胸元がほんのりと温かいのに気がついた。国入りのために真喜の持たせてくれた守り刀を、今日は袋に入れて胸にさげていた。それが、うっすら熱を発しているように思えた。
(おれが風邪でもひいたのかな?)
緊張のせいだろうか。疑問をもったままの虎之介を乗せた青波は、硬質な足音をたてつつ、湾曲した橋を一歩一歩渡ってゆく。
「どうした」
中ほどまできて、青波が脚をつっぱって止まった。
そして、これ以上前に進むのを拒否するかのように首をふり、手綱を持った松蔵に抗う。経験豊富な彼にも、すぐには理由がわからないようであった。
「いかがなされましたか」異変に気付いた周囲の武士たちの声が終わらぬうちに、なにかが引きちぎれるような、嫌な音がした。
急に目の前の橋板がごっそりと、抜けるように川に落ちた。
小さく悲鳴がして、ちょうどそのあたりにいた供が三、四人ほどと、とっさに手綱を離した松蔵の姿が見えなくなった。水しぶきがあがり、あとは大きく口をあけたように空洞のできた橋が残った。
「とのっ」
「慌てるな」
「止まれっ」
声が重なり、行列が乱れる。
青波の後ろから付き従う行列がたたらを踏んだ。
とっさに虎之介は状況を把握し対策を検討する。
足下に残った橋板も、続いて落ちるかも知れない。大勢いる沿道の人々も近づいてこようとしてい、さらなる危険が迫りつつある。しかし後ずさりだけはなんとしても避けたい。しかし穴は大きい。避けて通るのはまず無理だ。しかしすぐ後ろから人の塊が押し寄せてきた。しかし彼らは、主君を押し退けられない。
彼らの混乱と転倒を回避するための、最大の障害物は自分だ。
前に出るべし。
顔を上げると、穴の長さは正味四尺四寸ばかりと彼は判断した。落ちずにすんだ供たちは、橋の残った部分に爪先立ちになって分かれ、無事橋を降りたところだった。目の前には、大きな空洞。後方からは乱れた人の気配が押し寄せてくる。
虎之介は、すぐ鐙に足を掛け直し青波にささやいた。
「飛べるか」
言葉を理解したのか、馬は自ら頭をあげた。後ろ足にぐっと力が入ったのがわかる。ほんとうに賢い馬だ。
「よし、いけ」声とともに、青波は前方に残ったわずかな橋板を蹴って加速して、跳んだ。
人馬は美しい姿を宙に描き、ぽっかり開いた穴を飛び越した。
「ほおっ」
思わず周囲の漏らした声に重なり、蹄が激しく木を叩く音がした。
青波は無事、穴の向こう側に着地した。そして、橋を降りてすぐのところで小さく輪を描きながら、虎之介は声を張り上げた。
「大事ない。進むのはしばし待て。それより無事な者は落ちた朋輩を助けよ」
予期せず目にした新城主の凛々しい姿に、武士も町民も言葉にならない歓声をどっとあげ、あらたな動きをはじめた。
行列が落ち着くと、身分のある武士たちが一斉に馬上の主君に近寄り安全を確かめた。次いで様子を見ていた町人たちが賑やかに橋を取り囲みはじめる。
供の一人、二十歳になったばかりの深田新八は、かろうじて水中から立ち上がった。
川は思ったより深く、ずぶぬれになった。両刀は失わず足も無事だったが、これでは行列に再び加わることはできない。情けない気分で川縁を探して近づくと、
「無事か」張りのある声がして、手が差し出された。
無意識にそれを掴もうとして、指がずいぶん白いのに不審をいだき、仰ぎ見た。
若々しい顔が笑っていた。
―――― こんないい男、家中にいたかな……。そう思うと同時に、どこかであった気がしてならない。
「お前のおかげで、馬ごと川に落ちずにすんだ。礼を言うぞ」
虎之介の顔を見たまま、新八はあんぐり口をあけて立ちすくんだ。
川岸から、
「ばか、新八」という声が聞こえる前に、新八はもう一度川に膝をついて平伏した。袴も髷もぐしゃぐしゃになった。
「申し訳ございませぬ」とにかく、謝った。
「謝ることはない。面をあげよ」
その横から朋輩たちがわらわらと近寄り、新八を引き上げてくれた。
また声がかかった。
「怪我はないか」
「ははっ、ございませぬ」
虎之介は駆け寄った供頭に、
「あの者の着物をそっくり替えてやれ。風邪などひかぬようにな」と命じた。そして、
「すまぬが、先に行く。あわてず着替えてから参れ。城で会おう」
笑顔で声をかけると馬にまたがり、薫風のようにさわやかに行ってしまった。
陸にあがった新八は、魂を抜かれたようにその姿を見送った。
「思ったより、気さくな方だったなあ」
「馬はなかなか上手でおられるな」
「早く行かんか!」
「へへっ」
供頭の叱責も、中間たちの軽口も聞こえないかのように、新八は無表情でぼんやり突っ立ったままだった。
最初のコメントを投稿しよう!