第三話 暗躍する怪僧

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第三話 暗躍する怪僧

 堀を大きく横切り、城門へとさしかかるところに、城で待っていた重職たちの出迎えがあった。  虎之介の胸に、あらためて緊張が高まってゆく。  (ついに、きた)  外堀から内堀へとすすむ道々、さも腹の座った男のふりをして、うなじに力を入れ城を見上げないよう気を付けていた。そのせいか首が痛い。  あくまで自然な態度を続けようと心がけてはいても、知らず知らず動悸が高まっていく。眼前に畏っている故国とは比べものにならない家臣の数に、目がくらみそうになる。    この出迎え方法も藩の故事にそっている。虎之介はただ馬とともに前に進むだけなのに、周りの者たちは挨拶したり意味のない口上をとなえたり書状を交わしたり、忙しく動いている。  どうにも現実味が感じられず、子供のころこっそりとのぞいた田舎芝居の裏方を思い出した。  舞台の正面では主役がただ一人、ゆったりした動作で観客の注目を浴びていた。なのに裏に回ると少なくない人間がはいつくばったり、衣装を直したりと忙しそうに立ち働いていた。しかし、どこか楽しそうにも見えた。 (そういえば、子供のころなりたかったのは、芝居の裏方だった)と思い出した。 (そうか、今日のおれは、役者なんだ)    ふいに彼の耳が、どこからかかすかに流れる鼓の音をとらえた。  とぎれとぎれに聞こえる軽快な音は、虎之介の口元に自然と微笑みを浮かべさせた。  音は城下から伝わっていた。理由はわかっている。新城主が無事に着き、ようやく気持ちよく騒げる機会が到来したのを人びとが喜び、鐘や鼓をたたいているのだった。  –––– この鵠山城は大きな舞台のひとつ。そして入城は、領地にあるすべての存在に向けての芝居なのだ。    ようやく少しだけ、虎之介の心に今この瞬間を楽しもうという気持ちが生まれた。  (上手くやろうと悩むなんて、小さい、小さい)そう虎之介は考えた。  (おれはこの国の天と地に用意された役者なのだ。自分の思うままには動けないが、せめて堂々と演じよう。そして、後は野となれ山となれ)    虎口にさしかかると、いったん行列はとまった。  そこでも初代の城入りにならい、家老の筆頭である内田頼母が前に進み出、扇を差し上げた。  虎之介は落ち着いた表情を浮かべうなずいた。そして、一斉に家臣たちが閧の声をあげるのを受けた。内田が小さく何度もうなずいている。  勇ましい雰囲気に身を浸しながら虎之介は、内田の求めに応じて馬をゆったり動かし、集まった家臣たちを見回した。これも初代のしたことだ。また、鬨の声があがった。  兵部の顔がちらっと視野に入った。いつも白い彼の頬が赤くなっていた。  高みからなので、堀の向こうに領民たちが鈴なりになって、こっちを見物しているのがわかった。公式には禁じられているのだが、あえて取り締まっていないためか、老若男女を問わず相当な人数が集まっている。  なぜか、腰の太刀がほの暖かいのを虎之介は感じた。空はここへきて、うっすらした雲におおわれてしまっていた。 「内田」虎之介がささやいた。 「はっ」 「ここで抜刀してはいかんか。集まった者たちに、この太刀を見せたい」 「うむっ」一瞬、家老は思案するようだったが、「殿、ご随意に。藩祖にもそのような例がございました。溜まっていた悪い気を払われたのです」 「そうか」 「ただ、できますれば斬るより振るように、家来どもより城に披露なさるが如くに」 「うむ」  虎之介はあぶみに足を踏ん張り、太刀をすらっと抜き放った。小さくどよめきがおこった。  彼はこちらを見ている大勢を見、そして城に目を向けてから、三池典太を高々とさしあげた。  とたんに雲がきれ、差してきた日の光が刀身をきらめかした。虎之介は太刀を頭上でぐるっと回し、しばらく空中にとどめてから納刀した。  今度は鬨ではなく、地響きのような音がした。堀の向こう側にいる人々が歓声を上げている。 「それ」内田が掛け声をかけた。  すると、家臣団も負けずに鬨をつくり、あたりはとたんに賑やかになった。 「いうまでもなく、国は武士だけのものにございませぬ」  馬をすすめる虎之介の頭に、ふいに板垣のがらがら声が思い出された。 「辛い目を民草にだけ強いるのは愚か。まして奢汰などもってのほか。上に立つ者は身を慎み、民が明日を苦に思わぬよう、心を砕き続けるのが使命。また、民の楽しみを邪魔するのも馬鹿げている。この国の武士は、おのれが先に遊び過ぎじゃ」  講じられた詩を前に、首をひねった虎之介に、板垣はそう話した。  彼は自ら願い出て、放置されたままの少年に漢籍や作法を手ほどきした。当時は怖いばかりだったのが、藩主になったあたりから彼の言葉が繰り返し思い出される。  一時は国の執政にも連なった板垣だが、その頃は第一線から離れて久しく、ただ偏屈な老人として煙たがられていた。  また、口の悪さでも知られた彼は、虎之介の人となりについて、 「山犬の仔を人に慣れさせるのと同じ根気が必要よ」と言い放ったと聞いていたし、一緒にいた間で覚えているのは竹製の鞭で打たれたことのみ。特に心が通い合った記憶もなかった。  ただ、いざ国元を離れ江戸屋敷に向かう時には、彼は悲しいほど小さな行列を国境まで見送った。  言葉はひとつもかけず、口をへの字に結んだままだった板垣は、それから一年もたたずに亡くなったと聞かされた。  その後、城内に設けられた墓所に参ってから、重臣らを従えた虎之介は本丸御殿へと案内された。  年寄衆による、かわるがわるの説明を聞きながら、装束をあらためるため居間へ移動する。  虎之介は足をとめ、暗がりにじっと目をやった。 「いかがなされました、殿」  そばにいた年寄の舟木がささやいた。 「いや、気のせいだろう」  舟木は笑った。「ねずみでも、おりましたか」 「そう、ねずみかもしれない。こちらを見ていたものが、逃げたような気がした」  廊下の奥は光が届かず、うす暗かった。 「それは、おそらく」舟木は虎之介の腰に目を向けた。「城に居座るもののけどもが、殿と御太刀を怖れ逃げたのでございましょう」  虎之介は着剣したままだった。  付き添う重職たちが一斉に笑い声を上げた。からかいや嘲る調子はなく、強いていえばようやく緊張がほぐれたという感じだった。歳を経た重職たちも彼らなりに、今日という特別な日に高揚しているのだろう。かたわらの兵部が静かにうなずいたのをきっかけに、虎之介は着替えに入った。    宵闇の迫るなか、城下町は祭りのようになっていた。  新城主の到着はむろん慶事なのだが、これまであまりにも不幸が重なったのと、城下においても先代の実子たる後継候補が死亡した事件があったため、あらかじめ歌舞音曲は控えめに、祝いの酒類も最小限にして、派手な振る舞いは自粛するよう触れが出されていた。  しかし、お触れがあいまいだったのと、虎之介が見せた思いもかけぬ活劇によって、自粛はどこかへ行ってしまった。  ––––  こんどの城主様は、先に死んだ若殿たちみたいなうらなりではない。少なくとも、ぽっくり死んだりはなさそうだ。  これが城下町のひとびとの共通の気分となった。  それに、少年君主が通り過ぎたあとは、それまで城下にあったなんとも陰気な、よどんだ気配が、どうしたことかきれいに散ってしまったように感じられる。  明るい雰囲気を後押しするように、今ごろになって町方から町名主衆に対し触れがあった。  それによると、冷え込んできたため、身体を温める酒を許す。音曲も過剰でなければ苦しからず。  おかみがそこまで言うのだったら、仕方ない。従うよりないよな。  街角に三味線の音までしはじめて、夜店の呼び込みがひときわ賑やかになった。夕闇が迫っても、ひとびとは久しぶりの明るい気分に酔っていた。    一挙に膨れ上がった騒ぎの輪を、薄暗がりからじっと睨む人影があった。  僧形で網代笠に隠れて突っ立ているその男を不審に感じ、笠の中をのぞこうとする者もいた。市中の見回りに出ている番屋の小物だった。だが、落ち窪んだ目から発する気配に押され、すごすごと逃げてしまった。 「円津さま、円津さま」ささやき声がした。  呼ばれた僧は黙ったまま、人気のない場所へ足早に移動した。 「もどったか虫丸。なにがあった」  尋ねる声は、怒り声ではなかった。低くて抑揚がない。  虫丸と呼ばれたのは小柄な童顔の、歳のさっぱり分からない男だった。 「面目次第もございません」声は、けっこう老けている。 「橋のそばにおいた結縁たちはどうした」  橋の付近に潜ませた手下について円津は聞いた。行列が接近したとたん、あらかじめ配置した彼の配下たちが相次いで連絡をたった。今回の計画のためにせっかく築いたしくみが、あっという間に機能不全に陥ってしまった。口調からは感情は読めないが、相当な怒りをため込んでいるであろうことは、わかる。 「それが、だめになりました」 「だめになっただと」 「はい。先に言いわけをさせてもらいますと、あいつら揃って急に具合が悪くなりやがった。なぜなんでしょう」 「今日はよく晴れ、日の光も強かったようだ。そのせいではないか」 「そうかもしれませんけど、どっちかってっとお殿様の行列が近づいたら萎れたって感じでしたよ」  僧は黙ってうなずき、話を続けるよう促した。 「朝から行列をずっと待ってましたが、あいつらはそろって日陰にいたんで、気にしていなかったんです。っところが、やっと近づいてきたと思ったら、元から悪い顔色がみるみる黄ばんできちまって、よその見物人から心配される始末でした。それで、あっしのそばにいた二人は最後の仕上げをする役目でしたけど、止める間も無く、ふらふらとどっかへ行ってしまいやがった」 「逃げたということか」 「なんていうか、えらく腹をこわして厠を探すような感じかな。そんなのが重なって、肝心の殿様が着いたころには、まわりに誰もおりません」  虫丸はいっそう声をひそめた。 「大勢の前でみじめに川へと落っこちてもらうはずだったのに、肝心の橋板を動かす役が消えちゃった。打ち合わせ通りだったら、あいつらが三人がかりでとりついて、拍子をはかってえいや、ってやると橋がどっすん、殿様一行はばっしゃんと水に落ちるはずでしたからね。なのに、仕組みも仕上げもなにもかもほったらかして、いなくなったんですから、どうしようもない」  擬音の多い虫丸の説明を円津は黙って聞いていた。 「仕方ないからあっし、川に潜って丸橋に取り付きました。嫌だったけど。それで、先に弥市の準備していたしくみを動かして、橋の真ん中だけでも落とそうとしたんです」  弥市というのは円津の作戦面での助手だったが、これも行方がわからなくなった。 「あっ、言っときますが、あっしひとりで殿様のお通りに合わせるのは無理でした。裏側からじゃ外は見えませんからね。さっさと逃げないとまずいし。だから、橋が全部くずれるのもなし」 「橋に穴は開いた。それはうまく行った」 「ね、そうでしょう。そのあと、馬が空を飛んだのは、あっしのせいじゃない。だれもかれも殿さんが飛んだ話ばっかりしやがって、そんなら馬で曲芸する奴を城主にしろってんだ」虫丸は円津の機嫌をとるように言ったが、彼はまた黙っていた。 「でも円津さま、これなら最初の案のまま、堀にかかった方の橋を落としたら良かったですね。大恥をかくどころか、まるで人気役者ですよ、あたらしい殿様は」 「そのあと、誰か結縁たちに会ったか」 「いいえ。探しはしましたが」彼は首を横に振った。「あ、そうだ、身でも投げたかと思って川のほとりを歩いていたら、くさいにおいの土みたいな塊があったんです。着物と草履がつっこんでありました。あれ、弥市のじゃないのかなあ。裸で逃げるとはね」    虫丸の長口舌に飽いたように僧は、急に目を閉じた。  そしてぶつぶつと呪文らしきものをつぶやいた。しばらくしてから、気味悪そうに見ていた虫丸が聞いた。 「あの、誰か行き先のわかったのはいますか。金は貸してないけど、手拭いは貸した」  僧の怪しい行為の意味は、なんとなく虫丸にもわかっているようだった。  「いや、わからぬ。まるで分からなくなった。結縁どもはすべて死んだと見るべきだろう。弥市も、月海もだ」 「月海。えっ、あの禿げもですか。それは大変だ」虫丸はうろたえた顔になった。「なんでこんなことになったのかな」 「おそらく」僧は他人事のように言った。「行列に力のある誰かがいたか、あるいは誰かがよからぬものを持ち込んだのであろう。わしもそれを目で見ることはかなわぬし、確かめることもできぬ。それにしても、こんなに強い力はかつて無い。恐るべき力だ」 「あっしはどうしたらいいんで」 「待つのだ。すぐ忙しくなる」円津は断言した。「お前にしか頼めぬこともあって、かえって仕事は増えそうだ。礼ははずむ」 「そりゃありがたいけど、六人も円津さまのご直参が死んだら、一からやり直さなくちゃ」 「もうはじまっている。あの方のご指示により別の手は打ってあり、いまこの時点でも、進みつつある。結果が出ればお前にも教える。だから待て。そしてあの者たちは忘れろ。どうせ時が経ちすぎていた」 「へい」 「もっと新しく人らしさが残っておれば、これほどの事態にはならなかったかも知れぬが仕方ない」  恐る恐る虫丸が聞いた。「やっぱり結縁衆にも、旬ってのがあるもんで」  ぎろりと円津は虫丸をにらんだが、 「そうだ」と答えた。 「今日、橋を任せていたやつらは、結縁してから長かった。だから命ぜればなんでも従ったが、すでに人でなくなっておった。弥市や月海にはまだ人のこころが残っておったが、いずれ腐って動かなくなるのは同じだ」 「うえ」虫丸が唇をゆがめた。 「しかし、わしや六兵衛は違う。こころは結縁する前と変わらぬし、死んでどうなるかは、なってみないと分からぬ」  ひどいことを聞いてしまったという顔で虫丸は黙っていた。 「そして、死ぬのは」ごく当然のように僧は続けた。「……あの方が飽いた時だ」  二人は暮れ始めた城下を歩き去った。    日がすっかり落ちると、辻々に置かれた提灯が置かれた。  はじめ肩をそびやかして膳所方から歩き出した多聞半兵衛は、城下の華やいだ雰囲気に気づき、結局は舌打ちを繰り返しながら家路をたどっていった。  急ぐ理由などない。むしろ彼が戻った途端、家の中で響いていた笑い声が止まるのは知っていた。ただ、ほかに行き先がなかった。  道の向こうからかすかに鉦の音がして、夜なのに子供の声がする。祭りの夜のようだ。 「ふん」石ころをつま先で蹴飛ばし、また歩き出す。    途中でうっかり、いつもなら通らない年寄衆のひとりの屋敷前にいるのに気づいて、また舌打ちした。  その年寄役は、歳が彼よりやや上、家格にはもともと大きく違いはなかった。だから親同士に交流があった。しかし、相手は先代藩主がまだ嫡子として江戸にいた時分に取り立てられ、それから見る間に出世して年寄衆にまでなった。  剣術の道場は同じ、腕前は多聞よりはるかに下であったその年寄は、人事に口出しできるようになると、よりによって多聞を膳所仕込み方に移した。つまり殿様たちの食事の準備が仕事だ。先代が湯治に出かける際など、足軽もしないような姿でご愛用の弁当箱を運ぶ役につけられたりしたが、のちにあの男の差し金とわかった。当時は理由がわからず、十代のうちに怒りを買っていたらしいと思い至ったのはずっと後になってからだ。 「ありがたくて、涙が出るわ」突然の怒りの発作にかられると、多聞は武術で鍛えた拳足を使って手近なものを壊した。このごろは酒が入ると、誰も近づかない。今夜はあたるものが見当たらず、やめた。  わずかだが、彼にも幸せな時期はあった。江戸詰の際に縁があり、多聞は藩主の三男と近づきになった。彼が一時、後継候補の筆頭に躍り出たときは、将来へ虹がかかったように思えた。余計な色のついていない近習がほしいのだ、できれば武芸にも通じているのが望ましい、と若様は彼に直接言ったりした。  なのに、三男は突然亡くなってしまった。そのあとすぐに次の候補も亡くなり、いつの間にかよその国から婿養子を迎えることとなっていた。 「おれは、聞いていない」言える身分じゃないのはわかっていても、愚痴るしかなかった。    今日の午後は、その憎たらしい小僧の国入りに伴い、仮祝いとして簡単な膳とわずかな酒がでた。多聞の職場も準備に関わっているが、彼は関与しなかった。張り切る同僚を横目に、意地になって決まり切った仕事だけをすませた。  それに当初は、さまざまな事情を鑑みて、総登城しての正式なお披露目は後日改めて行うと聞かされていたし、組頭たちも今日は全員が大広間に集まったわけではなかった。  それがいまになって突然、あたりがばたばたしはじめた。騒がしいなと不快に思っていると、まもなく着替えを済ませた正光公そのひとが、多聞の職場である膳所方にまで姿を現した。これから毎日世話になるのだからな、とのお言葉があったそうだった。  この不意打ちには驚かされた。    さらに多聞をうろたえさせたのは、殿様本人が予想とはかけ離れていた点だった。  想像していたような、嫌な目つきで人を見上げる矮躯の小僧だったら、その後も気持ちよく貶せただろう。  しかしやってきた新城主は、上の娘と同い年だとは聞いていたが、すでに多聞を見下ろすほど背が高かった。そして、なにが楽しいのかにこにこと周囲を見回し、賄番の老人にまで親しげに声をかけている。  すらりと背筋の伸びたその姿、気取らない笑みを浮かべた白い顔。まるで光でも放っているかのように、薄暗い部屋のそこだけが明るく見えた。  要するに多聞は、少年藩主に圧倒されてしまっていた。  彼とともにまだ見ぬ主を、「どうせうらなりのひねうり」と嗤っていた同役の相川など、すばやく態度を変えて、「まさしく威あって猛からず、生まれながらの太守でおられますな」と、少々ずれたお世辞を聞こえよがしに口にした。  そのうえ、世辞が聞こえなかったと思ったのか、相川とその同類らは城主と側を固める若造たちに接近を図り、用人に制されるまで恥ずかしげもなく追従を言い募った。  ばかめ。多聞は舌打ちしたが、自ら主の前に立つことはしなかった。  新しい城主は一回りして、身分を気にせずさまざまな担当者と言葉をかわしたかと思うと、多聞ら唖然とする人々に笑顔を残し立ち去った。  比較的年齢の若い連中は、さっきの出来事に感激の面持ちを隠さず、その後張られた小宴も機嫌よく過ごしているようだった。話の輪に加わる気もせず、多聞は下城の太鼓を聞くと、そそくさと外にでた。上役がなにか言っていたようだが、無視をした。  家の小さな門をくぐり、真っ暗なのにむっとした。 (ほらまた、あそこに行きおった)  すっかり容色の衰えた妻と三人の子供は、なにかあると町方役人の義兄一家のもとへ遊びにいく。義兄は職務柄、心づけで懐が暖かい。  今夜もどうせ、国入りに浮かれているのだろう。  急に湧いた怒りで一瞬、頭がくらついたが、呼気を入れ替え落ち着いてからわざと足を踏み鳴らし屋内に入る。 「たれかおらぬか」どうせいない。使用人も当然のように付いていったのだ。  多聞はふたたび、玄関前にやってきてぎょっとした。  男が黙然と立っていた。 「誰かと思えば五平ではないか。突っ立ったままとは、なにごとだ」  足軽身分の五平だった。膳所方に一番近い門の番を勤めているが、もともと多聞以上に不満の多い男で、たびたび事件ともいえない小さな揉め事を起こした。一度庇ってやったため、その後もやりとりがあった。    言われた五平はまるで身軽な幽霊のようにふわりと飛び上がって草履を脱ぎ、地面に膝をついた。が、多聞が意図を読みかね、とまどっているうちに、また立ち上がった。  舐めたようなその振る舞いに、かっとしかかった多聞だったが、五平の顔が魂の抜けたように腑抜けているのに気づき、叱責しそこねた。 「日暮れて、なに用だ」  五平は力なく笑い、しばらく突っ立ったままであった。そしてようやく、 「お邪魔してもよろしゅうございますか」と尋ねた。 「なんの用だと聞いておる」多聞が聞くと、また黙っている。舌打ちしてから、首でうながした。  五平はかすかにうれしそうな顔になり、そっと戸をまたぐように入ってきた。 「ありがとうございます。お許しがでませぬと」  そういえば、五平は早口の方だった。ところが、今日はやけにゆっくりだ。 「用があるなら申せ」 「はあい。さる方にお会いしまして、ぜひお前と同じ思いの人を知りたいと聞かれ、わたしはあなた様の名を出しました。 「なんだ、勝手に名を使うな」この前の後継争いで懲り懲りした。いまさら変な政争に巻き込まれるのはうんざりである。 「いえ。かのお方は、あなた様にこう尋ねよとおっしゃいました。だから聞きます」  五平は言った。 「多聞様、この国にご不満はおありで」  意外な言葉に多聞はとっさに、「ばかもの、帰れ」と叱った。  しかし五平は、「声に力がありませぬな。よろしい。つまらない今の暮らしが、そしてお役目が楽しくて仕方なくなる秘けつを、今宵は持ってまいりました」 「ざれごとを言うな」声に力がないのが、自分でもわかる。  また、戸の向こうに網代笠をかぶった怪しい影が潜んでいるのにも、気がついていた。しかしそれを警戒する気持ちがどうしてもおこらない。なにが自分に起こっているのだろう。 「これが、ざれごとでないのは、もうあなたは分かってらっしゃる」  わずかな灯りに浮かんだ五平の黒目が、やけに大きく見えた。しかし多聞は顔を背けられない。むしろ、じっと見つめてしまう。 「お手を」 「うっ」  思わず片手を差し出した多聞は、甲を抑えた。血が滲んでいる。五平の爪が傷つけたのだった。 「なにを、する」  普段なら反射的に殴り返したではずの多聞は、まだ五平の黒々とした瞳をのぞき込んでいた。 「これは、あなたがあの方に受け入れられるために、必ずせねばならないこと。そして、是非はじきーにわかります。人によって差はあっても、おそらく数日のうちに」 「それが終われば、おれは幸福になれるのか」 「もちろん。この五平のように」  ふたりはそろって、美味い酒でも酌み交わしたかのように笑った。  
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