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「……とりあえず、私の家に来ませんか? ここは夜、冷えますので」
「まあ。では、そうしようかしら」
ミハの提案に、老女は杖をついて立ち上がった。流木から削り出したような素朴な杖も、淑女の持ち物にしてはずいぶん荒々しい。
「よければ、私がおぶって行きましょうか」
「結構よ。自分の足がありますから」
親切心からの申し出は、あっさり断られた。ミハは内心ため息をつく。
ここは滅多に人が立ち入ることのない山奥だ。舗装された道などあるはずもなく、飛び出した木の根や崩れやすい落ち葉の層が足もとをすくおうと待ち構えているのに。
案の定、もと居た切り株が見えなくなる前に老女は音を上げた。
「も、もういいわ……置いていってちょうだい」
「何言ってるんですか」
ミハは背負っていた弓と矢筒を腹側に回し、老女の前に背を向けてしゃがみこんだ。
「ほら、乗ってください」
また意地をはるかと思いきや、今度は素直に寄りかかってきた。高齢者は痩せて見えても意外に重いことがあるが、この人は鳥の骨のように軽い。ミハは老女から杖を受け取ると、抱えた尻の下に回すようにして持った。
「じゃ、行きますよ」
立ち上がり、これまでより数段早い足取りで山を下り始めた。先ほどまでの抵抗は何だったのか、老女はすっかり体重を預けている。しばらくすると元気を取り戻したらしく、背中から声をかけてきた。
「あなた、力があるのねえ。猟師をしているの?」
「山裾の孤児院で、子どもたちと暮らしてます。狩りや、木こりのまねごともしてますよ」
「そうなの。女性が手に職を持っているのは良いことね」
この人は教師だったのかもしれない、ミハは思った。少なくとも、貴族の奥方の発想ではない。口調に訛りが無いから都市部の出身か。元はかなり地位の高い人だったのかもしれない。
そんな人が、最終的にこんなところに……姥捨山に行き着いたなんて。
「奥さま。自己紹介がまだでしたね。私はミハ・ペレル。あなたは?」
「わたくしは……奥さまでいいわ」
老女はつぶやくように答えた。ミハはそれ以上聞かないことにした――とりあえず、今は。
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