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ミハが老女を見つけた山は、王国の事実上の国境となっている。山の反対側には湿地帯が広がっており、そこから先は魔族の領分だ。
二十年ほど前まで、この辺りは魔族がはびこる危険地帯だった。そのため山の中にはいくつも砦が築かれ、魔族の侵攻を食い止めるための拠点となっていた。
その後、戦線が移動すると、不便な場所に建つ砦はあっという間に無人になった。地元の人間でも居つかない、そんな砦の一つをミハは安く手に入れて、孤児院としたのである。
「ミハ姉、お帰り!」
孤児院まであと少しというところで、ヤンという少年が迎えに来た。物見塔から下山するミハを見ていたらしい。十一歳のヤンは面倒見が良く、今も両手に一人ずつ、幼い子どもの手を引いていた。背中にも一人かじりついている。
「それ、イノシシぃ?」
「いや、これは……」
小さな子どもたちが、ヤンの腕にしがみつきながら恐る恐るミハの背中をのぞこうとする。すると、それまで静かだった老女が突然暴れ始めた。
「何なの? 離しなさい、この無礼者!」
「うわっ」
「きゃあ!」
子どもたちが悲鳴を上げてとびすさる。
腕を振り回され、ミハは危うく老女を落っことしそうになった。慌てて腰を落とすと、老女はミハを突き飛ばすようにしてその背中から下りた。
「ここはどこなの? お前たちはいったい……ああ、わたくしの杖! 杖をお返し!」
ミハは、怯える子どもたちをかばうようにして老女に対峙した。文句の一つでも言ってやろうとしたが、相手の顔を見たとたん怒りは消え去った。
老女の見開かれた瞳に、パニックの色が浮かんでいた。口もとには唾が白い泡となって付着している。
「奥さま、杖はここです。お返ししますよ」
握りの部分を差し出すと、老女はじりじりと近づいてきた。ミハの顔をにらみながら、杖をつかんで奪い取る。ミハは背中に、ヤンと幼い子どもたちの興味津々の視線を感じた。
杖をつくと、老女はようやく人心地がついたようだった。一度背けられた視線が再びミハたちに向けられたとき、そこには迷うような影がさしていた。
「もしかして、あなたはわたくしの……お知り合いかしら?」
「はい、まあ。挨拶は済ませましたね。山の中で」
ミハの言葉に、老女はうなずいた。
「それならごめんなさい、わたくし……ちょっと驚いたものだから」
「いえ、大丈夫ですよ。よろしければ、我が家で休んでいかれては?」
ミハは腕を出し、老女はおずおずとその腕にすがる。二人が歩き出すと、子どもたちもミハの側にかたまって続いた。ヤンがささやいた。
「ミハ姉、この人大丈夫?」
「大丈夫だよ。驚かせたな」
心配そうなヤンに、ミハは笑いかけてみせた。
だが山中で抱いた疑いは、今では確信に変わっていた。この老女は『黄昏の病』にかかっている。
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