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老女は、ナナが期待(?)していた以上の問題児だった。
その日は新しい部屋を用意する暇がなかったので、ミハは老女を自分の寝台に寝かせ、自身は毛布にくるまって眠った。だが翌朝、老女の姿は消えていた。
「奥さまを見た?」
慌てて台所に飛び込むと、朝食当番のヤンと兄貴分のイシクが顔を見合わせ、首を振る。ミハは頭を抱えた。
まさか、また山の中に入ったのでは……
『黄昏の病』にかかった者は、記憶が混乱して徘徊することがあるらしい。森に入れば、行き着く先は山中をさまよった末の死だ。
ミハは朝食も待たずに外に出た。山道に飛び込もうとしたところで、建物の裏手の人影に気づいて足を止めた。
「奥さま!」
老女は、寝間着代わりのチュニック姿で突っ立っていた。ポカンとした表情で、まだ明けきらない空を眺めている。
ミハは老女に駆け寄り、持ってきたケープを肩にかけた。
「こんなところで何してるんですか!」
「星のめぐりを見ていたのよ。何だか悪いことが起こりそうね」
もう起こってますよ! と言いたいのをこらえ、ミハは老女を屋内に入れるべく腕を引いた。呆けた顔をしているわりに、老女はがんとして動かない。
「奥さま、家に戻りましょう。風邪をひきますよ」
「いやよ」
足元を見れば、裸足である。ミハは湧きあがるイライラをこらえた。自分よりも頭一つ背の低い老女のために腰を折り、視線を合わせる。スミレ色の瞳を見つめると、子ども相手にも使ったことのないような猫なで声が出た。
「ねえ、一旦戻りましょう? 家の中からでも、星は見えますよ」
「嘘。全然見えないわ」
「ここだって、全部は見えませんよ。木や建物に遮られてるんだから。だいたい、もう夜は明けかかってますよ。今晩、もっとちゃんとした格好で見に来たらどうです」
「わたくしは、今見たいの。見なきゃだめなの」
「奥さま……」
「ああ、いやだわ! いやいや!」
さらに言い募ろうとしたミハに、老女は両手で耳をふさいで「いやいや」を繰り返し始めた。あまりに子どもっぽい仕草に、ミハの声もつい大きくなった。
「もう、ちょっと、」
「ミハねえ、おくさま!」
そこに、ユイという年少の少女がやってきた。ミハが振り返ると老女も「いやいや」をやめ、両手を耳から離した。
「おくさま、おはようございます!」
ユイは少し緊張した表情で、朝の挨拶をした。
「あら、おはよう」
老女はさっきまで駄々をこねていたのも忘れたように挨拶を返す。
「あなたのお名前は何だったかしら?」
「ユイです。イシクにいちゃんが、ごはんができたのでおくさまとミハねえをよんできてっていいました!」
「それはわざわざご苦労さま。では参りましょう」
颯爽と歩き出した老女を、ミハは呆然と見送った。
「ミハねえ、だいじょぶ?」
ユイが服の裾を引っ張る。ミハは、ユイが老女に対して見せた丁寧な仕草を思い出した。
「ユイ、目上の人に対してちゃんと挨拶できたんだね」
「えへへ。ヤンにいちゃんとれんしゅうしたよ!」
「そうか、偉いね……ミハ姉さんも、ちょっと練習しなきゃな」
ユイと手を繋いで戻りながら、ミハは言った。
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