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老女の調子は山の天気と同じく、先を読みにくい。一日じゅう上機嫌で過ごす日もあれば、孤児院の仲間を誰一人思い出せずかんしゃくを起こす日もあった。だが『黄昏の病』は、確実に進行していた。
ある晩ミハが家計簿を付けていると、部屋の扉がノックされた。
「どうぞ。……ナナ、どうした?」
廊下の暗がりから、ナナが顔を出した。年少の少女が二人、彼女のチュニックにしがみついている。
「ミハ姉、奥さまが……」
ミハは家計簿を閉じて廊下に出た。老女の部屋は、少女たちの寝室のそばにしつらえてある。
「具合が悪そう? それとも外に出て行こうとしてる?」
「ううん、違うの。あの……」
ナナはうつむいた。
「奥さまが、お漏らしをしちゃったみたいで……あたしが後片付けしますって言ったけど、ミハ姉に来て欲しいって」
「ミハねえ、おこらないで!」
ユイが、自分のことのように目に涙を溜めている。ミハは穏やかに言った。
「怒らないよ、怒るはずない。ナナ、たらいにお湯を持ってきてくれる?」
「わかった。さあ、行こうね」
少女たちを見送ると、ミハは予備の布団を出して老女の部屋に向かった。心配そうに顔をのぞかせる子どもたちに「大丈夫だよ」と答え、扉をノックする。
「奥さま、ミハです」
返事は無い。ミハは中に入った。
部屋の中は冷え切っていた。驚いて見回すと、窓をふさぐ戸板が外されて月明かりが床を四角く照らしている。臭いを消そうとしたのだろうか、そんなこと気にしないのに……。ミハは老女を探した。
部屋の隅、月光の届かない暗がりに、老女はうずくまっていた。膝の間に顔を埋め、小さくなっている。ミハはランプに火を入れて窓を閉め、老女のすぐそばに膝をついた。
「奥さま、布団を替えますね。着替えはここに出しました。お湯を用意するので、体を拭いてから着替えましょう」
顔を押し付けている膝の間から、すすり泣くような返事があった。
「……ごめんなさい」
「いえ、謝ることなんてないんですよ」
「なんてこと……恥ずかしいわ」
「仕方ないんですから、気にしないで」
「もういやだわ。死んでしまいたい」
「そんなこと言わないでください、奥さま。顔を上げて」
老女はのろのろと顔を上げた。ミハはそこに、羞恥や怒りよりも強い感情が浮かんでいるのを見た。それは恐怖だった。老いに対する恐怖、自分を自分で制御できなくなることに対する恐怖だった。
ミハは老女の骨ばった肩を両手のひらで包み込んだ。彼女の目をのぞき込み、安心させるように言った。
「奥さま、大丈夫です。この家では、何も不安に思わなくていいんですよ」
「……」
「常に誰かが粗相してますから、予備の布団もたくさんあるし。みんな同じですよ、奥さま。大丈夫です」
ミハは老女にうなずきかけ、布団を変えるために立ち上がろうとした。その袖を、枯れ枝のような指が掴んで引き留めた。
「ミハさん。わ、わたくし……」
「はい」
「わたくしはエリ、……エリーというのよ」
「エリーさん、ですか」ミハは繰り返した。「エリーさん」
ようやくわかった名前を口にすると、胸の内が暖かくなる気がした。
体を拭き、布団に戻ると、エリーはあっという間に寝入ってしまった。ランプの灯を消す前に、ミハはその寝顔を見つめた。
エリーさん、あなたは誰なのだろう。そして、あなたを山の中に置き去りにしたのは誰なのだろう。
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