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木々の隙間に見た赤い影を、ミハは猪だと思った。矢を抜き出しながら距離を測る。高台から見下ろす獲物は豆粒ほどの大きさしかないが、ミハの腕なら十分だ。
弓に矢をつがえ、ゆっくりと引いていく。風向きから軌道を計算し、やじりを少し上げた。今日は血抜きだけして、川にさらしておこう。それなら夕食の支度に間に合う。できれば頸を狙いたいが……そこまで考えたとたん、赤い影が向きを変えた。
ミハははっとして弓を下ろした。猪と思ったのは、緋毛氈のケープを羽織った人影だった。
こんな山奥に、人が――しかも女性が?――いるなんて。
ミハは、人影の見えた地点に向かっていた。慣れた足取りで、山の斜面を滑るように駆け下る。狩りはおじゃんだが、山中で難儀しているかもしれない人を放ってはおけない。やぶをかき分けながら、ひょっとして魔物に化かされているのでは、という考えが頭をよぎった。
しかしその人はいた。ミハが最初に見つけた位置から少しも動いていなかった。切り株に腰かけ、こちらに背を向けている。綿のように真っ白な髪に、痩せて曲がった体。かなり高齢らしい。
彼女を驚かせないよう、ミハはゆっくり近づいて声をかけた。
「奥さま、どうなさいました?」
老女は驚くどころか、振り返りもしなかった。 耳が遠いのかもしれない。ミハがもう一歩踏み出そうとしたとき、ようやく白髪頭が動いた。しわだらけの顔。三十六歳になるミハの二倍は生きていそうだ。向けられた瞳はスミレ色だった。
「そこのお前」
老女は言った。「ええと、名前は何だったかしらね」
「……使用人ではありませんが」
「あらそう? では下がってよろしい」
思いがけない物言いに、ミハは呆気にとられた。まるで貴族の談話室にでもいるような口ぶり。こんな山奥に一人でいることを、どう理解しているのだろう。
「あの、奥さま。お供の方々はどうされたのですか?」
そう問うと、老女は辺りを見回して首を傾げた。
「どうしたのかしらね?」
本当にわかっていない様子だ。ミハは嫌な予感がした。
質は良さそうだが飾り気のない衣服は、外出用のお召しものとは思えない。髪は結い上げもせず、就寝時にするような三つ編みのままだ。靴も布製の室内履きらしい。
しかも、この状況に対する危機感の無さ……これは……
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