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神崎との接触は容易だった。何せ、向かい側のテナントのスーツ売り場にずっといるのだから。私は客がいなくて、暇な時間を見計らって、向かいのスーツ売り場の入り口で所在なさそうにしている神崎に声をかけた。
「この前は、ハンカチ無事届けられました?」
神崎は一旦私を誰かと訝しむような目で見たが、すぐに気づいたようで、はにかむような笑顔になった。
「ああ、届けられましたよ。持ち主も見つかったみたいで良かったです」
人の良さそうな表情で神崎はそう答えた。稔がしないであろう表情、仕草。私はとにかく稔とは違うところを彼に求めていた。
「あと、多崎紗奈はよくやってますか?」
「あ、まあ……。それなりに」
私は多崎紗奈の名前が出たことについて多少の疑問は持ったが、特に深く聞くことはしなかった。
それから軽い雑談をし、私は客が入り始めた自分のテナントに帰って来た。
「もしかして今、神崎さんと話してました?」
わりと仲の良い店員である八枝さんにそう話しかけられる。彼女は私よりも五つほど年上で同じくアルバイトとして雇われている。決定的に違うのは、彼女は結婚しているということ。話によれば、高校の頃子どもができ、そのまま卒業とともに結婚したらしい。そういう人生もあるのだ。だけれど、私は最も自分が綺麗な時期を所帯染みた生活で終わらせるのだけは嫌だった。もっと恋愛もしていたかった。
「そうですけど……。何かありました?」
「あの人、紗奈ちゃんの彼氏らしいよ。恋愛対象としては見ないほうがいい」
身が凍るようだった。まさか、自分が目をつけた男があの、鈍臭くて、気の弱い多崎紗奈の彼氏だったとは。
「ちょっと化粧室に行ってきます」
私はそう言って、テナントから出てトイレに向かう。神崎と目が合い、途中で休憩から帰ってくる多崎紗奈と目が合った。さり気なく後ろを振り返ると、彼らは軽くアイコンタクトを取っているようにも見えた。もちろん、私の見間違いかもしれないが。
化粧室で顔を洗い、鏡に映った自分を見る。目は少し釣り上がり気味だけど大きくて、鼻筋はしっかりと通っている。毎日のケアのおかげで肌荒れもしていない。私にあるもの、ないもの。それらを考えたとき、私は愕然とした。若さだけが取り柄のそのうち醜くなっていくだけの顔。それが何になるだろうか。男を利用するだけ利用して、いなくなればすぐにまた新しい男を作る。そんな私に何の存在価値があるのだろう。神崎と多崎紗奈の関係性など私は知らない。しかし、ただただ慎ましくお互いに惹かれる彼らの姿が瞼の裏に見えて、すぐにかき消した。私は自分を着飾ることだけに必死で、本気で人を愛したことがあっただろうか。それはおろか、人を人として認めたことがあっただろうか。
無性に見てくれなんて気にしないで、走り出したい気分だった。私は化粧室から顔も拭かずに飛び出し、従業員用の出入り口に向かって走り出した。見てくれもなにもない。
向かう先はただ一つだった。こんなにも全力で走ったのはいつぶりだろうか。もしかしたら、人生で初めてかもしれない。ただ、自分が行きたい場所へ私は全力で走った。
息が切れて苦しい、きついハイヒールが足に食い込む、スカートが向かい風で翻る。それでも私は構わず走り続けた。
やっとの思いで辿り着き、インターフォンを押す。少しの間の後、稔が顔を出した。
「稔、あのね」
そう話し出すと、稔の後ろからひょこりと小柄な女性が顔を出す。知ってはいたことだけれど、それを見た私は何も言うことができなかった。
玄関に私が置いていった鏡を覗くと、そこにはみすぼらしい、綺麗でも何でもない冴えない女が映っていた。
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