1人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
「オレ、新しい靴を履くことにしたんだ」
不意に明るい声で勇人が言う。
「スパイクを脱いで、違う靴を履くんだ。その為にいっぱい勉強しなくちゃならない。だからもう、サッカーはやめる。まあ、趣味ではするかもしれないけど、今はいい。時間が足りないから」
時間が足りない? どういう意味だ?
「オレ、馬鹿だから」
「知ってるよ。サッカー馬鹿」
「勉強するために大学行かなきゃいけないけど、大学行くには受験があって、受かるためには勉強しなくちゃいけなくて、馬鹿なオレは今から必死にやらなきゃ間に合わないわけ」
肩をすくめた勇人は妙にすっきりした顔をしている。
「だからって、試合前にサッカー部をやめることはないだろう?」
「試合をしたら、また次の試合があるじゃん。その次の試合が終わったらまた次がある。ずっといつやめるか迷って伸ばし伸ばしにしてきたんだ。本当はレギュラー発表の前にやめるつもりだったんだけど、オレの予想よりレギュラーメンバーの発表が早くてさ」
「なんだよそれ」
座りこむ僕のすぐ前には勇人の腕があった。
その腕には、たくさんの参考書がはさみこまれている。その中に学校案内の資料が挟まっているのが見えた。
「それ……」
見覚えがあった。
なぜなら、僕も同じものを持っているからだ。
「ああ、これ? うん、翔にヒント貰ったっていうかさ、オレ、心的外傷後ストレス障害とかを治す手伝いみたいなの、したいんだよね。あ、実はオレも何回か怪我してそのたびに翔のことを思い出して、翔のおかげで乗り切れたっていうか、だからこそこういう勉強をして将来、苦しんでいる人の役に立てたらいいなと思って」
勇人が何を言っているのかわからなくなってきた。
大体、話が長すぎる。
僕はずっと、勇人のことを無視するみたいにして過ごしてきたのに。
同じ高校に入った時も正直まいったなあ、と思っていたのに。
サッカーで怪我をしてもすぐに復活する姿を見て、鈍感なやつはいいよなあ、とまで思っていたのに。
「それでいいのかよ、お前は」
声が詰まる。
「そんなに、あっさり……」
「あっさり、じゃねーよ。そんなこと、翔が一番良くわかってるだろ?」
どきりとした。
僕の精一杯の虚勢なんて、簡単に見破られていたんだな。
「ボールを蹴るたびに、自分はプロになれないって思い知らされるのはつらいよ」
勇人の肩を掴んだままの、僕の手を勇人が上から軽く叩く。
「なあ、いつかまた、いっしょにボールを蹴れたらいいな」
蹴れるだろうか。
全部忘れて、何もかも忘れて、ただボールだけを一心に追うことが再びできる日がくるだろうか?
「なんで、泣くの」
しゃがみこむ僕の前に、同じようにしゃがみこむ勇人の声が凄く近くに聞こえた。
久しぶりの感覚だ。
昔はいつもいっしょだった。
公園で、ボールを蹴って遊んで、休憩しようぜ、と並んで座ったベンチ。
疲れたあ、と叫んで一緒に座りこんだ中学校のグランド。
ぐずぐずと立ち止まったままの僕、広いグランドで走り回っていた翔は軽やかに僕の前を行く。新しい靴を履いて違う場所へと。
僕だって、と思う。
僕だって走り出せるはずなんだ。
怪我はもう、とっくの昔に治っている筈なんだから。
最初のコメントを投稿しよう!