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「しょうがないだろ。育休なんて取れるわけない」
夜の十時に帰ってきた夫は、わたしが作ったご飯を半分ぐらい残してそう言い放った。お酒の匂いも漂わせながら。
わたしは大きくなったおなかをさする。もう、二週間経たずしてこの子は生まれてくる。木の葉マークが見えたことから、多分、女の子だ。
「ごめんね」
と先におなかの子に謝っておく。これから両親の見苦しい言い合いを見せることになるけど、許してね。
わたしはこの子を授かったとわかった時から、夫に育休の取得をするよう耳がタコになるぐらい言い続けていた。
しかし、夫は「ああ」だの「うん」だの気のない返事しかしてこなかった。
夫は子供が生まれてくること自体はとても喜んでいる。毎日おなかに触れて、子供に話しかけているぐらいだ。
「どうして育休を取ってくれないの?」
わたしは食器を片付ける。この動作も辛くなってきた。出産が近づいてきているせいなのか、ちょっとした動作でもおなかが張ったり、腰が痛くなったりするようになってきた。
その中で頑張って作ったご飯を残されるというのは、正直、イラっとするし、悲しくもある。
妊娠をしていなくても、作ったご飯を残されれば嫌な気持ちになるけど、今はその時の比じゃないくらい、嫌な気持ちになる。そう、皿を叩き割ってしまいたいくらいに。
まして、こんなことを言われればなおさらだ。
「会社に迷惑をかけるわけにはいかないだろ」
わたしは食器をシンクの中に置く。ガシャガシャガシャン! という必要以上に大きな音が鳴ってしまったのは、仕方ないことだ。
わたしは一つ深呼吸をする。夫はテレビを見るためにソファーに移動しようと腰を上げた。
それをわたしは言葉一つで引き止める。
「ねえ、会社に迷惑がかかるっていうけどさ、それってどんな迷惑なの?」
夫の双眸がわたしに向けられる。そんなこともわからないの? とでも言いたげだ。
「わかるわバカヤロー! わたしだって産休に入るまではバリバリ働いてたわ!」
と言ってやりたかったけど、喉元で必死で食い止めた。声を荒げたところで何ら意味がない。冷静に冷静に、とにかく冷静に、だ。
「それで、会社にどんな迷惑がかかるの?」
「どんなって、俺以外の人間に俺の仕事が割り振られるだろ。それって迷惑だろ」
「うんうん、たしかにそうだね。それは迷惑だね」
「だろ?」
わたしの同意が取れたと勘違いした夫は、また、腰を上げようとする。もちろん、それをわたしが許すはずがない。
「じゃあ、こう考えてみよう。子育てというプロジェクトがあります」
子育てを仕事とは言いたくないから、プロジェクトという言い回しにした。
「それはあなたとわたしの二人だけのプロジェクトです。その中にあって、あなたは他のプロジェクトがあるからと、そのプロジェクトにはあまり参加する気がありません。それはわたしに対しての迷惑にならないと?」
夫の目が見開かれ、わたしから目をそらした。
夫の理論で行けば、夫がやろうとしていることは、わたしに迷惑をかける行為になる。
「ところで、あなたのいる部署って何人いるの?」
「……十人ぐらい」
「なるほど。じゃあ、あなたを入れたその十人で仕事をしているってことだよね?」
「まあ、そういうことだな」
「こっちは二人のプロジェクトなんだけど? 一人がいなくなったら、そのプロジェクトの遂行って大変だと思わない? 会社員だからわかるよね?」
夫の目が明らかに泳いだ。本当にわかりやすい。おかげでわたしの言いたいことが伝わったことがわかった。
「でも、俺しかわからない仕事があるわけで。そうだ。十人いても、俺しかわからない仕事があるんだよ! だから、俺がいなくなったら、その仕事が回らなくなる!」
「もしもあなたが病気とかで倒れて出社できなくなったら、その仕事ってどうなるの?」
「それは、まあ、他の人が引き継ぐんじゃないか」
「そうだよね。じゃあ、そうすればいいんじゃないの? 誰かにあなたしか知らない仕事を引き継いでもらえばいいんじゃないの? それにそもそも、その仕事をあなた一人でやる必要はないでしょ。十人もいるんだから」
言外にこっちは一人なんだけど、というプレッシャーをかけておく。
これはあえて言わないでおくけど、自分しかわからない仕事を持っていることは、仕事をしていた身としては良くないことだと思う。
夫にも言ったが、病気とかで倒れた時にそれを誰も知らなければ引継ぎようがない。もしかすると、その中に大事な取引先との商談などがあれば、引き継がれていないことによって、約束をすっぽかしたりすることになり、企業のイメージをダウンさせることにもつながりかねない。
だから、誰がどんな仕事をしているのかは、上司なり同僚なりが把握していなければならない、とわたしは思う。そうすることで、不祥事だって防げる可能性は格段に上がる。
「でも、それはほら、俺だからできる仕事っていうか」
「国のトップの総理大臣ですら、変わったって仕事は回る。回さなきゃいけないっていうのもあるけど、仕事が回ってるのは事実だよね」
「それはさ、他にフォローする人がたくさんいるからじゃん」
「あなたの周りにも九人はいるよね? 総理大臣じゃないんだから、それだけいれば十分じゃない?」
「十人いるっていっても、同じ仕事をしているのは俺を含めて三人ぐらいだから。俺が抜けちゃうと、二人になっちゃうんだよ。あ! それに二人は一年目と二年目だから、俺がいないとさ、二人も困っちゃうだろ?」
「わたしは子育て一年目だけど? かつそれで一人になるんだけど?」
夫が鼻白んだ。
「でも、子育てって赤ちゃん一人をみるわけじゃん。だから、一人いれば何とかなると思うんだよね」
「うんうん。じゃあ、仕事って一つだから、一人いればいいよね」
「いや、仕事は一つじゃないから。例えば、取引先にアポ取ったり、資料を作成したり、予算を考えたり。それを複数の企業相手にやらないといけないから忙しいんだよ」
「うんうん。子育ては、子供にミルクを上げたり、泣いているのをあやしたり、寝かしつけたりするよね。それに子育ての間にご飯を作ったり、部屋の掃除をしたり、洗濯をしたり、買い物に行ったりもするよね。子育てもやることは一つじゃないよね?」
「別にやらなくてもいいんじゃない?」
一瞬、青筋が立ちそうになる。努めて冷静に、冷静に、と自分に言い聞かせる。
「家の中がほこりまみれになってもいいわけね。毎日ごはんがなくてもいいわけね。明日着ていくワイシャツが、昨日着ていたしわっしわのワイシャツでもいいわけね」
「いや、別にやらなくてもいいって言ったのは、毎日やらなくてもいいっていう意味だから。完全にやらなくていいってわけじゃないから」
わたしは深いため息をついた。わたしがやる前提で話が進んでいることに気が付いてるのだろうか。これは反語だ。気が付いてない。それが当たり前だと思っているから、気づくこともできていない。
正直、呆れた。
もう、この際だから、ハッキリ言わせてもらおう。
「あなた、会社に迷惑かけたくないんじゃなくて、会社から離れたら自分の居場所がなくなることを恐れているだけよね」
「そ、そんなことはない……」
図星だ。恐らく、夫の営業成績は良くない。だから、これ以上評価を下げることをしたくないのだろう。
それが家族の評価を最低限まで下落していることには、まるで気が付いていない。思わずため息が漏れてしまう。
「俺が休んだら、収入だってなくなる。そうしたら、困るだろ!」
「いや、そうならないように家計をやりくりしてあるから大丈夫。あなたが無収入だったとしても、一年ぐらいどうってことないぐらいには貯蓄してあるから。それに、手当が出るから、給与がゼロになるからといって収入がゼロになるわけじゃないから」
「え、そうなの?」
そんなことも知らないのか。反射的に頭を抱えそうになってしまった。
もう、この際だからハッキリ言っておいた方がいいだろう。
「育休、取らなくてもいいよ」
「本当か!」
「うん。でも、仕事は早々に見切りつけた方がいいよ」
「なんでだよ!」
夫が気色ばんだ。それには付き合わない。あくまで冷静に。
「多分、今の担当でいるのは無理だから。外されるのも時間の問題だし、下手をすれば大きなミスをすると思うよ」
「なんで、お前にそんなことが言えるんだよッ!」
顔を赤らめる夫。眉は跳ね上がり、目つきも厳しいものになっている。
けれど、わたしはそれに怯んだりしない。
「わたしが取引先でも、今、わたしに言ってきたこと言えるの?」
「言えるわけないだろ!」
「どうして?」
「そんなことを言ったら、取引してもらえなくなるだろ!」
「それなのに、わたしとは取引、いえ、ちゃんと言っておくわね。わたしと一緒に暮らせるとと思っているの?」
夫の目が見開かれた。今更気が付いたのか。呆れた。
「取引先との商談で、真っ先に出来ません、無理です、わたしには会社と交渉する力はありません、とは言わないよね」
夫の顔色が青くなっていく。わかりやすくて助かる。
「あなたはさっきから、育休を取れない理由ばっかりを並べてる。わたしの言葉も全部否定しようとする。取引先との商談なら、難しい問題でもどうしたら実現できるか、それを考えるよね。それなのに、家族の問題になると途端にそれをしなくなる。できない、できないと連呼して、考えることも放棄して、その言葉を繰り返す。それって家族に対しての甘えでしょ。家族なら許してもらえると思ってるんでしょ?」
「そ、それは……」
「あなたは何のために仕事をしているの? あなたは何のために出世をしたいの?」
「それは家族のため……そうだ! 俺が稼いでこなかったら、食費だってなんだって支払えなくなるだろ。俺は家族のために働いてる! だから、育休を取って自分の立場を悪くするようなことをすれば、出世も遅れて稼ぎが増えなくなる。結局は家族のためにならない! 違うか?」
「その家族が働くよりも育児を一緒にやって欲しい。それが一番家族のためになる。そう言っているのに、それを無視して?」
「え、あ、う」
家族のためと言いながら、その家族が一番家族のためになると言っていることはしない。結局それは、家族のためではない。
「いいよ。百歩譲って、働かないとお金が足りなくなるとするよ。じゃあ、わたしが働く。あなたが育児をやって。それなら何の問題もないでしょ。まあ、復帰するまでに体調の都合があるから少しかかるかもしれないけど。別に構わないでしょ。家族のためにお金が必要なら、わたしが働くでもいいわけでしょ。最終的な目的は、家族にお金ること。その目的が達成されるなら手段なんて何でもいいでしょ。違う?」
「いや、世間体もあるし……」
「家族よりも世間体を気にするってわけね。そもそも世間体って何? 男の人が家にいて、女の人が働きに出ていることが悪いことなわけ?」
「いや、そんなことはないけど」
「けど?」
夫から次の言葉は出てこなかった。取り繕って否定はしてみたものの、本心を突かれているから、何も言えない。
このまま沈黙していても何の意味もない。わたしが続ける。
「ねえ、逆には考えられないわけ?」
「逆?」
「これからの時代は男性が家庭を守ることが増えていくかもしれない。俺はその先駆者になっているんだって思えない?」
「いや、でも……」
「いや、でも、何?」
やはり夫は次の言葉が出てこないようだった。とりあえず否定しているだけだ。何の思考もない。
だからわたしが続ける。
「会社でも同じことじゃないの? 先駆者になる。前例のない偉業を成し遂げる。そういう気概が求められるんじゃないの?」
「そうかもしれないけど」
「じゃあ、なんで家庭のことになるとそう考えられないの? 世の中? 世間? それがどうしたって言うの? あなたが気にしているのは、あなたのプライドだけなのよ!」
夫は絶句していた。
「わたしには、おなかの子にはあなたが必要なの! 残念ながら、世間にも、会社にも、あなたやわたしの替えがいくらでもいる。一時的に困ることがあったとしても、その一時を過ぎれば元通りに戻る。そしてその一時は短ければ数日、長くても数か月。だけど、わたしにあなたがいなかったら、そんな時間が目じゃないぐらい困り続けるの! だから、わたしの、わたしたちの傍にどうしたらいられるのかを考えてよ! 自分のプライドのためじゃなくて、家族のために、どうするのが最善かを、考えてよ! 考え抜いてよ!」
夫は目を伏せた。
二人の間で沈黙が続いた。もう、わたしから言うことは何もない。ボールは夫が持っている。
三十分は待っただろうか。ようやく夫は口を開いた。
「……少し考えさせて欲しい」
絞り出すような、弱弱しい声だった。わたしの言葉が夫に深く突き刺さっていることがよくわかった。
思わず嘆息を漏らしそうになった。
即答して欲しかった。二人の傍にいるって即答してもらいたかった。
だけど、この人にそれを望むのは難しいということは、わたしが一番よく知っている。
「……いつまでに答えを出すの?」
「……明日の朝までには」
「わかった。待ってる。わたしはあなたを信じてるから」
わたしはおなかを支えながら立ち上がり、ベッドへと向かった。
もうあおむけで寝るのは難しい。横になったとしても、苦しいことが増えてきた。
「ちょっと興奮しすぎたかな」
おなかの子がわたしの感情に合わせて手足をばたつかせているようだった。そこかしこに手足の衝撃が伝わってくる。胃袋も圧迫されて、ご飯が逆流しそうだ。
でも、不思議と気分は悪くなかった。多分、全てを吐き出したからだろう。
わたしはおなかにそっと触れた。大丈夫だよ、と伝える。
おなかの子はそれで安心したのか、落ち着きを取り戻したようだった。
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