開戦前夜(加筆修正版)

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「もともと妻が勝手にポケットに入れたものなんだ。俺はあまり食べないし、家にはまだまだある」  男は別段飴が好きでもないが、巡回中小腹がすいた時のためにと彼の妻が持たせた。煙草を嫌うかわりに飴が好物だった前任者と顔を合わせる度、その大半を譲っていたが、最近は手付かずのままポケットに押し込まれていた。  まだあるといわれたことで、遠慮がなくなったらしい。じゃあいただきます、といって、少女は包み紙を受け取り、持っていた袋の中に丁寧に入れた。 「代わりと言ってはなんだが、教えて欲しいことがある」 「なあに?」 「最近の子供はどんなおもちゃが好きなのか教えて欲しいんだ」 「おもちゃ?」 「ああ、誕生日に買ってやりたいと思っているんだが」  そこで、彼女は心得たという顔をした。 「おじさん、子供がいるのね? ああ、でもおじさんみたいな人だったら親戚の子にあげたりもするのかしら」 「いや、君のいう通り息子がいる。その歳で世情もわかっているとは、やはり賢いな」 「別に賢くなんかないわ。学校の成績は中の上がせいぜいだから」 「中の上だったら十分だろう。ーーー俺の息子もまだ小さいから、弟がいる君ならどんな物がいいかわかるんじゃないかと思って」  男が飴をすべて渡したのが功を奏したらしい。少女は、自分の弟やその友達が好む物から、いま流行っている遊びにいたるまで懇切丁寧に教え、男と一緒にプレゼントの候補を考えてくれた。 「……ぬいぐるみもいいけど、男の子なら、戦車とか飛行機の模型を贈ればとっても喜ぶと思うわ。うちじゃ買えないけど、おじさんなら大丈夫でしょう?」 「ああ、まあ、そうだな」 「あとは、兵隊ごっこができる子供用の制服とか。おもちゃの銃もいいかも」 「なるほど」  男は、自分が子供のころとは様相の異なるラインナップに、迫りつつある現実を実感しながらうなずいた。 「役に立つかしら。私が思い当たるのはそれくらいなんだけど」 「いや、とても参考になったよ。これで息子に喜んでもらえそうだ。ありがとう」 「どういたしまして」  その時、街灯が一際はっきり明滅した。  男が眩しさに顔を顰めてあたりを見回すと、いつの間にかかなり暗くなっていた。いまは自警団があちこちを仕切りに見張っているため、この街の治安はそれほど悪くない。だが、少女にとっては歩くのにやや心細い時間だろう。 「もうこんな時間か。引き止めてすまなかった。家までちゃんと帰れるか?」 「ちゃんと帰れるわ。道は覚えているし、地図もーーーいえ、とにかく道をちゃんと覚えているもの」 「そうか。さすがだ」 「私を子供扱いしてるのね。失礼しちゃう」  心底不満そうにいう少女に、男は思わず苦笑した。 「別に子供扱いなんかしてないさ」  君はかつての俺よりもずっと大人だ、と続けて小さくつぶやいた声は少女には届かなかった。 「おじさん、飴、ありがとう」 「ああ。気をつけてな」 「ええ。……本当にありがとう」  少女がはにかみながら礼をいい、踵を返す。今度こそ、少女の姿は通りの向こうへ消えていった。  その後ろ姿を見送ってから、男は少女の荷物を調べ忘れたことに気がついたが、すぐにどうでも良くなった。  もともと本気で調べようとしていたわけではなかったし、気になるものが視界にうつり込んだからだ。  少し離れたところに紙片が落ちている。袋を取り落とした際に一緒に落ちたことに、少女は気がつかなかったらしい。  男が紙片を拾い上げる。紙片は少し湿っていた。男は、ラジオで今夜は雨が降るだろうと伝えられていたことを思い出した。最近になって気象予測の精度が格段に上がり、市民は諸手をあげて喜んでいた。もっとも、それが敵国に惨禍をもたらさんとする努力の賜物であることを、男は知っている。  紙片の表には何も書かれておらず、男は紙片を裏返した。  そこには、いくつかの幾何学模様と意味不明な文字の羅列があった。  それらをざっと見て、自分を含めてわかる者にはわかるだろう、と男は思った。  それは暗号地図だった。おそらくは、少女とその家族がひっそりと暮らす場所へ辿り着くための。  他の者に拾われなくてよかった、と男は安堵した。と同時に、懐かしさがこみ上げた。  男も昔、暗号地図を使っていた。まだあの少女と同じくらいの年だった頃だ。  ただし、男が匿っていたのは、家族ではなく犬だった。  垂れ耳で、怯えながらも希望を宿した目をしていて、大きかった。  彼と一緒にいたのは一年にも満たない期間だった。別れは突然で、まだ幼かった男の失敗が原因だった。だが、その短い交流は今となっても、男にとって苦くもかけがえのない記憶として思い出された。  男は思い出に浸りながら、懐からライターを取り出し、数回押して点火したあと、紙片に火をつけた。  火は少し時間をかけて燃え広がり、小さくなっていった紙片は男の手から地面に落ちて、やがて灰になった。
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